静かな部屋に突然、リヴァイの声が響いた。 ナマエの名を呼ぶ声だった。 テーブルで黙々と読書をしていたナマエは、いきなり名前を呼ばれたことと、その声の大きさに思わずビクリと肩を震わせた。座ったまま腰を捻り後ろへと振り向けば、視線の先に見えるのはベッドの上で今さっきまで眠っていたはずのリヴァイの姿だ。 窓の外はとうに暗く、家の中はテーブルの上に置いてある蝋燭の灯りしか灯っていない。リヴァイの少し乱れた呼吸の音だけが薄暗い部屋の中で繰り返される。 リヴァイは横たわったまま天井を見つめていて、左胸辺りのブランケットを強く握り締めながら胸を上下させていた。 ナマエはそんなリヴァイを見つめながら、静かに立ち上がる。 「リヴァイ、大丈夫ですか」 顔を覗き込みながらそう問えば、一点を見つめていたその瞳はゆるりとナマエの方へと動く。 「……来てたのか…。」 ナマエの存在に気付いたリヴァイは、ブランケットを握り締めていた左手の力を抜いて、そのまま前髪をくしゃりと掻き上げると気怠そうに息を漏らす。 「水、持ってきましょうか」 曲げた腕で目元を覆い、黙り込んでしまったリヴァイからの返事はない。 何も言おうとしないリヴァイに、ナマエはとりあえず水を用意しておこうと、静かにキッチンの方へと移動をした。 普段であれば、ナマエはリヴァイと共に夕食を摂ったあと、リヴァイが眠るまで(眠ったあとも暫く)この家にいるのだが、今日は用事があった為に夕方頃から外出をしていた。 用事を済ませたあとはそのまま自分の家に帰るつもりだったが、なんとなくリヴァイの様子が気になったナマエは、一旦リヴァイの家の方に帰ることにした。 起こさないように静かに家に入ると、ベッドの上で眠っているリヴァイの姿があり、すでに眠っているのならそのまま帰っても良かったのだが、それでも結局少しだけ居ることにして、テーブルの上に小さなキャンドルを置き、その灯りで読みかけだった本を読み始めたのだ。 「リヴァイ、お水入れましたが」 水をグラスに入れてからベッドへ戻ってくると、リヴァイは先程の状態から全く変わっていない姿でそこに横たわっていた。聞こえているはずだが相変わらず返事はない。仕方なく、ナマエはそのままベッドの縁に腰を掛けた。 そこに姿勢良く座ったまま、ナマエはリヴァイから目を逸らして前を向く。 そうして先程の、自分の名前を呼ぶリヴァイの声を思い出す。 ───彼が夢に魘されるようになったのは、天と地の戦いから半年ほどが経ってからのことだった。 この街での生活にも少しずつ慣れてきた頃、ある時ナマエはリヴァイが夢に魘されていることに気が付いた。 それまではリヴァイが眠るまで家に居座るということはあまりなかったが、誰かの気配があった方が落ち着いて眠れているのではないかと、それになんとなく気付いてからはリヴァイが眠るまでここで過ごすようになった。 以前のリヴァイは、どちらかというと人の気配を感じるとゆっくり眠ることが出来ない質だったが、今は違う。むしろナマエが居てくれる方が落ち着いて眠れるのだ。そういう時は夢に魘されることも少なかった。 今まで、あまりにいろんなことがありすぎたせいで、悪夢に魘されるようなことはナマエにもある。ふとした時にフラッシュバックすることもある。 パラディ島で壁の外で巨人を相手に戦っていた時も、何度も目の前で仲間を失った。巨人だけではなく、敵対する生身の人間を殺したこともある。人類の八割が踏み潰されたことにも、絶望を覚えている。無力感は強くなるばかりで、手放しに喜べるような結果ではなかった。 今でも、心を痛める時がある。 それでも、彼が──エレンが、残してくれたこの日々を、悲しみだけに支配されて生きることは出来ない。 幾つもの命が失われたことを忘れてはいけないが、それだけに囚われて生きるのもきっと違うはずだ。全ての問題が解決したわけではなくとも、それでも前を向いて生きていかなくちゃならない。この世界の平和を守ろうとしてくれている人達の思いも、無駄にはしないように。 薄暗い部屋で、ナマエはなんとなく喉の渇きを覚え、手に持っているグラスを持ち上げてそのままそれを一口飲んだ。 「……お前が飲むのか」 ふと、小さな声がして、ナマエは思わずリヴァイの方を見る。 目元を覆っていた腕が少し上にずらされていて、薄く開かれた左眼と薄暗い中で目が合う。 「すみません。飲みますか?」 「……ああ、」 どうやら少しは落ち着いたようだ。 グラスに口をつけてしまったナマエは、また新たにグラスを用意しようと立ち上がろうとしたが、いい、とリヴァイがぶっきらぼうに言った。中腰のままリヴァイの方を見れば、ゆっくりと体を起こしたリヴァイが手を伸ばしてくる。 ナマエはそのまま腰を下ろして、グラスをリヴァイに手渡す。それを受け取ったリヴァイはそのまま水を喉に流し込んだ。 