02

打たれた頬に手を当てながら、ぼんやりと天井を見上げる。常と変らない天井を見ながら考えるのは、つい先刻の出来事だ。

にやにやと笑っていたのは、あれでも一応彼氏だ。彼氏だと思っていた人だ。何度浮気現場を見せつけられたか分からない。
それでも、そのお相手と口論やらで直接対面したのは、今日が初めてだった。

彼が好きなのは、あなたじゃない。
この人が本当に好きなのはアタシで、あなたじゃないのよ。
だから手を出さないで、不愉快なの。

ヒステリック気味に叫ぶ声はそう言った次の瞬間、綺麗に彩った指先を持つ手で、容赦なく頬を叩いた。バシリと店内にその音が響く。
店内は一瞬で静まり返り、皆が窺うように、または心配そうにこちらに視線を送る。すぐ傍で愉快そうにするその人以外。

このお店に来る人が優しい人達ばかりでよかった。心底そう思って、今日一番の溜め息を吐き出す。疲れが滲んでいた。

「……帰ろう」

帰って寝よう。お風呂に入って、ふかふかのベットで何も考えられないくらい深く、沈むように寝てしまおう。幸い明日は土曜日だ。ゆっくりできる。

考えがまとまると、途端に動力が湧き出てくる。服を着替えて、荷物をまとめる。忘れ物がないのを確認してから、マスターに挨拶をしに顔を出した。
振り向いたマスターは、ゆっくり休めよと、再び頭を撫でつけた。優しい手つきに自然と笑みがこぼれる。

裏口から出た時には、重たかった気持ちが少しだけ軽くなっていた。その場でもう一度、この後のことを考える。その時アドレスのことが脳裏を掠めたが、知らないふりをする。今は考えなくてもいいでしょう、あの人のことは。

「帰るの?」

溜め息を吐いて一歩踏み出した時、後ろから声が掛かった。爽やかで耳触りのいい声だった。その裏に、どこか色う気配がする。

振り向けば、とても綺麗な男の人がいた。スーツに身を包んだ、男の大人。これが洗練された大人だろうか。高い背丈、高級そうなスーツ、どこか艶のある雰囲気。身なりの良い、完璧そうな男が微笑む。

「もうバイトは終わりかい?」
「え、っと……」
「ん?」

ゆっくりと歩み寄られ、距離をつめられる。しかし男の足は、ある一定の距離を保ってその場で止まった。言いよどむわたしに、ふわりと笑い掛ける。
一々完璧な仕草やその態度に、相当の遊び人だと察する。伊達にあの男を見ていたわけじゃない。警戒心を露わに見つめると、男は苦笑いをこぼした。ちょぴり、その表情が嘘っぽかった。

「そんなに警戒しないでよ」
「……誰だって警戒しますよ」
「まぁ、確かにね」

これじゃあただの不審者だもんなぁ。呑気にそう言って男は肩を竦める。その動作はやっぱり、どこか芝居がかっていた。

そっと、一歩後ずさる。僅かに距離が開き、それに気が付いた男は瞳に険悪な色を映した。怖くて動きが止まる。男はにこりと笑って、今度は無遠慮に距離をつめた。
そうない距離を縮められ、するりと自然な動作で肩を抱かれる。ぎょっとして見上げれば、男はふふっと色っぽく笑った。

「俺は戸田悠仁。君のバイト先の常連客だよ」
「え、は」
「と言っても、最近常連になったんだけどね」

だから俺のこと見覚えなくても無理ないよと、爽やかに言われた。そしてまた口を開く。

「で、帰るの?」

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