私が至る夜




 物心ついたときには、既に街の修道院で暮らしていた。
 深い森の中にひっそりと肩をすくめているような街の片隅は、私にとっては酷く薄暗くて。
 朝起きてお祈りをし、昼は労働と神学に勤め、またお祈りをして床に入り、そうしてまた朝が来る単調な生活。日々戒律を守って暮らす修道士も、与えられた生活に満足しているような同じ年頃の仲間もみんな等しく退屈で、私一人が歯噛みしているような気がした。
 自分で何かを考えることもできない低脳共。そんな考えはいつしか、自分から一歩引いて周りを見る癖になった。
 つまらないことで笑い合う子供達も、毎日毎日変わり映えもしないことを延々と説教する大人も、みんなみんな馬鹿ばかりだ。
 他人を見下して憚らないような態度を取るくせに大人達とは軋轢を生まないよう如才なくふるまう私は、なるほど他の子供達からすれば本当に嫌な相手だったのだろう。

 そうして私はある日教会の裏手にある井戸の側に呼び出され、その子供達の手によって井戸に突き落とされた。



 寒い。
 底に湛えられた井戸水は酷く冷たく、既に体の末端から感覚を奪っていた。
 円く切り取られた空は朱く染まり、もうすぐ宵闇が訪れようとしているらしい。
 私を突き落とした子供達の声はとうに聴こえなくなった。今になって怖気ついたのか、そそくさと離れて行ってしまったようだ。見届ける覚悟も無いなら最初からそんなことをしなければいいのにと嗤うことは出来なかった。
 大声で助けを呼ぶのは無闇に高いプライドが邪魔をした。それでも、この井戸の底から誰の手も借りずに登るのは不可能だろう。
 そう気づいた時にはもう、声を上げる体力すら失っていた。
 必死に壁にしがみついている指が細かく震えている。この体制を保てるのも時間の問題だ。

 此処で死ぬのか。

 漸くふつふつと自覚が湧いてきた。そうか、私は此処で死ぬのか。こんな、冥い井戸の底で。誰にも見とがめられず、汚い水死体となって発見されるのか。私は。
 心臓の音が井戸の中に反響しているような気がした。重低音が頭をがんがんと揺らす。ひどい頭痛が頭を襲った瞬間、手が滑り落ちて私は井戸の底に沈んだ。



 目を覚ますと、明るい星々が私を照らしていた。そう気付くのに暫しの時間を要した。
 最初は目が動くことすら気づかなかった。体の隅々まで意識して、それでも五体満足であることに戸惑いを隠せない。
 指が曲がる。足が動く。そうして普段の何倍ものろのろと時間をかけて身体を起こすと、隣に物言わぬ儘井戸が佇んでいた。

 落ちた、と思う。確かに私は突き落とされて、井戸に溺れて死んだはずだ。肺から水が溢れる感触も、下から何者かに引っ張られているかのような気分の悪い重力も、全部全部夢などではなかった。
 けれど、そんなことは微塵も感じさせないように身体も服も乾いている。多少夜露に濡れてはいるけれど。
 振り向くと、修道院の窓に灯りが燈っていた。ざわざわと騒がしい声が聞こえるのは丁度夕食の時間だからか、それとも姿の見えない私を探しているのだろうか。
 指を握りしめると酷く冷たかった。屍体の温度だ、となんとなく思う。
 私は確かに死んだのだ。あの時の死の衝動は、決して勘違いではない。

 夢なのだろうか。死に至る瞬間、生と死の境界で揺らめく私が、生にしがみ付く儘見ている夢なのだろうか。
 その想像はとてもしっくりきた。なるほど、この現実感のなさも、全てはそのせいなのだ。
 いっその事気付かないふりをして躍ってやろうか。どうせ一瞬後には死んでいるのだ。今更何が起ころうと、大して変わりは無い。
 そして、私は一歩足を踏み出した。



