01 「髪切るかなー」 「え?」 ポスターなんか貼ったりしちゃって、病室をまるで自分の部屋かのように改造した寿はベッドに寝転びながら突然そうつぶやいた。前髪を引っ張って見上げながら「長えよな」と付け加え、左手をハサミのようにして髪を切る動作を真似ていた。 「んー、確かにスポーツマンにしては長い方だよね」 出がけにお母さんに渡された花を花瓶に挿しながら、やはり当たり前のように置かれた写真を見て言った。写真は寿がMVPを取った時のものだ。寿を中心にみんなが笑顔で整列している。「すげーよみっちゃん!」「みっちゃんのおかげだよ!」なんてみんなの声が蘇ってくるようだった。 同時に、幼なじみとして鼻が高いような照れ臭くて素直に祝福できないような気持ちと、同じバスケ部として悔しいような憧れるような気持ちを持っていた自分も思い出される。こういうのを、アンビバレンス、と言うらしい。 たった半年ほど前のことのはずなのにこんなにも遠く懐かしい思い出のように感じてしまうのは、この写真の中心にいる人物が今はバスケをしていないから。 入部初日に、寿は膝を痛めた。 いつもなら「初日から入院なんてかっこ悪!」なんて茶化したりしたかもしれないけど、そう出来ないでいた。 「MVP男」と注目されていた寿が、紅白戦の短い時間の中でコート上の主人公でなくなっていく様子…。そんな、今まで見たことのない光景に、わたしも寿も言葉がなかった。武石中のみんなも、自分たちのヒーローの前に突然現れたライバルに圧倒されていて。 ”寿がひとりだ” そう気づいてしまったから、あの時の寿の横顔を見てしまったから、心も体も空回りして怪我を負った寿を、当然、茶化せる訳なんてなかった。 「いっそのこと丸刈りにしちゃいなよ」 「あ?お前テキトーに言ってんだろ!」 相変わらずの笑顔を見せる寿。入院初日にショックを受けているかと思いきや看護婦さんに「ポスター貼っていいっすか!?」と目を輝かせていた寿。 そんな変わらない幼なじみの姿に、なんだかわたしは安心した。髪切ろうかな、なんて、復帰する気満々の言葉を聞いて、期待に胸が高鳴った。バスケを嫌いになんてならなくて、また頑張ろうとしてくれてよかった、なんて、意地でも本人には言ってやらないけど。 「さっき木暮が来てよ、月バス持ってきてくれたんだ」 「ほんとに?よかったね」 「お前は宿題なんていらねーもん持ってきやがったけどな」 「うわ、人がせっかく親切に持ってきてあげたのに!」 「冗談だよ、怒んなよ」 感謝してますよーなんて言いながらもさっき渡したばかりのノートは早くもどこかに姿を消していた。わたしのノートなのに。 話を逸らすように寿が手に取ったのは、もう何年も前から寿の横にあるバスケットボール。色褪せた赤色は、寿の手には特別収まりがよかったように見えた。 「ところで、よ」 「うん」 「お前、あれから部活見に行ってる?」 寿はボールをくるくるさせながらそう聞いた。視線をボールに落としたままで、わたしと目を合わせようとしない。 「…最初は行ってたけど」 「けど?」 「寿がいないと、つまんない。だから最近は行ってないよ」 「桜子、お前…」 「…な、なによ」 「お前…俺のこと大好きかよ…」 はあ?でもなく、はっ!?でもなく、ただ「は」と発音しただけのわたしを、寿はとってもゲスな、人を小馬鹿にしたような顔をして見てきた。 「違うし!」 「いやー、俺も罪な奴だぜ」 「そうじゃなくて、先輩もみんな下手だから見ててもつまらないってこと!ばーか!」 「うっせばーか、照れんなよ!じゃあさっさと戻ってやるか、俺のこと大好きなお前のためにも」 「ばーか!」 「うっせばーか!」 