「いただきます」


二人しかいない静かな食堂で同じ長椅子に座りながら、スプーンを手に取りちらりと隣を見やる。少し間が空いてそこに座っている彼は未だに食事に手を付けておらず、せっかくのスープが冷めてしまう、と炊事兵のことをひっそり思いながら自分のスープを口に運んだ。彼の視線は依然落とされたままだ。

咀嚼音が聞こえてしまいそうなくらい静かな空間に、若干の居心地の悪さを覚え始める。隣に座ってはみたものの、昨日の今日でまた話しかけてもいいのだろうか。今更だが。
数分が経ち、しかしこのままただ食事をするだけではわざわざ隣に座った意味がない。私は残りのパンを一口齧って、それを水で流し込んでから、顔を上げて隣を向いた。


「……あの、」
「………」
「えっと、体調は大丈夫ですか?」
「…………はい」


また同じようなことを聞いてしまった。しかも相変わらず返事はそっけない。けれど、本当に構って欲しくないのであれば、わざわざこの時間を選んでここに来ることはないはずだ。多分。
私はもう一度水を飲んで、少しだけ彼の方に向き直った。


「何か、悩み事があるんですか?」
「………なやみ、」
「なんだかとても辛そうに見えて」
「…………。」


彼は息苦しそうに眉根を寄せた。太腿の上に置いている二つの拳にぎゅうっと力が入ったのが分かった。
それを見て、一体彼は何を抱えているのだろう、と思った。

しかし、ここで彼から話を聞き出して、聞けたとして、私に何が出来るだろう。この世界の人の悩みを、別の世界から来た私に解決することが出来るのだろうか。

───解決。

いや、もしかしたらそれは少し、違うのかもしれない。そんなことはきっと出来るわけはなくて。むしろ烏滸がましくすらある。私はただ、話を聞いて、少しでもこの人の苦しみに寄り添えたらと、それが出来ればもしかしたら彼の苦しみは少しでも軽くなるんじゃないかと、そうなればいいと。ただ、私は。


「もし……誰にも相談出来ないでいるのなら、私で良かったら聞かせて下さい。それくらいしか出来ませんが、でも少しはすっきりするかも」


話を聞いてくれる人が一人でもいたらいい。それだけで少しは、孤独ではないのだと感じられるのではないだろうか。

静かな食堂で、沈黙が続く。けれど私はそれ以上は何も言わなかった。彼の気持ちが決まるまで待つことにした。
何も言わず少しの間待っていると、彼は頭を項垂れたまま、ゆっくりと口を開き観念したようにぼそりと呟いた。


「………同期が、死んだんです」


その言葉にドクンと心臓が大きく鼓動した。

彼は顔を下に向けたまま、膝を睨みつけながら続けた。


「……俺はまだ、調査兵団に入って半年も経ってないんですけど……でも、大丈夫だと思ってたんです。自分達は死なないって、本気でそう思ってて……でも、この前の壁外調査で、同期の二人が巨人に食われて」


この前の壁外調査。それは──私がこの世界に来てしまった時の。

私よりも若い男の子の同期の死という言葉に、心がひどく重くなる。まだこんなに若いのに。まだまだ将来があるはずなのに。


「俺にとって同期はそいつらだけで……いつも励まし合って、これから調査兵団で生き抜こうって、いつも…話してたんですけど……巨人なんか、俺らでぶっ殺そうって……それでいつか……いつか、人間だけの世界を作ろうって」


絞り出すように声を出す彼に、私はもう何も言えなくなってしまった。兵士でも何でもない私には、彼にかける言葉なんて持ち合わせていなかったからだ。
ただひどく、胸が苦しかった。


「調査兵団を選んでからずっと、自分達だけは特別だと思ってたんです。俺らならやれるって、俺達ならやっていけるって。でも、現実は……違っていて。あいつらは、帰ってこなかった」


調査兵団の話は聞いていた。巨人が人間を食べることも知っていた。壁外調査に出た時はほとんど毎回被害が出るということも聞いていた。巨人の恐怖もそれなりに知っていた。
けれど、私は何も分かってなかった。


「あいつらが死んでから、ずっと、死への恐怖とか、巨人に食われることとか、そんなことばっかり思い浮かべて……怖くて、そうなると、動けなくなる。本当はあいつらの分も俺が、生きて、戦わなくちゃ、いけないのに……俺にはまだやるべきことがあるのに、でも、だけど、どうしても、」


