エレン・イェーガーが世界の八割を更地にしてから三年が過ぎ、緑は少しずつ増え始めている。すっかり見晴らしのよくなった土地で、ナマエは遠くの地平線を見つめていた。空は青く、世界がどうなろうと知ったこっちゃないとでも言うように晴れていた。 ナマエは、遠くを見つめながら天と地の戦いのことを思い出していた。あの日、収容区の騒ぎを聞きつけてスラトア要塞へと向かう列車に最低限の荷物を持ってどさくさに紛れて一人飛び込み、そして彼女はその先でこの世の終わりのような光景を目の当たりした。数えきれないほどの巨人が真っ直ぐに近づいてくるあの様子は、比喩ではなくこの世の終わりだと感じた。 マーレの、治安のあまり良くない貧民街で生まれたナマエは、それまでも醜く汚い世界ばかりを見てその都度世界を恨み絶望してきたが、あの光景はそれの比ではなかった。 あの日、人間の愚かさを憎み、そしてそれと戦う人達の姿にひどく心を揺さぶられた。 昔から、どうして人間はこんなにも醜いのだろうと、どうして何処にいても差別や格差は必ず生まれるのだろうと思い続けてきた。人間は昔からずっとくだらない争いを続けてきた。 マーレ人も、エルディア人も、他の国やパラディ島にいる人達も、本当はみんな平等であるべきだったのだろう。 何かを恨んで、もしくは欲しがり、敵を作って暴力で従わせる。そんなことに、なんの価値があるというのだ。 ナマエはそんな世界に辟易していた。くだらない世界が大嫌いだった。 彼女は今もこの世界で生きる意味を探し続けていて、そしてあの日の彼らの戦う姿を忘れられないでいる。 ナマエは地平線を見つめながら静かに流れる風に吹かれ、ふと後ろを振り返ってみると、反対側の空はどんよりと曇ってきていた。一雨来そうだ。ナマエは灰色の雲を見つめ、そして歩き出した。 新しく来た難民キャンプの土地で、リヴァイ達は配給を行っていた。物資や子供達が遊べるものなど様々な物を運んでいる。 テントが並んだ道の真ん中で車椅子に座ったままリヴァイが子供達に菓子を配っていると、空からぽつりと一粒の雨が降ってきて、ふと空を見上げる。次第に雨が強くなり、リヴァイの前に並んでいた子供達は一斉に自分達のテントの中へと戻っていった。雨が降ってきた、と楽しそうに声を弾ませながら。 リヴァイはそんな子供達を見ながら、自身も雨を凌ぐ為に一旦テントに戻ろうと、菓子の入った木箱を膝に乗せたまま車椅子を動かした。雨に少し濡れながら進み始めるとふいに自分の周りだけ雨が止み、不自然に思い後ろの方へ顔を上げるとそこには傘を持ったナマエが立っていて、リヴァイが濡れないようにそれを差していた。 「──ナマエ、」 ぽつりとその名前を呼ぶ。ナマエはリヴァイを見下ろしながら、一つしかない傘を彼へと差し出した。 「持ってて。車椅子押す」 「…自分で動ける。お前が使え」 「お菓子が濡れる。持ってて。」 半ば強引に傘を渡すと慣れた手つきで車椅子のハンドルを掴み、それを押す。地面が泥濘むと車椅子が動かしづらくなってしまう。さっさと自分達のテントに戻ろうとナマエはそれを目指した。 雨はそこまで酷くなることもなく、無事にテントの中へと入り、ナマエはリヴァイにタオルを渡そうとしたが、そこまで濡れてないと断られ、そのままそれで自身の髪と体をさっと拭いた。 「多分通り雨だろうから、すぐ止むと思う」 「ああ」 ナマエはテントからちらりと顔を出して空を見上げながらそう言うと、くるりと振り返りリヴァイの膝から菓子の入った木箱を持ち上げ、適当な場所に置いた。 「気温が少し下がりそう……寒くなったら言って。私の荷物にブランケットがある」 立て続けに、風邪引かないよう気をつけて、とナマエは言った。まるで口うるさい母親のようだ。 「ナマエ」 「──なに?」 「前々から思っていたが、お前は俺を年寄りか何かだとでも思ってんのか?」 「……?思ってないけど」 「ならなぜいちいち気にかけるんだ。俺にだけやたらと気を遣うのはやめろ」 車椅子が必要になったとはいえ、今更そこまで気に掛けてもらうほどの怪我人でも病人でもない。なのにナマエはリヴァイのことを普段から気にしている節があり、それが前からリヴァイは気になっていた。 リヴァイに見つめられ、ナマエは逸らすことなくその目を見続けた。 「別に、気を遣ってるわけじゃない。