コートで一人立ち尽くすあの横顔に落ちていた影はまるでない、カッカと笑ってボールを指先で回すその横顔に 「だから待ってろよ」 ボールをわたしにパスして瞳を輝かせた笑顔に 「うん。待ってる」 胸が、すっと軽くなったんだ。 「え、寿…昨日部活に来てたの!?」 「ああ」 それを教えてくれたのは同じクラスの木暮くん。尊敬する三井寿の幼なじみとあってか木暮くんはよく話しかけてくれていて、彼はとっても話しやすいから仲良くさせてもらっていた。 わたしは宿題を届ける任務を任されているだけで、毎日お見舞いに行ってるわけではない。その日どんな様子だったかは、お昼にお見舞いに行っているわたしのお母さんや寿のお母さんから聞けるし、きっと毎日行ったら寿にうざがられるだろうしわたしだって面倒だ。また変な勘違いされるかもしれないし。 そんなわけで昨日は行っていなかった。あいつわたしに怒られるのわかってて来ない日に行きやがったな、今日宿題届ける日だからいっぱい怒ってやろう。 「インターハイ予選には間に合わせるって、張り切ってたよ」 「え、あ…そう…」 一瞬、誰の話をしているかわからなかった。小暮くんの目の輝きが寿の話をする時の輝きだったから、ようやく分かったという感じだった。なるべく平然を装ってみたけど、本当は心底驚いていて、そして違和感を覚えていた。だってそんなこと、出来るわけない。先生は1ヶ月半で完治だって言ってた。だから予選なんて… 「いやあ、嬉しいなあ!あの三井くんのプレーをまさかチームメイトとして見られる日がくるなんて、夢にも思ってなかったよ!」 メガネの奥の木暮くんの瞳は本当に嬉しそうに輝いていた。そういえば…木暮くんはあの時、唯一寿の隣に居続けてくれてたっけ。まあ確かに、木暮くんは赤木くんと同じ中学だったから見慣れたプレーだったとは思うんだけど… 「…でも、赤木くんもすごかったね!びっくりしちゃったよ」 「ん、ああ。あいつもあの身長を活かせるテクニックを備えればもっといい選手になれると思うんだ!だから今から楽しみだよ」 「…そうだね」 「相澤もそう思うだろう?赤木と三井くんのいる最強チーム!」 「え、寿も?」 「当たり前さ!三井くんがいなきゃ、始まらないよ!」 その前に俺もしっかり練習しないと…と木暮くんは照れ臭そうに頭を掻いた。 なんだか、救われた様な気分だった。なにから救われたのかはっきりとはわからないけど、バスケ部の人が寿を忘れてるかもしれないという不安だとか、どうせ木暮くんも赤木くんに寄せる期待の方が大きいんだと決めつけていたことへの罪悪感だとか、たぶんそういうものからだと思う。 「…木暮くん、ありがとね」 「ははは、なんで相澤がお礼を言うんだ」 「寿の代わり、って思ってて」 心からの、言葉だった。 「相澤さん、いる?」 小暮くんと話をしているわたしを呼んだのは、知らない女の子だった。 「あ、はい」 「あの子…昨日部活見に来てた子だ。10組の子だよ」 「寿と同じクラスの子かあ」 後ろには友達らしき子が2人いた。わたしを呼んだ子は少しうつむき気味でもじもじしながら「あの…えっと…」となかなか続けてくれない。見守るような友達と、逃げ出したいような表情の真ん中の女の子。なんとなく、わたしはこの空気を知っている気がした。 「み…」 「み?」 「三井くんの、ことだけど」 ああ、やっぱり。この空気を、わたしは中学生のころ嫌と言うほど味わった。 「宿題って、今相澤さんが届けてくれてるじゃないですか。…あの、わたし同じクラスだし、その…わたしが届けましょうか?三井くんに」 "みついくん"の単語に込められた熱を一身に受け止めなければならないこの状況と、敵に向ける目をしている周りの友達がたまらなく嫌だった。中学の頃は、こんなこと思わなかったのに。