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(さよならって言えるかな)













俺は彼女の名も知らない
ただ、最初は変な奴だとしか思っていなかったから
いつの間にかそんなタイミングを逃してしまっていた

だが彼女は俺を『影くん』と呼ぶ
馬鹿正直に勇者の影だと名乗ったのが運のつきだったのかもしれない


そいつはすぐ傍に釣り堀があるにも関わらず
ずいぶんと水嵩の減ったハイリア湖に、飽きもせず毎日釣り糸を垂らしていた

そんな俺も彼女の存在に気づいてから
ほぼ毎日、距離を取ってその様子を観察するようになっていた
魔物の本能に従って殺すこともできたのかもしれない
しかしそんな気にはならなかった
彼女はこのハイリア湖の景色の一部として、絶妙に馴染んでいるように見えたから


無関係にほど近い関係は一週間ほどで終わる
どうしてか、あちらが俺に声をかけてきたからだ




「ねーそこの黒い君。退屈だから話さない?」



その日はたまたま声が届く程度の距離しか取っていなかった
周りを見渡してみても黒い物体は俺と、空を飛びまわるグエーくらいで
視線を巡らす俺を見て、彼女はくすくすと笑って手招きした
これは本当に、俺に対しての呼び掛けだったらしい

この時点で相当変な奴だと思っていた
一見ただの人間に思えるかもしれないが、傍に在れば気配で魔物だと察知できたはずなのに
手を伸ばせば届く距離に俺がいても、そいつは全く動じることなく世間話を振ってくるのだ







「影くん。ハイラルどじょうって知ってる?一度釣ってみたいんだよね」

「……いるのか、ここに」

「さぁ」

「………」

「いなかったらそれはそれ。私は釣りが楽しくてやってるの、っと!」


話しながら、器用にも竿を引く
釣り上げた魚は食べたり逃がしたり、気分によってまちまちだそうだ
今回の魚は哀れにも食卓に上ることになってしまったようで
俺まで薪を拾ってくるように言われた


ある時俺は尋ねた
何故こんなところで釣りをしているのか
何故魔王の恐怖に晒されているこの世界で怯えずにいられるのか


「え?そりゃあ…だって詰まらないでしょ、村に籠りっきりだと」

「…危険だろう。見たところお前はそれほど強くない」

「強くないどころか…まるっきり一般人だよ。アキンドナッツにでもやられる」

「それもどうなんだ」


俺の的確な指摘に彼女はけらけらと笑う
つられて俺も唇が弧を描くのを感じた

笑っ、た

俺が、笑ったのだ


何の感情も与えられなかった俺が
生みの親である魔王に名前すら与えられなかった、俺が

ただの人間であるそいつに、与えられた

俺の知る言葉じゃ表わしきれない何かを、与えられた



「…影くん、笑うとかっこいいね」


「ふん…うるさい」



そうやってまた面白おかしく笑う女の名を、俺はやはり知らない
だがそのままでいい
これからも知る必要もない

もうすぐ時の勇者がデスマウンテンを下りてくるそうだ
つまり俺の出番も、近いということ

俺は時の勇者の影だからこそ、よく分かっている

死ぬんだ、俺は、水の神殿で

勇者に、殺される




「なぁ……」

「ん、何かな影くん」

「俺は……」



何て言えばいい

暫くここにはこれない
もうここには来るな
もうお前には会えない


二度とお前には会えない




「いや、何でもない」


「あはは、変な影くん」



その時は刻々と迫っている
悲しむのは彼女か、俺か、どっちなのだろう

その時は刻々と迫っている
だからこそ、言えない
あの笑顔を最後まで見ていたいと思ってしまった瞬間から

『その言葉』は言えないと、俺の中で決まってしまっている



「それじゃあね、影くん。また明日」



「ああ……また明日、な」


人間臭くてくだらない言葉の応酬にも慣れた頃には
俺も自然と彼女の笑顔に応えられるようになっていた

どうしてもっと早くそうなれなかったのか
今さら悔いたところで、俺の命運も結末も、もはや変えられないけれど






さよならって言えるかな






(いや、言えない)
(「また明日」が途切れるまで)
(願わくば、俺が地獄の底までその言葉を持っていけるよう、)

fin.
10.0218.
翡翠θ