日は昇らず




 見下ろした睫毛がうっすらと震えて翠を隠した。俺の胸に頭を預けて動かない様は酷くしおらしい。いつもの彼なら悪態の一つや二つを吐いて俺を突き飛ばすところだが、預けられた頭を固定するように上から抑えても顔も上げなかった。
 まあ、脚の腱を切ったのだから今更抵抗もできないのだろうが。
 最初は痛みからか泣いて喚いて暴れたものだが、今では大人しくしている。涙が枯れたのか、諦めたのかは定かではない。もうどうでもいいことだった。
 おざなりに布を巻いた足首からはまだ血が染み出して地面を赤黒く染めている。消毒もしていない。どうせ残り僅かなのだからと放っておいた。
 出血によるものか、泣き疲れたのかは分からないが彼の顔はじんわりと熱かった。湿った吐息が胸をくすぐって、子どもをあやしているような錯覚に陥る。多分、子どもなのは俺の方なのに。
 こんな状況なのに、だからこそか、心の中は酷く落ち着いている。やる前はさっさと終わらせようと考えていたのに、今ではなるべくこの時間を味わっていたいと思っている。その分だけ彼の苦しみが長引くことは解っていたが、どうしても体が重かった。
 見上げれば星の瞬く夜空が広がっている。月が出ていない分星明りが眩しくて、薄暗い森を抜けて地面に座り込んだ俺達のところまで届いてきた。薄暗闇の中でも僅かな灯りを拾って輝く冷や汗に濡れた金の髪をそっと撫でると、ようやく彼がこちらを向いた。
 貧血を起こしてぐったりしているが、瞳にはまだ力が宿っていた。反撃されるかと身を硬くするが、予想と違って彼の目つきは緩んだ。

 「鐘の音が、聞こえるな……」

 こんな深い森の中では、鐘どころか普通の民家すら見当たらない。
 ましてやこんな真夜中では、何処か遠くで鐘が鳴らされていることもなかった。
 混乱しているのかと思っていると、彼は更に言葉を重ねる。

 「お前から、鐘の音が聞こえるよ……命を刻む時の音だ」
 「詩人だな」

 もっとよく俺の鼓動を聴こうとしているのか、心臓の辺りに耳を押し付ける。ゆっくり一定間隔で血を送り出す心臓が、まるで鐘の様だと。
 かつて自分の屋敷の近くにあった教会の事を思い出した。そこまで立派なものではなかったものの、朗々とした神父の声と、讃美歌と、煌めくステンドガラスを震わせて打ち鳴らされる荘厳な鐘の音が――


 手にひやりとした物が触れて我に返った。ベルトに差し込んでおいたものに無意識のうちに手を伸ばしていたのだ。
 意識して力を込めて引き抜く。ずしりとした重さが最初の目的を思い出させてくれた。

 非道い行為だとは分かっているのだけれども。

 幸い、彼は俺の心臓の辺りに頭をもたれたまま動かない。まだ鼓動を聞いているのか、既に動くのも辛いのか。
 それでもそっと手の中の物を押し当てると、そのまま口を開いた。

 「いいよ、殺し給えよ」

 諦めた、というよりは達観したような言い方だった。受け入れる、よりはまったく気にしていないと言った方が。
 もとより彼の内心など無視した行為だったが、何だかわからなくなった。
 お前は俺に殺されてもいいのか? それとも、俺に殺して欲しいのか。
 正真正銘最期の最期だった。訊ねるのなら今しかなかった。
 でも訊けなかった。だから、彼の押し当てている方とは反対側のこめかみにそれを突き当てると、予想していなかったように彼が息を呑む音が聞こえた。


 銃声。そして、肉が堕ちる重い音。


 地面に倒れ込みそうになったイドルフリートを抱きとめようとして、俺も支えきれずに崩れ落ちた。
 それでもなんとかしてこちらに向けさせた顔は、即死だったのか苦しんだ表情はなくてそれだけが救いで。
 微笑もうとするとひゅ、と風が通る音がして咳き込む。肺を傷付けたせいか血反吐を吐いた。

 「あー、くっそ、駄目だったなぁ……。でもこればっかりは練習できないしなぁ」

 角度が悪かったのかイドルフリートの頭ごと撃ち抜こうとした心臓はまだ動いていて、でも死に至るのは避けられない傷だった。ツメが甘いなあと自嘲するが、これは己一人だけ苦しみ抜いて死ねという罰の様にも思われた。
 自分一人だけの罪をイドルフリートまで巻き込んで清算しようとした、罰。
 既に痛みはないが、胸から零れ落ちる喪失感と手足の先から冷えていく感覚はなかなかに堪え難かった。
 震えて思う様に動かない腕でなんとかイドルフリートを抱き寄せる。くたっと力の抜けた身体は人形のようだった。彼が身につけている十字がちゃり、と諌めるような音を鳴らした。
 手放しで喜ぶには哀しみが強すぎたし、謝罪するには満足感の方が強すぎた。

 本当に非道い話だと思う。

 ただ、何処か安らかなイドルフリートの表情だけを頼みにして、俺は真っ暗な視界を閉じた。




 夜が明けるまでもう暫くある、真夜中の話。


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