───怖い…、と消え入りそうな声で呟いた彼に、私は何も言えない。本当に、何も言えなくなってしまった。
シンとした食堂で、私はただ彼の苦しんでいる姿を見ていることしか出来なかった。


「……俺は、何も知らなかったんだ。巨人と対峙した時の恐怖も、死を間近に感じることの恐怖も、仲間の死も、心臓を捧げるってことがどんなことなのかさえも……何も、分かってなかった」


握り締めていた拳をふっと緩めて、脱力したようにそれを開いた。そして両手で顔を覆う。


「もう、辞めたい……」


呟いたその声は震えていた。

──彼は、彼らは、どんな覚悟で、どんな気持ちで、壁の外に出たのだろう。それはきっととんでもない覚悟で、簡単な気持ちなんかじゃなくって、ただ、それを上回るほどの巨人という存在が、恐怖が、立ちはだかっている。
いつだかリヴァイが言っていた、「あんなもんを目の前にして、端から平気で笑っていられるような人間なんていると思うか」という言葉が頭に浮かぶ。


「……けど、こんなこと、誰にも言えない。同期の死で怖気付いて、巨人が怖いから、死ぬのが嫌だから、だから兵士を辞めたいなんて、そんなこと、誰にも言えるわけない。みんな戦ってるのに、あいつらも最後まで戦ったのに、俺一人だけ逃げ出すなんて……そんなの、許されるわけがない。でも、もう、どうしたらいいか、分かんねえ。……自分がこんなにも情けない人間だったなんて、知りたくなかった」


──情けない人間。

それは本当に、そうだろうか?こんなにも悩み苦しんで戦っている人が、情けない、なんて。そんなの。
その言葉を聞いて、私はようやく口から息を吸った。まるで今まで息をすることを忘れていたみたいだ。ぎゅっと拳を握って、そうして、彼の方に少し身を乗り出す。


「──情けないなんて、そんなこと、絶対にない。そんなわけがない。だってあなたは、逃げることを選んでいない。こんなにもちゃんと向き合って、苦しんで、悩んでいる。それが情けないなんて、そんなわけないよ」


私には何も出来ない。彼にかけられる言葉なんて多くは持っていない。彼を救うことは私には出来ないけれど、でも、彼が自分を情けない人間だと言うことを、否定することくらいは出来る。


「…友達が死んで、苦しいのは当たり前だと思う。辛くて当然だよ。巨人が怖いのだって、そんなの当たり前でしょう?あんなのが襲ってきたら怖いに決まってるじゃん。怖気付いたって何もおかしくない。それを簡単に乗り越えられる人なんてきっとそうそう居ないよ。同じような人は他にも居るんじゃないかな?私は兵士じゃないから詳しいことはよく分からないけど、でも、あなたがおかしいなんて思わない。きっとそれが普通の感情だよ」


私なんかでは励ますことは出来ないし、私は兵士ではないから彼の恐怖を同じ立場で理解することも出来ない。だから。


「きっと他にもいると思う。今までだっていたはずだよ。一人で悩むより、調査兵団の人に話を聞いてもらった方がずっと楽になると思う……けど、誰か話せそうな人はいないの……?」
「………こんなの、先輩達には言えない」
「そうかな……そう、なのかな?気持ちを分かってくれる人はいるんじゃないかな……」
「……そんなの、あなたは兵士じゃないから簡単に言えるんだ……」
「それは………それは、そう、だね」
「辞めたいと思ってるなんて、無責任なこと言えねえよ」
「……でも、どんなふうに思っているのかを聞いてもらうことは悪いことじゃないと思う。辛いってこと、ちゃんと吐き出して、誰かに聞いてもらうの。他の人も同じ気持ちかもしれないし。根本的な解決にはならないかもだけど、でも同じ気持ちの人がいるってだけで少しは救われたりしないかな?励まし合えるかも」
「そんなの……」
「だって、先輩とはいえ同じ志を持つ仲間でしょう?きっといろんなことを乗り越えてきたんだろうし、分かってくれる人はいると思う……いてほしい……」
「……でも俺、これから先、やっていける自信もない」
「それは、……それは、最後に決めればいいんじゃないかな……いろいろ話をして、他の人の意見も聞いてみて、それでも辞めたいのならそれを止める権利は誰にもない……」
「でも、そしたら俺は、途中で逃げ出した腰抜けだ」
「……そんなことはない。そもそも、逃げることの何が悪い?どうにもならない時は、苦しくて辛い時は、逃げ出したっていいじゃん。それはそんなに悪いことなの?」
「………」
「恥ずかしくない人間なんていないよ。いつだって胸を張っていられる人なんていないよ。私はあなたに、無責任に続けろとも辞めろとも言えない。ただ、悩み抜いた先の選択が、あなたにとっていい結果をもたらすものだといいなって、そう思うよ。」
「……いい、結果」
「うん。…ていうかなんだか偉そうにいろいろと言って申し訳ないけど……とにかく、一人で悩むより誰かに言った方がいいのは確か。あなたにとって同期は二人だけだったかもしれないけど、仲間は他にもいるでしょう?」
「……仲間、ね」
「きっと、いや絶対、真剣に話を聞いてくれる人はいるよ。誰かに相談することは情けないことなんかじゃないよ?こんなにも苦しんでるんだもん。それを馬鹿にするやつがいたら私が許さないわ。私の許しなんてどうでもいいかもしれないけど」