 「イドルフリート!」
 玄関から戻ると、青褪めた初老の修道士がすっ飛んできた。やはり、私を探していたらしい。
 「何処に行っていたのですか? 貴方がこんな時間になっても戻っていらっしゃらないから、もしかしたら何かが起こったのかと……」
 「申し訳ありません、Bruder。昼間、あまりに良い天気だったものですから、外に出て読書をしていたらうたた寝をしてしまったのです。ご心配をおかけいたしました」
 「そうですか。嗚呼、でも無事で本当に良かった。寒かったでしょう、早く着替えて、それから暖かい物を出しましょう。風邪をひいているかもしれませんから」
 そういって私の肩を抱いて進む様促した修道士は、本を読んでいた筈の私が手ぶらであることになんの不審も抱かなかった。
 通りがかりに食堂を覗くと、私を突き落とした張本人である少年達が揃って目を剥いていた。確実に死んだと思っていた相手が戻ってきたら、それはもう恐ろしいだろう。
 けれど、もう何の感慨も湧かなかった。



 勉強をしに外に出たい、と申し出たら修道士は快く頷いてくれた。
 昔より皺の増えた顔を穏和に歪めて、貴方がそうしたいのならそうするべきでしょう、と言ってとうに彼の身長を追い越した私の頭を撫でた。
 船乗りになろうと思ったのはほんの気まぐれだった。海が見てみたかったのだ。街を囲む森は、地上の海と謳われることはあっても決して蒼くはなかったから。
 本で唯文字としてしか見たことのない海を、私の想像は上手く描けるだろうか。私の夢では、私の限界までしか世界は広がらないだろう。
 それでも、死せる私を満足させるための夢なら、それなりに美しい物が広がっているのだろう。
 "楽しみ"とか"期待"などと言う気持ちは、何も生者だけの者ではないようだと、口の端を釣り上げてみた。それでも、愉快な気分にはならなかった。



 思ったより海という物は美しかった。けどその美しさを楽しんだのも精々一週間かそこらのうちだった。
 慣れない異国での生活、通じない言語、街ゆく人々には奇異の目で見られ、大学の中でも何かとのけ者にされる。
 それでも余り辛いとは思わなかった。基本的に新しい事を憶えるのは好きだったし(本当に"新しい"事なのだろうか、私の頭のどこかから引っ張りだされてきただけなのではないだろうか?)奇異の目で見られるのにも慣れっこだった。
 何よりここは、酷く開放的だった。
 陰鬱な森などないし、訳の解らない掟や魔女狩りなんて存在もしないという。それだけで、故郷に居る時より肩の力が抜けたというのも嘘ではない。
 彼の地で私を送り出してくれた修道士たちには大層嘆かれるだろうが、この頃から私は女遊びに精を出すようになった。
 昔たまに外で見かけた様な粛々として顔色の悪い気弱そうな女とは違う、快活で陽気な彼女達が珍しかったのもある。
 けれど、彼女達の細い腰を抱き寄せた時。朝目を覚ます前の、隣にある自分より高めの体温を感じた時。
 久々に感じた"生"の馨しさに中毒した。
 彼女達を通して知りもせぬ母を見ているのだと学者なら言うかもしれない。それでも構わなかった。それがつまり手にしたこともない物の投影だとしても、彼女達はそれを甘んじて受け入れている様だった。
 心のどこかでいつも囁いていた"死"はいつの間にか小さくなっていて。あの体験こそが夢だったのだと笑い飛ばすことは出来なかったが、毎日死を背負って往かずともいいというのは酷く楽だった。
 大学を卒業して、船乗りとして海に出て。毎日早起きして陽を浴びる生活をしていれば、なるほど死の夢なんて考える暇すらないぐらいだった。
 気がついたら家庭を持って、驚くほど柔らかい我が子を腕に抱いた時にはまた"夢かもしれない"なんて思ったけれど、笑って流せる余裕すら出てきたくらいだった。
 流行病をこじらせた妻と死別して、娘を余所に預けることになったときには"夢であってくれ"と願った。この時を切り取るなら、私はただ井戸に至る夢を見た一人の男だったのだ。
 相変わらず女遊びは続いていたが、それすらも含めて言うなら、確かにそれは幸せであった。



