「やぁ、ナマエ。調子はどうだ?」
「…絶好調でないことは確かですね」
「はは、そうか」


真顔で返す私にエルヴィンさんは浅く笑い、それから椅子に座るよう促した。

夕暮れの光が窓から差し込んでいるこの時間に、私はエルヴィンさんに呼び出された。今日も今日とて私は相変わらず馬房の掃除や筋トレやら何やらをしていたのでそこそこに汚れていたが、彼はあまり気にしていないようだった。言われた通りにエルヴィンさんの向かいに腰掛けると、机を挟んだ向こう側に居る彼は相変わらず何を考えているか分からない目をしていた。一瞬静まり返った部屋に、自身が最近やらかした出来事たちがふと頭を過ぎった。夜中に部屋を抜け出し書庫に行っていたこと、文字が読めたことをすぐに報告しなかったこと、食堂で兵士と勝手に話をしたこと。それらを思い出し今更変な緊張感が走り、太ももの上で重ねた手に力が入った。こんなふうに改まってエルヴィンさんに呼び出されるなんてこと今まではなかったのだ。

彼はそんな私の緊張を読み取ったのか、威圧感のない穏やかな雰囲気でこちらを見た。


「そう畏まらなくていい。今日はただ君と少し話がしたいと思っただけだ」
「話、ですか……」
「ああ。こうして顔を合わせてみないと分からないこともあるだろうからな」
「……はあ、」


面と向かって話すこと。確かにそれは重要だが、つまり私は今から尋問をされるのか?エルヴィンさんは一見穏やかそうに見えるが、しかし腹の底では何を考えているか分からないところがある。リヴァイのように分かりやすく敵意を剥き出しにしてくれればこちらとしても構えやすいが、彼は無害そうに見えて容赦なく「憲兵に突き出す」とか言い出すから気が抜けない。
私は彼らに協力するという形でここに留まらせてもらったが、今のところ何の役にも立ててないように思う。もしここで「要らない」と判断されれば、私はどうなるのだろう。毎日必死で、そんなところまでは考え至らなかったが、本当はもっと率先して役に立たなければならなかったのではないのだろうか。この世界に来て暫く経った今でも私が分かっていることなどほとんどないに等しいし、巨人がなぜ私に反応しないのかも未だに分かっていない。
まぁ、とはいえ、結局のところ何をすれば役に立てるのかすらも分かっていないのだから、どのみち私が役立たずであることには変わりないのだろうが。この世界では何をどう考えても八方塞がりだ。

どうしようもない現実に一人で勝手に気持ちを落ち込ませていると、エルヴィンさんは椅子から腰を上げておもむろに窓辺へと移動し、そこから夕焼け空を見上げながらそのまま口を開いた。


「──記憶はまだ戻りそうにないか?」


窓から入り込む夕日が目に染みる。エルヴィンさんの後ろ姿を見ながら、私は少し目を細めた。
ありもしない記憶喪失について聞かれ、また少しだけ緊張感が走る。記憶がないなんてそんなこと、彼らにいつまで通用するだろうか。違う世界から来たなんて突拍子もないことがバレるとは思えないが、それにしたって怪しすぎるのは変わらない。巨人に認識されにくいこともそうだが、私が壁の向こう側にいたということも彼らからすれば相当に不思議なことだろう。
しかし私は努めて冷静に、エルヴィンさんの背中を見ながら答えた。


「……はい。まだ思い出せていません」
「文字については?それは思い出したんだろう」
「あ、それは……急に読めるようになっただけなので、きっかけとかもよく分からないですし……すみません、」
「……そうか。それは、君にとっても厄介だろうな」


こうしてエルヴィンさんに何かを聞かれるとなぜだか責められているような気さえしてくるから、やっぱり居心地はあまり良くない。こちら側が記憶喪失などという嘘をついているからだろうか。負い目がある分、それ以外ではせめて誠実でいなければとは思うのだが、それもあまり上手くいかない。
少しの静寂のあと、エルヴィンさんは再び静かに口を開いた。