だから一刻も早くこの状況から抜け出したくてわたしは適当に返事をした。 「…じゃあお願いします」 「はい!」 「あと、ひとつ聞きたいんですけど!」 「は、はあ」 気の強そうなその子の友達がぐいっと前に出てきた。 「三井くんと付き合ってるんですか!?」 「え」 わたしは予想だにしない質問に目が点になった。それこそ中学の頃、わたしたちは仲のいい幼なじみとしてよく知られていて、そして恋愛になんて発展しないだろうということも周知のことだったから、こんなこと聞かれたのは初めてだった。 「いやいや、全然!ないない!」 だから少し、変な感じだった。 「そうですか!変なこと聞いてすいませんでした!」 そうして嵐のようにそのショートカットの女の子たちは帰っていった。楽しそうに突っつきあいながら寿のいない10組に帰っていく女の子たち。ついさっきまで同じ空気を共有していたのに、わたしとあの3人とでは表情も感情も全く逆だと思った。そして3人の背中を見ながら、わたしは依然として消えない違和感と闘っていた。 「桜子」 次にわたしを呼んだのはわたしの友達だった。 「なにー」 「部活見学さ、再開しよ」 「どうしたの急に」 「どうせ暇でしょ?今盗み聞きしちゃったけどあんたも今日から暇人になっちゃったもんね」 あ、そうか。わたし今日から暇人なんだ。渡す宿題もないし、特に大した用事もないし、様子ならお母さんに聞けばいいし…。早く帰れるならそれはそれでいいや。そしたら夕方からのドラマの再放送が見られる。きっとお母さんに夕飯の準備を手伝ってなんて言われるだろうけど、今まで部活でできなかった分ってことでいっか。 そんなことをなんとなく思っていたけれど、渦巻いていた違和感は "寿に会う理由、なくなっちゃったね" と、わたしの心の声を奪ってささやいてきた。 「だからさ、いこーよ」 「…うん、じゃあ行こっか!」 「…今日は遅えな、桜子のやつ」 いや別に、待ってるわけじゃねえけど…今まで15年間あいつの顔見ねえ日なんてなかったのに最近あんま見てねーし、昨日部活行ったときもやっぱりいなかった。つまんねーから行ってないってのは本当だったんだな、と確認は出来たけど。あいつの母さんとは会ってるのに。なんか変な感じだ。なんつーか、こう、間接的っつーか。よくわかんねえけど。 「あーあ、暇だな」 なんとなくイライラするのはきっと、あいつからもらった宿題のノートをなくしたからだ。絶対そうだ。あー、次会ったとき怒られんだろうなー。なんかすげー怒るときもあるしそんなでもねえときもあるし、今度はどっちだろう。たぶん失くしたとなるとすげー怒られそうだな。 トントン… こういうときには寝るに限る、と目を閉じた瞬間にノックの音が邪魔をした。なんだよあいつ、ノックなんて行儀いいことしたことねーくせに。 「お前、なにやってんの」 「あ、あの…!」 「えっ…!?あ、ごめん!えっと…」 「ご、ごめんなさい!わたし、同じクラスの…」 「ああ…ごめんな。入学して1週間でこれだから、覚えてなくて…」 「いえ、いいんです!あの…桜子ちゃんの代わりに、宿題を、持ってきました」 「え?あ、どうも…」 俺は今まで突きつけられ突っ返してきた宿題のノートを、それはそれは丁寧に受け取った。俺はこの人見たことねえけど、宿題届けるのを任せるくらいだから仲いいのかな。俺が行けてねえ間にあいつ、新しく友達作ったのか。俺は全然なのに。 「…ちなみに、あいつはなんで来ねーんすか?」 「あ、えっと…」 「…?」 「…練習…バスケ部の練習、見るらしいです」 「は」 「…たぶん…」 「それで、来ねーの?」 「はあ…たぶん…」 なんだよ、その弱々しい声。誰もとって食ったりしねえぞ。あいつもあいつでなんだよ、結局行ってんじゃねーか。あー、イライラする。