ただ先生にリヴァイが無理をしないよう見とけと言われてるだけ」 「……何だそりゃあ。何で、お前が」 「さぁ。あの頃はよく先生を手伝ってたし、リヴァイのことも私が一番付きっきりで見てたからじゃない」 天と地の戦いのあとの、特に半年間ほどの記憶は忙しすぎてほとんど曖昧であった。けれど、あの頃は今以上に医者も人手も不足していた為、やることもなく手の空いていたナマエは医者の手伝いなどを主にしていた。その時付きっきりで見ていたのがリヴァイだった。もちろん他の怪我人なども医者の指示通りに世話していたが、その中でも特に重傷だったリヴァイの側にいることが一番多かった。 医者が他の患者を診ている間や休んでいる時、近くに居られない場合などに代わりに側に居て様子を見ていた。もちろん医者のように何か処置が出来るわけではないが、包帯を替えたり水を与えたり、悪化してないか確認することくらいならナマエにも出来た。あの頃は夜通しそういったことをしていて寝る暇もほとんどなかった。 その名残で、ナマエは未だにリヴァイのことを頼まれることがあるのだ。そして人を助ける医者の姿を側で見ていたナマエは、あの頃からずっと先生を敬っている。 ナマエはその時のことを思い出し、リヴァイのことをじっと見つめる。何だ、とリヴァイが居心地悪そうに口を開いた。 「…よくここまで回復したなと思って。正直ダメだと思ってた」 「悪かったな、しぶとくて」 「悪いとは言ってない。それにしぶとくなきゃこの世界では生きていけない」 ──その時、バサッとテントの入り口が突然開き、二人がそっちを見ると、まだ幼い女の子が一人そこに立っていた。 「こんにちは!」 「…こんにちは」 「おかしちょうだい!」 ナマエはその子と挨拶を交わし、ひとつ瞬きをして、先ほどの木箱から菓子を一つ手に取った。そしてその子の前まで行き腰を下ろすと、女の子は嬉しそうに笑顔を輝かせた。 「どうぞ」 「ありがとう!」 「……雨が止んだら他の子にもあげるから、言っておいてもらえると有り難い。一人一個までだけど」 「いいよ!」 ナマエにぶんぶんと手を振り、女の子は雨の中走って行った。それを見送り、ナマエは立ち上がりリヴァイの方に軽く振り向く。 「私オニャンコポン達の様子見てくる。リヴァイは雨が止むまで休んでて」 「だから老人扱いするな」 ついでに持っていたタオルをリヴァイへと適当に投げて、リヴァイはそれを左手で掴む。ナマエはそのままテントを出て小降りになり始めた雨の中、足早にオニャンコポンのいる方へと向かった。 「──オニャンコポン」 「あぁ、ナマエ。そっちの荷物に濡れないようシートを掛けてくれないか?」 「分かった」 オニャンコポンは物資や荷物が雨に濡れないようシートを被せていて、ナマエもそれを手伝おうと振り向こうとした瞬間に、ザッと誰かが背後に立ち、ナマエは瞬時にそれを見上げた。 そこにはナマエを見下ろすイェレナが立っていた。 「イェレナ」 「ああごめんなさい。小さくて気づきませんでした」 「…イェレナがデカすぎるんだ。」 「ナマエは一般的に見ても小さいと思いますよ。」 「そうかもね。でも小さい方が何かと便利だと思う。逃げる時も素早く動けるし隠れる時も見つかりにくい」 「何の話?」 「二人とも早くシート掛けてくれ!」 急かすようなオニャンコポンの声にナマエは振り返り、それからイェレナをちらりと見上げる。イェレナが無駄口を叩いていたせいで、という視線を黙ったまま送るが、イェレナはにっこりと笑った。 ナマエとオニャンコポンの出会いは、彼がマーレに兵士として徴用されていた頃のことであった。 ナマエはその頃仕事を転々としていて、そんな時二人はたまたま街で知り合い、何度か顔を合わせている内に話をするようになり、たまに会うような間柄になった。オニャンコポンは兵士として忙しく頻繁に会えるわけではなかったが、しかしナマエはオニャンコポンと話をするたびに彼の価値観や思想に触れて、それに感銘を受けていた。 彼の国の人間は肌の色が黒く、そのせいでずっと昔に差別を受けていた過去があるらしいのだが、現代でもたまにそういった扱いを受けることがあるようで、それなのにオニャンコポンは自国を愛し、誇りを持っていて、マーレから取り戻したいと考えていた。