何気なくその様子を見つめていたナマエは、リヴァイの乱れた前髪に気付くとそっと手を伸ばし、それを指で梳いた。額には少し汗が滲んでいる。 リヴァイはナマエをちらりと見て、先程夢で見たナマエの姿を思い出し、視線を落とした。 夢の中で、巨人になったナマエの姿が瞼の裏に張り付いている。 ──あの時、天と地の戦いと呼ばれたあの地獄のような戦いで、巨人化してしまう仲間を置いて飛び立った時のことを、リヴァイは忘れられない。ろくな会話も交わせずに、ナマエを置いていったあの時の記憶が何度も頭を過ぎるのだ。それに負い目も感じている。あの時はああすることが最善だったと分かっていても。 たとえナマエがそのことをちっとも気にしていなくても、それは関係なかった。 リヴァイは俯くように右手で顔を覆い、ため息をついた。空のグラスを持っている左手に思わず力が入る。 それを見たナマエは、黙ったままその手からグラスをそっと抜き取って、サイドテーブルに静かに置いた。未だ俯くように顔を覆っているリヴァイのその手に、ナマエは自分の指を絡めてその手をゆっくりと下ろした。 指が二本足りない右手を、補うように握り締める。リヴァイはその優しい手付きに、伏せていた睫毛を少し上げた。 ナマエはそっと唇を動かす。 「明日、何が食べたいですか」 状況にはあまりそぐわない、唐突なその言葉に、リヴァイは何も言えずにただナマエの瞳を見つめ返すことしか出来なかった。急に、何を言い出しているのだろうか。しかしナマエはそのまま続ける。 「…美味しいものを食べて、温かい飲み物を飲んで、ゆっくりと息を吸って、そうやって、過ごすんです。明日はきっと、穏やかな一日になります。」 ナマエは思う。 そうやって丁寧に、慈しむように日々を重ねていけば、いつか夢に魘されることはなくなるだろうかと。彼の苦しみは、少しずつ和らいでくれるだろうか、と。 ナマエは何よりもそれを願いながら、リヴァイの手を優しく握っていた。 明日はきっと、穏やかな日になる。そう信じて。 ◇ 晴れ渡った青い空の下で、ナマエとリヴァイは公園のベンチで肩を並べて座っていた。 ナマエはリヴァイの右隣に座っていて、リヴァイの車椅子はベンチの真横に置いてある。 二人は楽しそうな子供達の声を遠くに聞きながら、ゆったりとした昼下がりを過ごしていた。 ──あれから、リヴァイが夢に魘されるようなことはなく、暫くは平穏な夜が続いていた。 やはりリヴァイはナマエが側にいた方がゆっくりと眠ることが出来るようで、本人がそれを自覚しているかどうかは定かではないが、ナマエは変わらず意識的にそうするようにしている。 ナマエの方も今のところは悪夢を見たりはしておらず、それがいつまで続くかは分からないが、それでも最近の二人はそれなりに穏やかな日々を送っていた。 「……こうも平和だと、眠たくなっちまうな。」 「そうですね」 緑の多いこの公園は、以前ナマエが見つけた夕焼けが綺麗に見える公園だ。二人で夕暮れ時に訪れたこともあったが、明るい時間に来てゆっくりするのも気持ちがいい。 今日は休日なこともあってか家族連れが多く、広場でキャッチボールをしている親子が居たりと、平日よりは賑わっていた。子供達の楽しそうな声が途切れることなく空に響いている。 リヴァイは目の前に広がるあまりの長閑やかさに思わず眠気を感じながら、ベンチの背もたれに両腕を掛けたまま空を見上げた。 周りから見ると、顔に大きな傷を負った男がベンチで足を組みながらふんぞり返っている姿はかなり威圧感があったかもしれないが、それに慣れているナマエはそんなことには気付きもしない。 世界を救った英雄と言えども、街にいる人間の全てがリヴァイ達の顔を知っているわけではないから余計だ。そうとは知らない人からすれば、リヴァイはただの柄の悪い男に見えるだろう。隣に座っているナマエの姿勢が良い分、リヴァイの態度が余計に大きく見えてしまうというのもある。 その時、「あっ」という、子供のよく通る声が二人の耳に届いた。何の気なしにそちらに視線を向けようとすると、リヴァイの足元に手のひらサイズのボールが転がってくるのが見えて、二人はそれに視線を落とした。 どうやら先程の声は、父親から投げられたボールを取り損ねた男の子のものだったらしい。その子はボールに向かって走り出した足を止めて、リヴァイの方をじっと見ている。その顔はどこか不安げであった。 それを一瞥したあと、組んでいた足を戻すとリヴァイは黙ったまま徐に腰を曲げてそのボールを左手で拾い、次にまた男の子を見る。瞬間、その子の顔に緊張が見て取れた。男の子の後ろでは向こうの方にいた父親が「すみませーん」と言いながらこっちに走ってくるのが見えた。男の子は依然、その場から動こうとしない。その時になってようやくナマエは、リヴァイのことが怖いのだろうか?と思った。 リヴァイは瞬きをしたあと、座ったまま片手をゆっくり振りかぶって、それを男の子の方へと投げる。