「──君は、なぜ自分が壁外に居たのだと思う?」


ナマエ、と名前を呼びながらエルヴィンさんは振り向き私の目を見た。その真っ直ぐな瞳に、吸い込まれそうだ。


「……なぜ、壁外にいたか、ですか」
「ああ。記憶が失くても、考えることくらいは出来るだろう。壁外に居たことを君自身はどう思っているんだ?」
「……、」


壁の外にいたことをどう思っているのかと聞かれても、本当に分からない。何がどうなってあそこで目を覚ましたのか。考えても考えても分からないのだ。でもきっと彼はそんな答えが聞きたいわけではないのだろうな。だとしても私には答えようがないのだが。


「……なぜ、なんでしょう。目を覚ましたらあそこに居て……その前に何があったのか、全く分からないんです。何度考えても、分からない」
「しかし、何か理由はあるはずだ。君が壁外にいたこと、そして記憶を失っていること。」
「理由……」


理由なんて、あるのだろうか。今起きているこの現実に、意味など。
何度も何度も考えた。でも分からなかった。私には日本で生きてきた記憶があって、最後に見たであろう光景も思い出せるが、そのあとに何が起こったのかなんて全く分からない。説明出来ることなのかすら分からない。
──それを、本当のことを、彼らに話せたらどれほど楽だろうか。本当は記憶喪失なんかではなくて、この世界の人間でもなくて、唐突にこの世界に来てしまったこと。直前に何がどうなってこうなったのかは全く説明出来ないし分からないけれど、とにかく目を覚ましたらこの世界にいたこと。理由なんて分からない。分かるはずがない。こんなこと。

私は両膝に置いた拳をきゅっと握りしめる。分かりません、という何度も言い続けてきた言葉を飲み込む。仕方のないことだとしても、嘘を吐き続けることは私にとってはそれなりに苦しいことでもあった。
なんて言えばいいのか分からず黙ったままでいると、それに痺れを切らしたのか彼の方からまた口を開いた。


「質問を変えよう。──君が、こちら側の人間ではない可能性はどれくらいあると思う?」
「……えっ?」


唐突に部屋の空気が変わる。エルヴィンさんの核心をつくような問いに、落としていた視線を思わず上げた。再び合った目は、少し冷たく見えた。


「この世界は壁の内と外で分けられている。もちろん細かいことを言えばそれだけではないが、大まかに言えば壁内と壁外で分けられているだろう。であれば君は、どちら側の人間だ?」
「 どちら側、って……それは、」
「君は、壁から随分と離れた場所に居たにも関わらず、移動手段も装備も持たず、その上巨人に認識すらされずにいた。君は本当に、壁内の人間なのか?我々の敵か、味方か。君はどちらだと思う」
「………、」


壁の内と外、どちら側の人間か?敵か味方か?
いきなり矢継ぎ早に聞かれて、思考がついていかない。その淡々とした口調が私を余計に混乱させる。
いや、そもそも、この世界に存在している人類は壁の中にしかいないと聞いた気がするのだが、壁の外にも巨人以外の誰かが存在しているということ?壁の向こうにも人間がいる?誰が?もしかしてそれって───、

頭の中に日本が思い浮かぶ。纏まらない思考の中、エルヴィンさんの視線が突き刺さり続ける。


「それって………、」


壁の向こうにも人類が存在しているのだとすれば、そこに行けば、もしかして、日本にも帰れる?そんな小さな希望が、ふっと湧いてすぐに消えた。向こう側に日本があるなんて、そんなわけが、あるわけ、ない。もしそうだったとしてもそれは途方もないくらい遠いはずで、簡単に行けるような距離じゃあない。だって繋がっているとしたら、この世界のことを知っているはずだ。地球上の話だとしたら分かっているはずだ。全く別の世界だから、だから全く知らないのだと、ずっとそう思っていた。私は異世界に来てしまったのだと。きっとそれは間違っていないのだ。ここは地球とは別の星で、世界で、だからきっとエルヴィンさんが話しているのは私の世界とは全く関係のないことのはずで、そうではなく、この世界での話なのだから、つまり、だから、彼が言いたいのは。


「……壁の向こうにも、人間がいるってことですか?」


私がどちら側の人間か。それは壁の向こう側にも人間がいるという前提での問いだ。
彼は私から何を聞き出したいのだろう。その真っ直ぐな瞳で、何を見ようとしているのだろう。この世界に、彼らの敵と思われる存在は巨人以外にもいるのだろうか。
壁を越えた向こう側には、そこには一体どんな景色が広がっているのだろう。私には想像もつかない。