しかしナマエは自身の国や人々、そして貧民街で育ったことも、一度も誇りに思ったことはなかったしむしろ恨んですらいた。 ナマエは彼と話すたびに、自分の思想とは全く違うことに驚き、そして自身を疑った。 オニャンコポンは、ナマエが初めて出会った善良な人間であった。 彼は故郷を追われマーレを憎んでいたようだったが、それでもマーレ人のナマエとは親しくしてくれた。マーレのことは憎んでいても、そこに住んでいる一般の人までをも憎むということはしていなかった。ナマエのことも一人の人間として普通に接し、会話を交わす。ナマエはそんなオニャンコポンの存在になぜだか救われるような思いがした。それまで人間は愚かで意地汚く、くだらないものとばかり思っていたからだ。けれど、そうじゃない人もいる。そんな当たり前のことにナマエはその時初めて気がついた。 二人がマーレで最後に会った時、彼はパラディ島へ向かう調査船のメンバーの一人で、オニャンコポンはナマエとはもう会えないと分かっていた。最後にナマエへ言えたことは少なかったが、出来るならマーレから出るか、軍港や兵士がいるところから遠く離れた場所に居た方がいいとだけ伝えた。ナマエにはその意味は分からなかったが、その三年後に意味は分かった。 そして再びオニャンコポンと再会したのは、天と地の戦いのあの日、スラトア要塞でのことだった。もう二度と会えないと思っていたオニャンコポンとの再会はナマエにとって喜ばしいことで、それからナマエは彼らと行動を共にしている。 ◇ 「こんなところで何サボってんだ」 その声に振り向けば、そこにはリヴァイが居た。相変わらず車椅子姿だ。テントの集まりから少し離れた場所で、物資を運ぶ蓋付きの大きな木箱の上に座り地平線を眺めていたナマエは、リヴァイへ向けられていた視線を戻した。雨は数時間前に止み、地面ももうほとんど乾いている。 ナマエはリヴァイの言葉に、静かに口を開いた。 「……さっきまで、死体を埋めてた。」 真っ直ぐに遠くを見つめるナマエの横顔はいつもとさして変わらないようにも見えるが、その瞳はどこか憂いを帯びていた。リヴァイは隣まで来て、話を聞く。 「昨日の夜に娘が死んだんだって。お婆さんがずっと泣いてた。身内はもう誰も居ないから自分で埋めたいって一人でやってたんだけど、さすがに無理だから、手伝ってた」 「……そうか」 ナマエは土で汚れたままの手を強く握り締める。深く穴を掘り、重たくなった体をそこへ埋めて、土をかぶせた。一人娘を失ったお婆さんは泣き続けていた。ナマエは何と言えばいいのか分からなかった。人の死について何かを考えられるほど、それまでのナマエには心の余裕がなかったからだ。 遠くを見つめるナマエの隣で、リヴァイは何も言わずに黙っていた。すると暫くして、ナマエがぽつりと話し始める。 「この前のところでは、出産の手伝いをした。時間を掛けて子供が産まれて、抱いた赤ん坊は思ってたよりも重たくて、温かった。」 ──新しい命が生まれたからと言って、それが何だというのか。どこかで誰かが死んだからと言って、それがどうしたというのか。 ナマエは今まで、誰かの死を経験してもそこまで感情を揺さぶられることはなかった。貧民街で自身の母親が死んだ時ですら。虚無感には襲われたが、涙は出なかった。 「この前は新しい命を抱いてたのに、今日は死んで冷たくなった人を埋めてた」 ──だから、何だというのか。自身の中によく分からない感情が渦巻いている。それを持て余し、なんだかなぁ…と、ナマエは言葉に出来ない思いを呟いた。 静かに息をこぼし、髪を掻き上げようと手を動かせば、その前にリヴァイに手首を掴まれた。ナマエは動きを止めてリヴァイを見る。 「まず、手を洗ってこい。汚れたままだぞ」 「………、」 そう言われて、自身の手を見てようやく気づく。そんなことは全く気にしていなかった。リヴァイは手を放し、ナマエはゆっくりと手を下ろし、うん、と小さく返事をした。 それでも、重たい腰が上がらない。ナマエは地平線を見つめたままゆっくりと瞬きをしている。 リヴァイは、太陽の光を纏っているナマエの金色の睫毛を見て、三年前のことを思い出した。天と地の戦いのあと暫く寝込んでいた時、ベッドの上で目を覚ますとそこには必ずナマエの姿があった。