「私、“付き合う”ことって、例えばキスをしたり、触れ合ったり抱き合ったり、愛の言葉を囁かれたり……少なくともそういったことをするものなのだと思っていたわ。」
「……その認識で間違ってないと思うが?」


静かな団長室で私は本棚の前に立ち適当に書物を見渡しながらそう言った。するとこの部屋の主であるエルヴィン・スミスは視線をこちらに向けることもなくペンを走らせたまま、あろう事か私の言葉を肯定した。

私はその返答を聞き、ゆっくりと彼の方へと近づき今まさに仕事の最中である机の上に両手をついた。机を挟んで、彼の真正面に立つ。


「なら、私たちは付き合っていないってことかしら?」


キスをしたり触れ合ったり抱き合ったり。愛の言葉を囁かれたり。面白いくらいにそのような行為はなかった。

エルヴィンの瞳はまだ私の方を向かない。


「ねえ、団長さん。私達って付き合ってるのよね?付き合っているのよね?なのに全くそういうことがないような気がするのだけれど。」
「そうだったかもしれないな。」
「かも、というか全くなかったんだけど。」


半年前、私は確かに彼に好きだと告げたし、そして彼も確かに私を好きだと言った。

少し眉根を寄せて彼を見つめれば、未だに視線は交わらない。仕事中とはいえ恋人がこんなにも熱心に話しかけているというのに。ため息が出る。


「ねえ、本当に私のこと好きなの?」


彼の頭を占領している書類の真ん中へと手を置いて自身の方へ少しずらす。真正面から詰め寄ると、ようやくエルヴィンの瞳は私へ向いた。


「もちろん、好きに決まっている」
「………。」


今の今まで私のことなんか見てもいなかったくせに、まるで射抜くような真っ直ぐすぎる瞳を向けられ、一瞬何も言えなくなる。


「……だったら、もっと……普段から示してくれないと、困るわ」


半年ぶりに聞いたその言葉に不覚にもドキリと心臓が高鳴る。こんなことで。こんなことくらいでドキドキしてしまうほどに今まで何もなかったのだ。可哀想に。自分が可哀想になる。

しかし思わずたじろいでしまった私とは反対に、エルヴィンはまた素っ気なく口を開いた。


「そもそも私は最初に言ったはずだ。それらしいことはあまりしてやれないと」
「まぁ、確かに、言ってたわ。でも限度ってものがあるでしょう」
「それにまだたったの半年だ」
「“たった”……?“たったの”?いやいや、いくらなんでも団長さん。付き合ってから半年も何もないとかそんなことがある?」
「あるんだから仕方がないな。それに何もなかったわけじゃないだろう。キスならした」
「確かにキスなら付き合ったその日にしたけど……でもそれだけよね?それ以降びっくりするくらい何もないわよね?何もないどころか二人っきりになることもなかったし交わした会話と言えば仕事のことだけだったわよね?」


分かってはいる。エルヴィンは団長だ。暇がないことくらいはちゃんと分かっていた。だからあの日「仕事を優先してしまうと思う」という彼の言葉にも頷いたし、むしろそんなのは告白をする前から承知の上だったのだ。──それなのに。

揺るぎのない瞳で見つめられ、私は肩の力を抜きすっと体を引いた。


「……ごめんなさい。我儘、よね」


急に自分の幼稚さを自覚して、思わず謝る。
だって、最初は本当にそれでいいと思っていた。何もしてくれなくても、想い合っているという事実があればそれだけでいいと、頑張れると思っていたのだ。だけど蓋を開けてみればそこには更なる欲求が待っていただけだった。


「いや……謝らなければならないのは私の方なのだろうな。すまない」
「そんな表面上の謝罪なんていらないわ」
「手厳しいな」
「だって、あなた本当に申し訳ないと思ってる?なんだかそう思えないのよね」


