光と闇の境界線
モリは既に凪いでいた。
黒き死の病も、輪を描く七つの墓標も、屍揮者の腕が降りるのをじっとまっている。
既に屍揮者は壇上を去った。楽団を終わらせるのは遺された策者の役目だ。
モリと病と墓標に囲まれた井戸の縁に腰掛けて、イドルフリートは一瞬の逡巡の後、膝に乗せた本の最終頁にペンを走らせた。
童話とは一番幸せな部分で終わらせるものだ。その後どんな苦難が登場人物に待受けていようとも、「Ende」の文字を見た子どもたちは満足して本を閉じる。
そこで童話は終わり。また本を開けば、最初から何度でも繰り返すハッピーエンド。
だが、作者はそこで終わらないと知っている。この先女優たちがどの様に老いて、どの様に裏切られ、そしてどの様に死んでいくのか識っている。
だからこそ策者は、此処で本を閉じた。ぱたん、という音とともに挟み込まれた空気が彼の髪を揺らす。
「イドルフリート」
いつの間にか、男の隣に少年が同じように座っていた。銀の髪が月光を跳ね返し、淡く輝いているようにも見える。
彼がいた事に酷く驚いたのか、イドルフリートは眉をあげて彼を見た。少年は澄ました顔で膝に置いた人形を撫でている。布と綿でできたそれはもう動くことも無く彼の腕に収まっていた。
「メル、何で此処に居る?」
「居ちゃ駄目でしたか」
「もう此処にお前の居場所はない」
一旦台から降りた屍揮者はアンコールの声がかかるまで勝手に戻ってきてはいけない。けれど、もうこの楽団にアンコールがかかることはない。
役目を終えた屍揮者は脇目もふらず家に帰るべきだ。そこには彼の愛しい家族と恋人が待っているのだから。
酷く冷たい声を出したイドルフリートを、メルは年齢に似合わず大人びた笑みで流した。ひどい、と肩をすくめる。
「イドルフリート」
「うるさい」
「聴いて下さい」
「だまれ」
わずらわしいと手を振って、井戸から立ち上がろうとした彼にメルが後ろから抱きついた。
がくんと体が引っ張られて、イドルフリートが元通り井戸の上に戻る。
「、メル……!」
「聴いて下さい」
カッとなって腰に巻きついた手を振り払おうとしたイドルフリートに、冷静な声でメルは言った。
男と少年の体に挟まれた人形も、手を広げて抱きついているような錯覚に陥る。
しばらく後、大きな深呼吸をしてイドルフリートは「手短に話し給え」とあきらめたように言う。
それに安堵して、メルは背中に顔を付けたまま思い切り息を吸い込んだ。
「ぼく、しあわせでした」
「死んでしまったけど、そのことはすごく悲しかったけど」
「ぬるま湯に浸かって生きていた時と同じぐらい、イドルフリートとエリーゼと一緒に屍揮をすることは楽しかった」
「それでエリーザベトとまた出会って、こうして朝に逝けることが、たまらなく嬉しいんです」
「全部、イドルフリートのおかげだから」
白々と明けてきた空が月を隠しだした。だんだんと青みがかる空に、今日は晴れるだろうなと思う。この分厚い木々をも通り抜けて、陽が差しこんでくる。
夜が、明ける。
じんわりと、彼とイドルフリートが接している背中から温もりが染み渡ってきた。二人とも既に屍体であるのに、この暖かさは何処から来たのだろうか。
嗚呼、でも彼が言っていたじゃないか。その温もりの名は、ただの熱素ではなかったと。まさか、声を貸し、身体を貸し、その代わりに舞台に上がってもらうだけの関係にそんなものが芽生えているなんて思ってもみなかったけれど。
「僕は父を知りません。一度訊いたら、ムッティがとても悲しそうな顔をしたから」
「でも、きっと父親っていうのは、こういう人なんだろうなって思います」
地平線が酷く眩しい。まだ太陽は姿を見せていないが、きっと数えている間に昇るだろう。
闇を駆逐して朝が来る。この宵闇を踊った地平線にも、
「ありがとうイドルフリート。イドルフリートは僕のファーティです」
暁光が差した。
直に刺さる光の眩しさに反射的に目を細める。一気に白に支配された視界を持て余していると、するりと背中から温もりが逃げた。
「っメル、」
思わず逃げたものをつかもうと腕を伸ばす。が、眩んだ目ではメルの影すら捉えられない。
朝だ、と周りが歓喜に満ち溢れるのが聞こえる。森が息を吹き返す。水面が波打ち、風が通り過ぎる。
随分と長く宵闇に沈んでいた世界が、陽の光を浴びて生きかえる。
その生の息吹に掻き消されそうになりながらも、イドルフリートの耳は微かに声を捉えた。
「もう行かなきゃ、エリーザベトが待ってる」
春風がイドルフリートの髪を荒らし、思わず目を閉じた。
観客からの惜しみない拍手を背に、屍揮者が還っていくのが瞼の裏に映った。
イドルフリートの手は空を切った。
「メル……」
取り残されたのは策者。
彼の中の衝動は屍揮者という出口を失って、井戸の中で渦を巻いた。
頭上では、青空を悠々と鳥が飛んでいる。
届かないことを知っているから、イドルフリートは手を伸ばさなかった。
美しく去って逝ったメルのようにはなれないと、目的を失ってなお策者はペンをふるう。
彼の元に暁光は未だ差さない。
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