いらねえっつーの、宿題なんて。 「…これ、どーも」 「は、はい!」 適当に礼を言ったらとても嬉しそうに返された。すぐに入院しちまったからだと思うけど、桜子以外の女子がその制服を着ていることに疑問を感じた。湘北の生徒なんだから当たり前なんだけど、慣れなかった。なんとなくだけど、似合ってないなんて失礼なことを思った。そもそも、桜子以外の女子がこの部屋にいることがいまいち理解できねえ。 俺はその子を見ているようで、無意識にその向こう側のドアを眺めていた。別物に見える制服。知らない笑い声。知ってるのよりも短い髪の毛。知らない空気。 「…なあ」 「はい?」 「暗くなる前に、帰った方がいいんじゃねえかな」 「あ…そうだね。じゃあ、帰ります。また明日」 また明日、と言ったその子に閉められたドアはまだ、誰にも開けられていない気がした。 『ばーか。お前、投げ方間違ってる』 『うるさいばーか!で、どこが?』 『両手で投げんだよ』 『寿はこうじゃん』 『俺は男だからこっちなんだよ。女は両手』 スリーの練習をしていた時、寿に言われたことがあった。わたしはずっと寿と練習してたからドリブルもレイアップも寿と同じフォームだったけど、スリーだけはどうしても届かなくて。とっても悔しかったけど寿に聞いたんだ。 『女は男より腕の力ねーからこっちなんだと』 両手で放った寿のボールは簡単にリングに入る。どっちのフォームでもよく入る寿が羨ましくて、悔しくて、わたしは意地を張った。 『…やっぱわたしも男投げ極める!』 『無理無理。諦めろ』 『やだね!寿なんかに負けたくないもん!』 いつもの「ばーか!」の応酬をしながら、毎日のように練習したんだ。 毎日見て、毎日寿のフォームを真似してた。悔しいけど、すごく綺麗なフォームだったから。だから、余計に思う。 「あー、もう!そんなんじゃもっと近くで打っても入んないって!」 お世辞にも上手いとは言えない湘北バスケ部の練習は、つまらない。寿がいたらきっと怒ってる。やる気あんのかって。きっと先輩にだって言う。 「桜子の気持ちもわかるけど、三井がすごいだけだって」 中学から一緒の友達も寿のプレーを知ってるから、わたしをそうやってなだめた。 「はやく戻ってくるといいね」 「うん…あ、いや」 「無理すんなって」 即答してしまったことが恥ずかしくて否定しようとしたけど、なんでもお見通しと言わんばかりの友達の笑顔に負けて大人しく引き下がった。 『待ってろよ』 寿は今、病院であの子と2人かあ。 なんの話してんだろ、わたしにするみたいにぞんざいな扱いしてないよね?結局、中学の頃わたしが協力してあげても寿に彼女ができたことなんてないんだから、あいつは絶対わたしにするみたいな扱いしてるんだ。そんなんじゃ一生彼女出来ないぞ、ばーか。 「…」 「桜子?」 「…わたし」 「うん?」 「髪、伸ばそうかな」 学校という閉鎖的な空間に漂うあの独特な安定感のある平和な空気を切り裂いたのは、救急車のサイレンの音だった。 そんな、保証された平和があると勝手に思い込んでいた学校で聞く救急車のサイレンの音は、いつも聞いているものよりも耳に、脳に、体に直接響いてきて、息が詰まった。 その日は練習も見に行ってなかったし、病院にも行ってなくて、教室で友達と楽しくおしゃべりをしていた。 そして日が暮れた頃に帰る支度を始めて、家に着いたらもうほかほかのご飯が出来上がっていて、お母さんに「今日は寿どうだった?」なんて聞きながら、休日にお見舞い行こ、なんて誘って… そういう、予定だったの。 体育館の方に見つけた赤いランプが、目に入るまでは。 ああ、わたしはこの感じを知っている。だってこれと同じ光を、1ヶ月くらい前に見たんだから。