あなたの頭を支配しているのはほとんど仕事のことじゃない。私のことなんて、きっと忘れている時間の方が長いはずだわ。続けてそう言えば、エルヴィンはそれを聞いて笑った。笑う要素が一体どこにあったというのだろうか。


「確かに、そうなのかもしれないな。」
「えぇ……本人の口から直接言われるとさすがに辛いのだけれど」
「はは、悪い」


これまた悪気のなさそうな顔で笑う。この人本当に私のこと好きなのかしら。


「ねえ、本当に私のこと好きなの?」
「それはもう答えた」
「だって分からないんだもの。私が告白する前の方がその気があったように見えたわ。あなたってもしかして手に入った途端興味がなくなるタイプ?」


彼にその気がなさそうだったなら私は絶対に告白なんてしなかった。けれどその頃のエルヴィンは確実に今よりも私に気があったし、私と二人でいる時だけはそれを隠さずにいた。だから、早く告白してきなさいよと思っていたくらいで、そのくせいつまでも変わらない関係についにじれったくなった私の方が先に言ってしまったのだけれど。でもそれくらい明白に、私達が好き同士なのは分かりきっていたことのように思えていた。
なのに付き合ってからというもの、一気に彼は私への興味をなくしてしまったかのようだ。


「それは違う。」
「……本当かしらね」
「本当にナマエのことは好きだよ。誰の手にも渡したくない。」
「ほ、本当かしらね」
「渡したくないからこうして付き合っているんだ。だが忙しいのもまた事実だ」
「それは分かってるけれど……」
「お前のことを一番に考えることは出来ないが、それでも俺はお前の心を占領したい」


私は自分のことを我儘だと思っていたけれど、それが可愛く思えるくらいエルヴィンの方が我儘のように思えてきた。


「二人でどこかへ出かけたり同じベッドで眠りについたり、一般的な恋人同士がするようなことを何一つ与えてやれなくても、俺はお前に好かれていたい。」
「そんな面と向かってはっきりと言われても……」
「お前の好意が俺に向けられてさえいれば、それだけで俺は満足なんだ」


何て身勝手な言葉だろう。──だけど、本来なら、それでいい。私だってエルヴィンの気持ちが私にさえあればそれだけで良かったのだから。忙しくても触れ合えなくても、それでも心の奥底に私という存在があるならば。ほんの僅かだったとしても、私の存在があることで彼が少しでも心穏やかになってくれたら。支えることが出来たなら。それだけで、いいはずなんだ。
何度言い聞かせればこの心は納得してくれるのだろう。


「……だが、そもそも俺は、そんなふうに満たされたり、幸せに…なっていいのだろうか」


それまで普通に話していたエルヴィンの瞳が伏せられ、暗い色を含んだ。


「……え?」


ふいに聞こえてきたその言葉の意味が分からず、思わず聞き返した。今、幸せになっていいのだろうかと、そう言ったの?私はただ彼を見つめる。


「本来ならお前とこういう関係になることですら、許されないことなのではないか」
「どういう、意味?」


色を失くした瞳がこちらを向いて、そのまま口を開く。


「言葉のままの意味だ。」
「…だから、よく分からない、のだけど」


何がどうして許されないのか。どういうこと?何を考えているの?
そのまま目を逸らさずに見つめているとエルヴィンは再び目を逸らす。


「…今までにたくさんの兵士が死んだ。彼らを差し置いて、自分だけ生き残りそして一人だけ幸せになるなんてこと──許されると思うか?」


部屋の空気が張り詰めて、一気に重たくなった。
私の頭に戦死した兵士達の顔が次々と浮かんでくる。──彼らの存在を、忘れていたわけではない。どうでもいいと思っていたわけではない。けれどもしかして私は、志半ばで死んでいった彼らの命を軽んじているのだろうか。兵士としてではなく一人の女として恋をしたことは、死んでいった彼らを裏切ることになるのだろうか。そしてエルヴィンは、誰かを想うことさえ、許されないのか?自身の幸せさえ、自ら捨てなければならないのだろうか。


「エルヴィン……それは、」


本当に、そうなのだろうか。
今もこうして生きている私達にはもう人を好きになる権利はなく、心が温かくなるような、そんな気持ちは捨てるべきなのか?人類の為に心臓を捧げ兵士としてただそれだけの為に生きるべきなのだろうか?