私の問いに、エルヴィンさんは静かに口を開いた。


「……壁の外の人類は滅んでいる。我々はそう聞かされている。だが、この目で確かめたわけではない。」


静かな部屋に彼の言葉が消えていく。エルヴィンさんは目を伏せてまるで独り言のように、どこか聞き分けの悪い子供のように、そう言った。
その時、私は初めて彼という人間を見た気がした。そしてやはり彼は、壁の向こうにも人類が存在していると、そう考えているのだ。そして、その可能性はゼロではないだろう。最初に説明された時に他に人類はいないとそう聞かされていたから普通に信じていたが、そうではなかったとしても何もおかしくはない。地球にいろんな国が存在しているように。


「つまりエルヴィンさんは、壁の向こうにも人間がいて、そして私はそちら側の人間だと……そう言いたいのですか?」


確かに、それなら多少は私があんなところに居たことに説明がつく、かもしれない。壁の中からではなく、向こう側から来たと言った方がまだ納得は出来るかもしれない。彼らにとっては、だが。

私が落ち着いた声でエルヴィンさんにそう聞けば、伏せられていた彼の瞳がぱっとこっちを向いた。


「……その可能性も、捨てられない、と思っている」
「なるほど……」


ここへきて歯切れが悪くなるのはきっと彼の中でもこの話が仮説の域を出ていないからだろう。それもそうだ。彼らはまだ壁の外を調査している段階で、私のことだって初めての事例でよく分かっていないのだから。


「まぁ、でも、確かに……壁の向こうに人がいるかもしれないっていうのは、否定は出来ない、ですよね。そもそも壁の向こうのことは調べている途中の段階なんだから……断言は出来ないはず。可能性としては全く低くないですよね」


この世界について理解しきっていない私は簡単にそう言ってのける。視線を落とし右手を口元に当てながら、改めて私はこの世界について何にも知らないなと思わされる。しかしそれはもしかしたら彼らも同じなのかもしれない。
そんなことを考えながら、私は小さく息を吸ってエルヴィンさんの方を向く。


「……その上で私がどっちの人間かというのは、これに関しては記憶がないので断言は出来ないですけど、でも今はっきり言えるのは、今ここにいる私にはあなた方に対する敵意はないということです。もし私が向こう側のスパイか何かだと思っているなら、それは否定しておきます。そもそも私がそんな大層なことが出来る人間でないことは、普段兵士長さんから聞いているはずです」


向こう側に人が居たとして、それが敵か味方かなんてことは私には分からないけれど、それでも私に敵意がないことだけは確かだ。
…まぁでもリヴァイのことを敵視しているところはあるかもしれない、と内心で悪態をつく。あいつは単純にムカつくのだ。

そんな私の言葉にエルヴィンさんはなぜだか少し面を食らったような顔をしていて、私は小さく首を傾げた。彼が私のどの言葉に反応しているのかすら分からない。こうして面と向かって話をしているのに、彼の考えが読めない。私のことを敵視しているようにはもう見えないが。


「…そもそも、壁の向こうにいるのが敵とは限らないですよね?」


ふと思ったことを口にすれば、エルヴィンさんはようやく表情を戻して瞬きをした。そして我に返ったようにゆっくりと一歩を踏み出し、椅子の背もたれに手をかけてそこに座った。


「さあ、それはどうだろうな。敵でないのであれば、なぜ巨人は我々を食らおうとしてくるんだ」
「えっ……え?それって、もしかして、壁の向こうの人が巨人を従わせてるってことですか?」
「いや、全く分からないが」
「えぇ……いや、でも……確かに、それも、ありえる……?えっこわい……」


なんだか話がだんだん不穏な方へと向かっていく。もし、壁の向こうに誰かが居て、そしてその人らが巨人を従わせて壁の内側から出てきた人達を食べさせているのだとしたら、それはとんでもないことだ。巨人が本能で人間を食べるのではなく、そこに誰かの意思が働いているのであれば、それは今まで以上に残忍で残酷だ。