この嫌な胸騒ぎを、1ヶ月くらい前に経験したんだから。 駆けつけた時にはもう、救急車はいなかったけど 「…寿…?」 「…ああ」 木暮くんに聞いたら、やっぱりそうだった。ああ、木暮くんに聞くんじゃなかったな。だって木暮くんは嘘をつかないもの。木暮くんが答えた瞬間に、現実を突きつけられてしまった。 もしかしたらこれは夢かななんていうちょっと自信のあった答えが、単なる都合のいい勘違いだったということを思い知らされてしまった。 「…なんで」 わたしは夢中で救急車を追いかけた。走って走って追いかけた。まだ履きなれないローファーで、全力で走った。 それでも、サイレンを鳴らして車を掻き分けて走る救急車との差は広がるばかりで、サイレンの音もどんどん遠くなって。 まだそんなに走ってないくせに既に荒くなっていた自分の呼吸が聞こえるだけになった。 「待って」 寿を連れて行かないでよ。返してよ。はやくバスケさせてあげてよ。 あ、ちがう。間違えた。この道じゃない。あれ、どうやって行くんだっけ。 「お願い」 ねえ、待ってよ。 「返して」 たった3日通っただけの病院までの道を間違えた自分と、たった3日しか通らなかった自分を責めていたら、どんどん足が重たくなって 病院に着いても、自動ドアすら開けることができなかった。 「…三井くん、お母さんとお友達が来てくれたわよ」 立ち尽くして茫然としていたわたしを拾ったのは、寿のお母さんだった。2人で無表情のまま看護婦さんについて行って、何日かぶりの寿の病室に着いたけれど 「来んなよ」 そんな、張りつめた声に、ただでさえ鉛のように重かったわたしの足は、まるで地面に溶接されてしまったかのように動かなくなった。 「おばさんは、行って」 「桜子ちゃん…」 「わたしは、待ってるから」 来んなよ、が誰に向けられたのかくらいわかってる。だから、行けなかった。 ああ、せっかく、ローファーにシワがつかないようにって気をつけて歩いていたのに、走ったから深そうなシワができちゃった。初めての革靴だ、ってあんなに浮かれてたのに。あーあ、こいつとこれから3年間付き合っていくのか。途中で壊れなければいいなあ。 「…誰か…誰か、直して」 絞り出すように、叫ぶように、なんとか出した声は、情けないくらいかすれていて、震えていた。 「わたしはいいけど…桜子は本当によかったの?」 「うん」 5月19日。インターハイ予選会場。 わたしは友達を誘って湘北の応援に来ていた。もちろんあれから寿には会ってないし、来てほしいとも言われてない。お母さんも寿のお父さんとお母さんも、行っても口を聞いてもらえないと言っていた。宿題を届けていたあの子も、あの後来ないでほしいと言われたようだった。 なにやってるの。そうやってみんなを拒絶して突き放して、何してるの、そんなんじゃ復帰してもまたひとりになるだけだよ。そう、面と向かって言ってやりたい。でも、言えない。誰ももう、寿に触ることができないから。 きっと今頃、あのバスケットボールを触ってるに違いない。寿はいつも、嫌なことがあった時はあのボールを無意識的に手にしていたから。 でももし怪我をするのがもうちょっと後で、その手にあるのが古びたボールではなくみんなの寄せ書き入りの真新しいボールだったら、寿の気持ちも少しは軽くなったのかな、なんて 治りかけの足で無理して部活に来ることもなかったのかな、なんて 想像して、やめた。 「来たよ!」 「え…?」 「湘北がんばれー!」 スタメンの赤木くんは昨日の練習で「明日の試合、三井の分まで頑張ります」と先輩達に言っていた。だから今日は赤木くんの応援に来たようなものだ。 すっかり過去の人になってしまった寿を、みんな忘れたように、忘れようとするように、目の前の試合に臨み、応援していた。 