──でも、そんなの。


「違うと、おもう」


きゅっと拳を握り締めひどく弱々しい声で私はそれを否定した。目を伏せる私をエルヴィンの瞳がゆるりと捉える。


「そんなこと、だって、あなたが殺したわけじゃないでしょう」
「そうだろうか」
「そうよ。確かにあなたは立場上、誰よりも深く責任を感じるのでしょうけど、でも、だからといって、人を想うことすら許されない、なんて……そんな、……そんなの……。」


そんなことはない。あなたには幸せになってほしい。そう言いたいのに上手く言葉が出てこない。
私でさえ、思うところはあるのだ。ならば団長であるエルヴィンは、もっと。

部屋は静まり返る。

シンとした部屋は余計に胸を締め付けてきて、耐えられなくなった私はそれでもぐっと顔を上げてエルヴィンを見据えると、足早に二人を隔てる机を回り込み彼の隣に立ち、机上に置いてある両手に手を伸ばしそれを握った。エルヴィンはそんな私を目で追いながら、側まで寄るとイスを少し引いて座ったままで私と向き合う。
私は出来るだけ優しく、そっと彼の手に触れる。


「エルヴィン……私は、あなたが好き。だからあなたには出来るなら幸せになってもらいたい。誰かを好きになったり、想ったり、たとえそれが私じゃなくてもそういう気持ちを失くしてほしくない。もちろんそれだけが全てってわけじゃないけれど、ただそういう自罰的な考えでいてほしくないの。幸せになってはいけない、なんて、そんなふうに……思わないで」


自分を罰するようなその自制心に、胸が苦しくなる。
思わず握っている手にぎゅっと力が入ると、それに反してエルヴィンは私の手をそっと握り返した。彼の瞳にはひどい顔をした私が映っている。


「……ナマエ。すまなかった。こんなこと、お前に言うべきではなかった。」
「ちがう、そんなことない、私は、もっとあなたのことが知りたい。ちゃんと、分かっていたいの」
「だがそれでお前を傷つけるなら意味がない」
「そんなこと。傷つかない恋なんて、そんなの恋じゃないわ。」
「……はは、意外と言うな。ナマエ」
「……茶化さないで」
「茶化してなんかいない。むしろ喜んでいるんだ」


いつの間にか和らいだ表情をしている目の前の彼に、私は思わず首を傾げる。相変わらず彼の思考が掴めない。だけどそんな私に構わずエルヴィンは口を開く。


「俺は本当は、特別な人間なんて作るつもりはなかった。いつ死ぬのかも分からないし、仕事の邪魔になるなら必要ないと思っていた。」


そうして握っている手に視線を落とし、だけど柔らかな表情で彼は続ける。


「俺はもう、今更幸せになんかなれないのかもしれない。この気持ちはそう簡単に拭えるものではないしそもそも忘れてはならないことだ。」


きっと私も、みんなもそうなのかもしれない。
なのに、それなのに私は彼の幸せを願ってしまう。少しでも解放されるように祈ってしまう。


「それでも、俺はいつしかお前に特別な感情を抱くようになっていた。」


視線を上げたエルヴィンは、愛しそうな瞳をして私を見る。


「そして思った。お前も同じように、俺を想ってくれないだろうかと。ずっとずっと、死ぬまでお前の気持ちが俺にあればいいと思った。もし共に生きれたとしても、俺は仕事を優先してしまうし二人の時間なんてなかなか作れない。その上いつ死ぬのかも分からない人間で、とてもお前を幸せにすることなんて出来ないと分かっていた。ならばこの気持ちは、なかったものにすればいいと、そう考えたこともある。だが、」


