どうやってここまで来たのだとか、そういう類の記憶は曖昧だ。ただ、気が付いたらここに居た。
セキュリティ抜群の高級マンション、シンプルながらセンスのイイ部屋、戸田さんは収入まで完璧だったらしい。ぼんやりとした思考で思った。
頭の中はごちゃごちゃで、思考は正しく機能していない。明かりの落とされた部屋で、それだけは理解できた。
カーテンが遮る月光は、部屋を明るくすることはなかった。辛うじて相手の顔を認識できる程度だ。
「ふふ」
「……なに、笑ってるんですか」
「いやあ、嬉しくてね」
何が嬉しいのか戸田さんくすくすと笑う。無邪気にも見えるそれはけれど、どことなく怖かった。不気味だと言ってもいい。
逃げられないように肘を顔の横に折り、足の間に足を滑らせる。覆うように被せられた体は、まるで檻だった。錯覚だと笑えない所が戸田さんの怖さを表している。
少しでも身動ぎすれば触れてしまいそうな距離にある戸田さんの顔に、動きが制限される。艶やかな気配を孕む瞳が、自分をひたすらに見つめていた。
怖い。これは、ほんとうに、
「逃げられないね」
「、」
「まぁ、逃がしやしないけどさ」
「なんで、」
「言ったじゃない。俺の女になれって」
忘れたの?囁く声は優しい。鼓膜から侵略されていっているような気がした。思考回路を滅茶苦茶に掻き乱されて、正しい判断を奪われているような気がした。それを支配と言わずなんと言う。
そっと手を持ち上げて、頬に触れてくる。その手は冷たくて、温度差に身体が硬直した。
固まるわたしを見て、戸田さんは薄い唇で笑みを象った。なんて顔をするんだろう、この人は。そんな色気に満ちた顔をしたところで、所詮相手は子供なのに。
「結構前から好きだったんだよ、君のこと。その満たされてなさそうな目が酷く印象的で、いつも追ってた」
「ほんき、で……?」
「これから既成事実作って、ものにするくらいにはね」
するりと、指が滑る。頬から耳たぶ、耳の形を指先でなぞってから今度は首筋へ。指は止まらず鎖骨まで肌を撫で、ワイシャツを引っ張った。
部屋の温度は少し低く肌寒い。触れる男らしくも細い指はひやりと冷たい。無遠慮な指だと思って、しかしその指先を甘受しているのは自分だと気が付く。
戸田さんは、男の顔で笑った。あくどく、壮絶に色っぽい顔で。
「忘れさせてあげる」
「ぇ、」
「あんなガキ、忘れさせてあげる」
忘れることがいいことなのか。浮気されて傷付いて泣いて、それでも捨てきれないほどの想いを、忘れてしまうべきなのか。それは果たして最善か、答えてくれる人は居ない。
もう待ってと言えない。言ったところで、この大人は止まらない。わたしに出来るのは受け入れることしかないんだと、一つ一つ釦を外していくのを見て悟る。
諦めにも近い甘受を、戸田さんは見透かしているようだった。耳元で、それでもいいよと囁く。それでいいんだよと。
「失恋には、新しい恋って言うだろう?」
だから、俺に恋をしなさい。
あんなガキ忘れさせてあげる。俺でいっぱいにしてあげる。
君の思考も、心も、体も、全部俺だけにしてあげるから。
俺に溺れてしまいなさい。
頷いたのは、必然か。
慰めだとその大人は言う。
熱い時間に全てを溶かして、雄の貌をして笑いながら。
爛れてしまうほどの熱を瞳に潜めて、そうして、そっと嘯くのだ。
「俺は悪い大人だよ」
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ろくでなし