みんなが寿にみた、全国制覇の夢。部活漬けの青春。 「赤木くんジャンプボールとったよ!」 寿の撒いた種が 「…がんばれ」 寿なしで、花を咲かせるのかな。 「…木暮くん?」 シーソーゲームの試合の途中で、ひとり違う方向を向く木暮くんを見つけた。 その時一瞬にして世界が真っ暗になった。かと思えば、鈍器で頭を殴られたような、頭に重たい何がのしかかったような、そんな感覚に襲われた、ああこれは、あの日わたしの足にまとわりついていたあの鉛だ。そう気付いたときにはもう既に、耳も聞こえなくなってしまったのか、観客の声援も何もかも聞こえなくなっていて、目も耳も首も、自分の意思とは違う何かに乗っ取られてしまった気がして怖かった。 木暮くんの視線の先を見てはいけない。頭はそう言っているのに首は勝手に動き出し、やめろやめろと言わんばかりに心臓はうるさく鳴っているのに目は一点を見つめようとする。 だめ、だめ…そっちを向いてしまったらもう、戻れない。そう、わかっていたのに。 「……なんで…?」 目に飛び込んでくる世界に、色はなかった。確かにそこにあったのは 松葉杖が一本増えた、真っ白な寿の抜け殻。 おかしいな、入口から遠い席に座ったはずなのに、まるで寿の責めるようなその目を至近距離で見ているようで、そのくせにこんなにも、寿が遠い。喉はカラカラに乾くし、指先の感覚がなくなっていくように痺れる。 すべてが崩れた世界に、わたしと寿ただ2人がとり残された。 「桜子」 頭に直接、寿の声が届いた気がしたその時 「赤木行けー!!」 「桜子っ、見て!」 立ち上がった観客が寿の姿を遮り、友だちの声がわたしを異世界から呼び戻した。それでも依然として解放されないわたしの首と目は、寿を見失ってはいけないはずの視線をコート上に向かせた。 赤木くんがダンクを決め会場の声援が最高潮となったとき、わたしは遅すぎるタイミングで未知の力から解放された。 「桜子どこ行くの!?」 「寿が…!」 寿が、遠くへ行っちゃうの。 いやだよ、どうして。離れたことなんて、ないじゃない。いやだよ、絶対やだ。待ってよ、ばか。 松葉杖、増えちゃったの?悪化しちゃったの?わたしのせいなの? わたしが、わたしが、あなたを裏切ったから、だからあなたは、背を向けたの?バスケから、わたしから…。 わたしは意地っ張りだから寿に謝ったことなんてないし、悪いと思ったこともないからわからない、わからないけど、苦しい。苦しいよ。これ、なんだろう。ねえ、わたしの話、聞いてよ。 明々後日、誕生日じゃん。みんなでどっか食べ行こうって、毎年行くあのお店にまた行こうって、おじさん言ってたよ。ねえ、わたしはもう、あなたの誕生日を祝うことが出来ないの? そう思うと、やっぱり苦しいよ。息が出来ないの。深い海に沈んでくみたいなの。助けてよ。 寿、お願い。行かないで。 「…待って…待ってよ、寿…!」 会場の中にも外にも、コートにも、もうどこにも、寿の姿はなかった。 会場の外のベンチで、まるで他人事のように響く声援を聞いていたはずだった。隣でわたしに何かを言い続けていた友達が、いたはずだった。茫然としていて、気がつかなかったけれど、声援はおろか人の声すらも聞こえなくて、友達ももういなかった。 闇が混ざり始めていた夕焼けの中で時間を確認すると、それもそのはず、試合時間なんてとっくに過ぎていた。まわりにはもう、誰もいない。早く帰らないと、お母さんが心配する。 「帰らなきゃ」 今日、自分が何をしに来たのか、何が起きたのか。すべての記憶が真っ白に塗り替えられてしまったかのように、頭がぼんやりとする。 でも、帰らなければならないと思った。ここにいてはいけないと、そう思った。 「…相澤桜子さん、だね?」 