 「イドルフリート」
 「ん……なんだ、コルテスじゃないか。何か用かい」
 遮るもののない陽射しで存分に温まった潮風を浴びながら振り返った先には、なにやら険しい顔をした将軍殿が突っ立っていた。散らばる髪をうっとおしげに掻き上げると、コルテスはこれ見よがしに溜息を吐く。
 「いや……なんだか最近顔色が悪そうだからな。体調が悪いのかとも思ったけど、全然大丈夫そうじゃないか」
 「そうかい? そうだね……船の上には女性がいないからね。もう二ヵ月もあの神秘の球体を見ていないよ! 気が狂いそうだ」
 「へ、そうかよ」
 これ以上相手にするのも馬鹿馬鹿しいとでもいうようにコルテスは笑って踵を返す。と、真面目な顔をして振り返った。
 「でもな、お前この頃なんか変だぞ。たまに人の話聴いてないしな」
 それだけだと言って今度こそ手を振って去って行くコルテスに、そっと眉を顰めた。

 長期の船旅に出るのは何も今回が初めてではない。半年も一年も海の上にいるなんてざらだし、だからこそ私も娘を泣く泣く手放したのだ。
 なのに、何故だか身の内に潜む死の衝動が強まっているような気がしてならない。
 随分とその感覚を忘れていた身では、なかなか昔のように上手くあしらうことが出来ないでぼーっとすることが多かった。
 嫌な予感が胸の底からふつふつと湧いてくる。黒く凝ったそれを吐き出そうと、ゆるく首を振った。
 大丈夫、何も起きないだろうと自身に言い聞かせるには、その暗闇は大きすぎた。



 冥い夜の森を駆け抜ける。
 頭上から覆いかぶさるように生い茂る木々も、後ろから騒々しく走ってくる追手も、全てが私を追い詰めた。
 何のことはない、嫌な予感が現実となっただけだ。
 そろそろ夢から醒めろと、死が私を手招きし始めた。
 冷たい、寒い、呼吸がし辛い。まるで井戸の底みたいじゃないかと自嘲する。事実、このままだと本当にそうなってしまうだろうが。
 嗚呼、嫌だ、嫌だ。昔はなんともなかったのに、今になって死ぬのが途端に嫌になってきた。
 世界に絶望していた頃とは違って、例え偽りの世界でも愛は暖かい物だと知ってしまった。気の合う友人と笑い合うのは楽しいのだと知ってしまった。未練が私を現世に引き留めようとする。例え夢の中だとしても。

 延々と重い身体を引きずって走っていると、突然目の前が開けた。その中心には、私を待っていたかのように井戸。
 出来過ぎたまでのその光景に思わず立ち尽くすと、背中に重い衝撃が響いた。
 咄嗟に身をよじろうとして、叶わなくて、そのまま、


















 気付けばまた井戸の底。見上げた空はあの時と変わらず星が瞬いている。逃げきれないよ、とでもいう様に。
 思わず手を伸ばそうとしたが体が動かず、とうに肉体は朽ち果てていたことに気付いた。
 これは何時の自分なのだろう。幼い頃井戸に突き落とされた私? それとも、新大陸で息絶えた私か。
 それを確かめる術すらないことに、衝動が身を劈いた。

 私は生きていたのだろうか? あの暗い時代を、海を、森を駆けた私は其処にいたのだろうか。
 愛すべき友人は、愛しい娘は、確かに其処に生きていたのだろうか。
 衝動が水に溶けていく。冷たいはずの水がじん、と疼いたような気がした。

 確かめねばなるまい。衝動に至る井戸の中で、死に至る井戸の中で見た夢を。それが夢ではないことを。
 哀しき夜を乗り越えて、君が笑う朝へ。

 私より先に井戸に堕ちた人々の憾みが、合唱するように辺りに響く。それに同調するように、段々私は自我を亡くしていった。


 私が其処に生きた証を。


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