沈黙


ああ、どうしよう。
すごく甘えたい。
こいつわかってんのかな。いやわかってるわけないな。

わたしは今すごく、いや、大抵甘えたい。
でも甘えたことなんて一度もない。やり方がわからないからだ。
きっとこいつに聞いてもわからない。こいつも甘えたことなんてないからだ。


「楓」

「む」

「…」

「…」


ああ、どうしよう。
なんでこいつこんなかっこいいんだろ。ちくしょう。好きだばか。

甘えてこいよ後輩らしく。

とにかくすごく抱きしめたい。抱きしめられたい。
でもこいつがそんなことするものか。
いまだって、む、しか言わないし。


「楓」

「む」

「…わたしの名前は?」

「どあほう」


ちがう。わたしは桜子です。あなたの彼女でしょうが。

こいつは猫だ。しかもとびきりふてぶてしいやつ。たまたま日本語が話せるだけで。
日本語だってカタコトだ。だいたい4文字以下で会話終了。
そんなんで将来アメリカなんて行けるのか。

そんなわたしの考えなんてこの猫にはすべてお見通しで、だいたい長い沈黙のあとにデコピンされる。そんななんの変化もない毎日こそが幸せっていうのかな。きっとそう楓に聞いたら「おー」と言うに違いない。


その日は楓の家でゴロゴロしていて、他愛もない話をして、いつもみたいに沈黙も長かった。
でも、楓との間の沈黙は嫌いじゃない。なんだか落ち着く。楓は落ち着きすぎて寝ちゃうけど。

そんな幸せそうに涎を垂らして寝る楓の顔を見ていたら、ふと昔の苦い記憶が甦ってきた。

こういうことはよくあった。一回思い出してしまうとなかなか消えない。
いつもは大抵ひとりでいるときにくるのに、今日はちがった。

ああ、だめ。泣く。

楓に気づかれないようにさっさと涙を拭いた。


「オイ」


思わず振り返ってしまった先には、いつの間にか涎をふいてあぐらをかいている楓がいた。


「なに泣いてる」

「…なんでもない」

「なんでもなくて泣くのかオメーは」


楓が珍しく4文字以上言っている。代わりにわたしの文字数が減った。


「…ティッシュ」

「んなもんいらん。こっちこい」


ぽんぽん、と膝を叩く楓。
そんな動作、みたことない。
そんなやさしい顔した楓、みたことないよ。


「…楓…っ」


高校生のくせに、声をあげて泣いた。
面倒なことを嫌うはずの楓は、拒絶することもなく、おー、と頭をぽんぽんしてくれた。


「急にどーした」

「…やなこと、思い出した」

そうか、と深くは聞いてこなかった。
楓はわたしを抱きしめて、ゆっくり横に揺れだした。


「俺、桜子との沈黙、好きだ」

「…」

「なんか…気ィ使わなくていい感じとか、落ち着くし、だいたい考えてることもわかってきた」

「…」

「お前いま、楓も気を遣うときあんのかって思ったろ」

「うん」

「どあほう」

まあ、泣いた理由はわからなかったけど、と楓は言った。

楓がこんな長い時間ぎゅー、なんてしてくれたことなかったから知らなかったけど
抱きしめられて響く声って、こんなに落ち着くのか。
だからわたしは、わからなかった楓を別に責めるような気持ちはなかったけれど今まで感じたことのない安心感に身を委ねるのに夢中で、楓の言った言葉に対しての「気にしなくていいよ」を自分の胸に沈めた。
それでも楓ならわかってくれる気がした。

「ずっとこうしたかったんじゃねーの」

「…エスパーだね」

「俺がすると思ったかどあほう。だから、いつでもこい」

楓の心臓の音が丸わかりで、ということはわたしの心臓の音も丸わかりなんだろう。
でも今だけは、あんな大声で泣いたからか恥ずかしさなんて忘れてしまったらしく、ただお互いの鼓動を共有していることがたまらなく愛おしく、嬉しかった。

「桜子」

わたしの名前をかすれ声でつぶやいた楓の次の言葉は、もう声にすらなっていなくて。
楓の体に低く響いたその二文字は、きっと今までの沈黙の間にもこんな感じに響いてたのかななんていうそんな自惚れは、この状況がこれからの日課になることを予感させた。



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