その時にいつも窓を背に座っていたナマエは朝日に照らされて、ブロンドのその髪と睫毛は金色に輝いていた。そんなことを、ふと思い出す。 「……そういや、お前のことは、オニャンコポンの知り合いのマーレ人ってことくらいしか知らなかったな。」 リヴァイは世間話をするようにそう言った。 「お前は今まで、どんな人生を歩んできたんだ」 リヴァイはなんとなくナマエのことを知りたくなった。 ナマエはその言葉にリヴァイをゆっくりと見る。目が合って、互いに黙ったまま瞬きをした。二人は互いの過去のことをほとんど知らず、この三年間でそれを話す時間はあったかもしれないが、きっかけや機会はなかったように思う。 ナマエは静かに口を開いた。 「……私は、マーレの貧民街で生まれて、育った。」 それだけを言うと、ナマエは終わったかのように黙った。沈黙が続き、リヴァイの方が口を開く。 「それだけか。もっと他にもあるだろ」 「他に?」 「お前の人生はそれだけなのか?」 「……。」 そう言われて、ゆるりと斜め上を見ながら考え込むナマエに、こいつは何も考えてないんじゃないかと思わされる。しかしさすがにそんなことはなく、ナマエは少しずつ自分のことを話し始めた。 貧民街の小さな倉庫のような住居の中でナマエは生まれ、父親とは会ったこともなく誰かも分かっていない。 ナマエの母親は男のところを常に渡り歩いているような女で、子供が生まれてからもそれはさして変わらなかった。ナマエはそんな母親の元で育ち、そしてナマエの記憶している限りでは母親らしいことをされた覚えはない。 貧民街の片隅でナマエはいつも空腹と寒さなどに耐えながら生きていた。周りの人は若者から大人まで、誰一人として手を貸してくれる者は居なかった。しかし反対に、ナマエも周りの人間に対し手助けをしようと思ったこともない。あそこではそれが当たり前だったのだ。たとえ目の前で自分よりも年下の子供が転んだとしても、手も差し伸べなかった。 みんな自分が生きていくことに必死で、奪い合うことも厭わない。 ナマエは子供の頃から理不尽な光景を目にすることが多く、周りにいる人間や意地汚い大人達を、世界の全てを恨んできた。 いつだか母親に、どうして自分を生んだのかと聞いたことがあったが、ナマエの母親は男から貰った煙草を吸いながら、堕すのが面倒だったからと答えた。ナマエは母親から愛情を感じたことはなく、そしてその母親もナマエが10歳になった頃に病気で死んで、それからはずっと一人で生きてきた。大人になって少しはまともに働けるようになるまで、ナマエは生きる為に犯罪紛いのこともしてきたし、決して褒められた生き方はしてこなかった。 そうして大人になり、オニャンコポンと出会うまで、ナマエは誰のことも信じず頼りもせず、毎日をただ必死に生きるだけの人生であった。 「オニャンコポンに会ってからは世界の見え方が少しだけ変わって、ほんの少しだけ、息がしやすくなった気がする」 オニャンコポンと出会ったことで、それまで人に対して何の信用も期待もなかったナマエだったが、それからはほんの少しだけ見方を変えることが出来た。 今までに自分の生い立ちを話すことなどなかったナマエは、ぽつりぽつりと静かにそれを話し、リヴァイも黙ったままそれを聞き、そして聞きながら自身の昔のことを思い出していた。 ナマエは大まかに過去のことを話し終えると、最後にリヴァイの方を見た。 「大体こんな感じ」 二人の間に静かな風が吹いて、リヴァイはナマエを見つめていた。 ナマエの話を聞いて、なんとなく彼女のことが分かったような気がした。 「…どこの国も同じようなもんだな。」 「パラディ島にも貧民街があるの?」 「ああ。俺はそこの出身だ」 「へえ……そうなんだ。なんとなく同じ匂いがするとは思ってたけど」 そう言ったナマエにリヴァイは、分からないでもない、と思った。 けれどナマエの方は、それでもリヴァイと自分とでは決定的に違うものがある、とそれをふと重く感じた。土で汚れた両手を開き、そこに視線を落とす。ぎゅっとそれを握り締め、気持ちを切り替えるように腰を上げた。 「手洗ってくる」 リヴァイの方にちらりと振り返り、そう告げると川のある方に向かって歩き出した。 大地を踏みしめながら、ナマエは娘を亡くしたお婆さんの涙を思い出していた。それが暫く、頭から離れてくれそうにない。 |