ゆるく弧を描いたボールは、狂いもなくその子の元へと向かっていく。そうして、男の子はそれを取りこぼすことなくキャッチした。無事手に収まったボールを見て、男の子はぱっと顔を上げる。 「…ありがとう!」 嬉しそうに笑った男の子の後ろに父親が歩み寄ると、その子の肩に手を置いて爽やかに笑いながらぺこりと頭を下げた。笑顔がそっくりだ。 ナマエはリヴァイの代わりに笑顔を作って、その親子に手を振り返した。 「…仲が良さそうな親子ですね。」 「……まぁ、悪かったらわざわざ休日にこんなところまで来ねえだろうな」 リヴァイは口では素っ気なくそう言いながらも、それでも視線だけはずっとその親子に向けられていた。親子は楽し気にキャッチボールを再開している。 ナマエも同じようにそちらに視線を向けていると、一人の女性がその親子の方へと近寄って来るのが見えて、それに気付いた男の子が嬉しそうにそっちへと走り出し、女性に思いきり抱きついた。どうやら母親のようだ。三人家族はそのまま真ん中に男の子を挟んで手を繋ぐと、公園を歩いて行く。 リヴァイはその後ろ姿をずっと眺めていた。 「……どうかしましたか?」 ナマエはリヴァイの横顔に声をかける。その表情は傷のある右側からではあまり分からなかったが、それでもどことなく雰囲気が違うように思えたからだ。 ナマエの声が聞こえているのかいないのか、リヴァイはその三人家族の後ろ姿を見つめながら、まるで一人言のように呟いた。 「ああいうのを、幸せって言うんだろうな」 絵に描いたような家族を見て、リヴァイはそう呟く。それはまるで、手に入れることが出来ないものを遠くから眺めているような、どこか諦めを含んだような口振りだった。 その横顔を見つめていたナマエは、再び親子の方へと視線を向ける。しかしその後ろ姿はもう見えなくなっていた。 きっと、家に帰るのだろう。 ナマエは今まで、家庭を持つというようなことを一度も考えたことがなかった。最近になってようやく、今後どのように生きていくかということを漠然と考えたりはしていたが、それでもその中にそういう類のものは含まれていなかった。 ナマエは幼い頃に両親を亡くしていて、家族揃っての思い出が少なく、まだ幼かったということもありあまり覚えていない。 そのせいもあってか、誰かと一緒になるというようなことを、ナマエは考えたことがなかった。 「……リヴァイは、家族が欲しいのですか?」 その言葉に、リヴァイはゆるりとナマエを見る。風が緩やかに吹いて、リヴァイの前髪を揺らした。 「なぜそうなる?」 「違うのですか?」 その「幸せ」を見る眼差しには、羨望があったのではないか。 首を傾げるナマエに、リヴァイは何かを言おうとして思わず口を開いたが、しかし、そこからは何も発せられることはなく、そのままゆっくりと閉口した。 「……さあな。」 リヴァイは顔を背けて、どっちとも取れない返事をした。 その横顔がどことなく寂しそうに見えたのは、ナマエの気のせいだったのだろうか。 公園は相変わらず賑わっている。 ナマエは遠くを見ながら、幸せについて考える。己の幸せは、何なのだろうか?自分自身のことに関して、ナマエはまだ何をどうしたいのか、分からないことの方が多い。 「……リヴァイは、何かやりたいこととかあるのですか」 兵士ではなくなったナマエとリヴァイには、未来のことを考える余裕と時間が出来た。調査兵だった頃は戦場でいつ命を落とすかも分からなかったが、今はもう違う。絶対に何もないと断言出来るわけではないが、それでもあの頃に比べればこれから先も生きられる確率はだいぶ上がっただろう。 人類の為、誰かの為ではなく、自分自身の未来の為に生きることが出来る。 少し話題を変えて、ナマエはこれからのことを聞いた。 「──やりたいこと?」 「はい」 ナマエのその問いに、リヴァイはまたすぐに答えることが出来ず、視線を前に向けたまま黙った。ナマエはその間、リヴァイの横顔だけを見て答えを待った。 「……お前はどうなんだ?」 しかしリヴァイの口からその答えが出てくることはなく、逆に質問を返され、ナマエはひとつ瞬きをする。リヴァイの瞳が、ナマエの方を見る。 「私ですか?」 「ああ。お前の方こそ、何かやりてえこととかあんのか」 その質問に、ナマエの方こそすぐに返事をすることが出来ない。 兵士をやっていた頃は毎日が忙しく、やるべきことが決まっていた。自分で考えるよりも先に、日々の業務であったり上司からの命令であったりが必ずあった。命令を受けて動くことに慣れていたし、そこに感情を挟むことも少なかった。ナマエには主体性があまりないのだ。 だから今こうして、自由に選べる状況を前にした時、何をすればいいのかが分からない。 「私も……まだ、分かりません」 自分にとっての幸せとは何なのだろう。 騒がしい公園の中で、ナマエは家族を見つめていたリヴァイの横顔を思い出していた。 |