耳鳴りのする中でわたしの鼓膜を優しく揺らしたのは、聞き覚えのある男の人の声だった。 「安西先生…」 『俺、湘北に決めたぜ!』 『えっ、海南は!?陵南も、翔陽も!』 『蹴った』 『なんで…もったいないよ!』 『いーんだ。俺は、安西先生のとこでバスケがしたいんだ』 半年前の遠い遠い思い出が、走馬灯のように駆け抜けた。 「安西、先生…」 「木暮くんから、聞きました」 眼鏡の奥からまっすぐわたしを見つめる目。ゆっくり話す、すべてを悟ったような声。 この人が、寿が、夢を抱いた人。寿が、夢を抱くはずだった人。 「わたしのせいなんです」 乾ききっていたはずの目が、急にぼやけた。 「おやおや」 「ごめんなさい、ごめんなさい、安西先生。わたしが…」 あの時、目を逸らさなければ 「ごめんなさい」 伸ばしかけの髪の毛が濡れた頬によく張り付いて邪魔だった。 「君達は、まっすぐだった」 「……?」 「まっすぐに、同じ未来を見ていた。わたしにはそう見えていたよ」 『待ってろよ』 同じ 『うん。待ってる』 未来。 ずっと、ずっと、待ってる。伝わってるだろう。わたしがずっと、寿の隣にいること。だって15年の仲だよ?そんくらい、わかってるに決まってる。 そんなわたしの、言葉の足りなさが生んだもの。 「わたしが、寿からバスケを奪ってしまったんです」 悔しいのは、苦しいのは、寿のはずなのに、なんでわたしが泣いてるの。 「寿に、もう一度会いたい」 ああ、そうか。 「ちゃんと、言いたい」 もう、言えないんだ。15年もの間一度だって言わなかったごめんねも、バスケをしている姿を見せてほしいということも。言葉で示すことでしか伝わらないものすべて、もう、届かない。 待ってるって言った。寿に想いを寄せるあの子に対抗して髪を伸ばそうと思った。幼なじみとして、隣に居続けた。そんなものはすべて、わたしのわがままだった。 今日応援に来たのは、バスケのある場所に必ずいた君と、もう一度会えると思ったからなんだ。 遅すぎた。失って初めてわかることが、本当にあるのだと気づくということが。 生まれて初めて空いたわたしの隣の穴は、叫びを飲み込んでしまう。 「君に、頼みがあります」 目の前に立つ安西先生は、わたしの途方もなく続く言葉たちをそう言って断ち切った。 「…ないです。わたしにできることなんか」 「ありますよ」 諭すように、自信を持ったように、安西先生はそう言い切った。そんな静かな強さに、わたしの顔は自然と上がり、そんなわたしの様子を見て満足そうに笑った先生はそのままの調子で続けた。 「マネージャーを、してくれませんか?」 「マネージャー…」 一度、胸がどきりと大きく鳴った。 不思議な人だと思った。この人の言葉を信じていれば間違えることはないと、そう確信めいた何かが生まれるのを、わたしは確かに感じていた。 「部の運営や、部員のケアなどをする仕事だ。だが、君に求めているのはそうじゃない。 彼の…三井くんの帰ってくる場所を、つくってはくれないだろうか」 わかった気がした。推薦を蹴ったと言った、あの輝く瞳の理由が。 「帰って、くる」 「帰ってきます」 「寿の、居場所…」 「君にしか出来ないことだ」 今ではもう遠い存在になってしまったけれど、今まで積み重ねてきた綺麗な記憶と苦い記憶が、優しい言葉を借りて、痛くて優しい、太陽みたいな光となって、わたしの心を照らした。 「お願いします…!」 今もどこかで泣いているかもしれない。わたしと同じように、それは止まりそうにないかもしれない。それならわたしと同じように、近くに誰かがいてほしい。その役目は、今はわたしじゃなくていいから、どうか誰か、寿のすぐ近くで一緒に泣いてほしい。 遠く離れたこの場所で、遠く離れたただ一人を想った。 next |