気分の悪くなる話にだんだんと心が重たくなっていると、しかしこの世界の当事者であるエルヴィンさんは存外割り切っているような雰囲気で口を開いた。


「──ナマエは信じるのか?この仮説を」


ふいに目が合う。初めて見る彼の純粋な瞳がこちらを窺うように見ていた。
彼は私が敵か味方かどうかを聞いたけれど、今となってはそれにはさして興味がないように見えた。そんなことよりも「壁の向こうに誰かがいる」という可能性の方が、彼にとっては大きな意味を持つように思えた。


「信じるというか……ありえない話ではないとは思います。きっと世界は広くて、まだまだ知り得ないことがたくさんあっても何もおかしくはないですよね。それこそ、この目で見てみないと分からないことは多いはずで」


何が起きてもおかしくはない。それは私が痛いくらいに分かっている。少し前まで私はこんな世界のことも知らなかったし、日本で普通に平穏に暮らしていたのだ。そう思うと胸がずしりと重たくなった。


「……そうか。まぁ、ともかく、君は敵ではないということだな。」


気を取り直すようにエルヴィンさんはそう言うと、今のところは、と最後に付け足した。
彼を纏う雰囲気はいつも通りに戻っていた。私はひとつ瞬きをして、口を開く。


「そう…ですね。今のところは」
「記憶も、早く取り戻せるよう祈っている」
「……もし記憶が戻ったとして、私が向こう側の人間だったらどうします?」


無意味なことを聞く。元からない記憶が戻ることなんてないが、エルヴィンさんはこの話題になると本心が少しだけ見えるような気がして、無駄に試すようなことを言ってしまった。
すると彼はふっと口角を上げて、私を真っ直ぐ見た。


「大歓迎だ」


意味ありげにそう言って、無邪気ともとれるような表情を見せる。少し分かりそうな気がしたのに、彼のことがもっと分からなくなった気がする。
話の終わりを感じて、私は小さく息を漏らした。


「時間を取らせて悪かった。もう戻ってくれて構わない」
「……はい。」


この人の底が知れる日なんて来ないのだろうな。私はそんなことを思いながら椅子から腰を上げ、一度ぺこりと軽く頭を下げてから足を一歩引いた。その時、ああそうだ、とエルヴィンさんが思い出したように口を開き、私はそっちを見た。


「今回話した件については、口外しないでもらえるか?」
「──え?」
「ここだけの話にしてもらいたい」


そう言ったエルヴィンさんの口元はゆるく微笑んでいたが、その瞳は有無を言わせない力強さを含んでいて、緩みかけていた気が思わず引き締まる。


「……はい、分かりました」
「もちろん、リヴァイにも報告しなくていい」
「え、リヴァイ……兵士長さん、にも、ですか?」
「ああ」
「……はあ、分かりました」


リヴァイにも?と、なんだか少し不安な気もしたが、なんとなく深く聞くことも出来ずにそのまま頷くと、最後に、信用しているよ、と念を押すような言葉を投げかけられて、もう一度ゆるく頭を下げた。
それから部屋の外に一歩出るとどっと疲れが押し寄せてきて、閉めたドアの前で、ふう、と静かに息を吐く。

なんだかとんでもない話をしたような気がするが、正直実感はあまりない。
しかしリヴァイにも秘密だなんて私には荷が重くないか?エルヴィンさんに呼ばれたことは知られているのに。別にそこまで内緒にするような話はしてないと思うのだが。それとも、もしかして私は試されているのだろうか。この話をどこかに漏らすかどうか、とか。


「(……うーん)」


疲れた。
とにかく、今日はもうゆっくり休もう。あ、でも、リヴァイの部屋に行って一日の報告とかはしなければ。あー、エルヴィンさんと何話してたか聞かれたら面倒だな。無理やり聞かれたらどうしよう。嫌すぎる。エルヴィンさんも無茶苦茶言うよなあ。どこが「畏まらなくていい」だったのだろう。冒頭に言われた言葉を思い出し、苦笑いする。

私は静かにため息をついて、ゆっくりと歩き出した。

憂鬱な気分でリヴァイの部屋に向かったが、そんな私の心配は徒労に終わり、その日リヴァイからそのことについて深く追求されることはなかった。なんだか逆にそれが怖かったが、とりあえずは安堵した。

私はまだ、この世界のことも彼らのことも、何も理解出来ていないのだった。


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