かしこいということ
「お帰りなさあい!」
扉を開けるのとほぼ同時に、膝のあたりに軽い衝撃を感じた。
下を向くと金色のおさげが足元でぴょんぴょんと跳ねていて、そこでようやく男は笑顔を見せた。
「ああ、ただいま」
片膝をつき、買ってきた荷物を床に置いて娘を抱きしめる。
熱烈な抱擁に娘は無邪気に笑うが、男の顔が引きつっているのを見て目を瞬かせた。
「お父さん?」
子どもは大人の感情の機微に聡い。理由はわからなくても、父が落ち込んでいるのを励まそうと柔らかい手でその頬に触れた。
子ども特有の熱めの手が熱い雫に触る前に、彼は娘の肩に顔をうずめる。
少女は年齢に似合わぬような静かな顔で、それを受けいれた。
「お父さん、泣いてるの? いたい?」
「……痛くないよ。いや、ちょっとだけいたいかも」
間をおいて答えた声は震えも躓きもしなかった。
だけど濡れてもいない肩が熱くて、少女は届かない手でそっと父の背を撫でた。
「………お前は賢いな」
しばらく後、ぽつりと男が呟いた。
なんの脈絡もない言葉だったが、少女は頬を綻ばせる。
「うん! あのね、もう掛け算ができるようになったんだよ! おつかいの時もね、何個買ったらいくらかちゃんとわかるの」
「そっか。もう掛け算までできるのか。流石だな」
今までの空気を蹴散らすようにいっそ能天気な言葉に、男もそっと上体を起こして娘の頭をなでる。
「もっともっと勉強しなさい。この先、賢くないと生き延びる事のできない時代がくるだろうから」
「うん!」
「だけどな。能ある鷹が爪を隠すように、お前も賢さをひけらかしてはいけない」
「ひけら…かす?」
「お前の賢さで人を救えても、いざという時には低能を演じなさい。時代はまだ賢い女を望んではいない。きっとその暗い時代が終わる時がくるだろうけれど、それまでは賢くないふりをしていなさい」
「じゃあ、ばかの方がいいの?」
「お前が賢さを隠すほど賢くなりなさい。元気で明るくて仕事熱心な理想の女性を演じられるほど賢くなりなさい。そうすれば、今の時代では幸せになれる」
「うん、わたし頑張るよ!」
「そうだ。賢かろうと賢くなかろうと、努力は美徳だ。目上の者のことをよく聞き、弱者のことを守れるようになりなさい。
……いい子だな、お前は」
「うん! わたし、お父さんの言った事ちゃんと覚えてるよ! だからだいじょうぶ!」
何が大丈夫なのか、おそらくよく分かってはいないけれど。
いつになく自信にあふれた娘の姿に少なからず励まされて、男はもう一度子どもを抱き寄せて目を閉じた。
瞼の裏に広がる、今でも焼けつくような緋。
賢過ぎた故に反感を買った最愛の人の影と、駆け抜けた暗い森の獣道。
「お前は賢くなるぞ。なんといっても私の娘だからな!」
「うん! お父さんすごいもん。わたしお父さんみたいになるよ!」
鼓膜になおも残る断末魔は、彼を苛んで未だやまない。
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