そう言って黙ったまま言葉を聞く私の頬に大きな手をそっと滑らせ、そこを優しく撫でる。その温度が心地よくて、私はその手に自分の手を重ねた。


「俺は、どうしようもなくナマエが好きだ。」


こんなふうに、好きな人に好きだと言ってもらえる。想ってもらえる。じわじわと、その幸福が、彼の言葉と温度が、私を満たしていく。


「──…、」


私もあなたが好きだと、そう返そうと口を開きかけた時、それよりも先にまたエルヴィンの方が口を開いた。



「だから、ナマエ。俺と不幸せになってくれないか。」

「……… え?」



時間が止まったような感じがした。

今まさに浸っているそれとは全く真逆の言葉が彼の口から出てきて、一瞬思考が止まってしまう。

不幸せ?思わず聞き返すと、エルヴィンはそのまま続ける。


「ああ。俺はお前の望むことをしてやれない。お前を幸せにはきっと出来ない。俺自身も、お前が思うような人生を送れはしないだろう。それでもただ好きでいてほしい。それだけでいいんだ。ひどく身勝手だと自分でも思う。だが、ずっと想っていてほしい。だから、俺と共に不幸せになってくれ。ナマエ」
「──…、」


私を真っ直ぐ見つめるエルヴィンは至極真面目な顔をしていて、冗談を言っているようには全く以って見えない。

──俺と不幸せになってくれ。
そんなことを言われたのは初めてだった。まさか、幸せになれないどころか共に不幸せになろうだなんて。
そんな殺し文句、ありえないだろう。この人は本当に幸せになるつもりがないのだ。だけど、こうなった以上私を手放す気もないらしい。


「……、」


そうか。きっとエルヴィンは、だから自分からは好きだと告げなかったのだ。きっとずっと迷っていたに違いない。私と共になることを。だから何も言わず、だけどそのくせ気があるような素振りはしていたわけだけれど。でもきっと考えていてくれたのだ。私の幸せを。考えて、迷って、だけどそれでも好きだと思うその気持ちを失くさないでいてくれた。

それは、エゴなのか?それとも、愛なのか。
私は彼に、好きな人に、何をしてあげられるだろう。


「……ふ、」


思わず、笑みがこぼれる。

──これはもはや呪いだ。恋や愛だなんて表現よりも、ほとんど呪いじゃあないか。

私はエルヴィンに一歩近づき両腕を彼の首へと回した。顔が近くなって、彼の綺麗な青い瞳を覗き込む。そうして小さく息を吸う。


「……いいわよ、エルヴィン。今更あなたと別れるつもりもないし、一緒に不幸せになってやろうじゃない。たとえそこが地獄だったとしても、ついて行ってあげるわ。」


好きだと言い合ったあの日より晴れ晴れとした気持ちになるなんて、私はおかしいのかもしれないね。
この部屋に入ってきた時、まさかこんな結末になるなんて思いもしなかった。ただ普通の恋人同士のようにたまには愛の言葉を囁き合って触れ合えたらそれでいいと思っていたのに。
まさか、こんなことになるなんて。
それも全く嫌じゃないなんてね。

まるで呪いのような彼の申し出を受け入れて、そのままキスをする。久しぶりに唇と唇が触れ合い、彼の手がそのまま私の背中に回り込んでくる。抱き合いながら、何度もキスをした。

私達はこれからどうなるのだろう。調査兵団に、人類に、どんな未来が待ち受けているのだろう。
分からないけれど、分からないから、進み続けるしかない。
そこがどんな世界であったとしてもどんなに辛く険しい道のりだったとしても、兵士の一人として諦めずに突き進んでいく。そして一人の女として、彼をずっと想い続ける。たとえそこが、地獄だったとしても。


「愛してる」


互いを縛り付けるような二人の言葉が、そっと部屋に響いた。


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