いつの間にか、項垂れていた顔は私の方を真っ直ぐに向いていて、彼の目の色が綺麗な青色をしていることに初めて気付いた。
まだ若いこんな子が、ずっと一人で悩んでいたのかと思うと、胸が苦しくなる。私は彼の両肩をぐっと掴んで、力を込めた。


「……大丈夫!きっと、相談に乗ってくれる人がいる。だからこれ以上一人で悩まないで」


私の「大丈夫」が彼にとって意味のあるものかどうかは分からない。本当に「大丈夫」なのかすらも分からない。私は、なんて無責任なのだろう。でも、私ではない誰かが、調査兵団の誰かが、きっと話を聞いてくれる。私は、その後押しくらいは出来るはずだ。

彼の目を真っ直ぐに見ながら力強くそう言うと、黙ったまま私を見つめていたその瞳がゆるりと私の後ろの方へと向かった。そうして、その青色はゆっくりと見開かれた。


「……リヴァイ兵長、」


リヴァイ兵長?
急に出てきたその言葉に、私も彼と同じように自身の背後へと顔を向ける。ゆっくりと振り返りながら、私は嫌な予感がしていた。


「お前、こんなところで何してんだ」


聞き慣れた低い声が耳に響く。そしてその次の瞬間、私の首元がぎゅっと詰まった。シャツの後ろ襟を無遠慮に掴まれて、私の体はリヴァイの方へと強引に引き寄せられた。
静かな食堂で椅子とテーブルが音を立てて、私は無理矢理引っ張り上げられる。苦しさに顔を歪めていると、冷たい瞳と目が合った。──ヤバい。怒ってる?

あまり人と関わるなと言われていたことと、次はないと言われたばかりだったこともついでに思い出し、さすがに肝が冷えた。言いつけを破りまくっている。
内心焦っていると、リヴァイは私を掴んだまま若い兵士の方をちらりと見た。彼はいつの間にか立ち上がっている。


「──オイ、お前…」
「は、はいッ!」


リヴァイに声を掛けられると、彼は自身の右拳を心臓の前に叩きつけた。その様子は緊張というよりもリヴァイに対して怯えているようにも見える。ペトラは平気そうだったが、やはり入ったばかりの兵士にはそれなりに恐れられているのだろうか。この目付きと態度では仕方ないと思うが。
しかしそんなことには慣れているのか、リヴァイは特に気にした様子もなく続けた。


「こいつの分の皿も片付けておけ」
「分かりました!」
「……それとてめえの分はちゃんと食えよ。」
「…っは、はい!」


何を言うのかと思ったが、リヴァイは特別厳しいことは何も言わず、むしろ彼の手付かずの食事を見てそう言った。私のお皿にはまだ食事が少しだけ残っているのだが、それはもう食べさせてもらえないらしい。勿体無くないか?


「てめえはこっちだ」
「あッ、ちょっ」


私の意思はまるっきり無視で首根っこを掴まれたまま食堂をあとにする。目の青い彼とは言葉を交わせず、そのままのお別れとなってしまった。とんでもない去り際になってしまったが、まぁ伝えたいことは全て伝えられたと思う。いや、そんなことよりも。強引に後ろ襟を掴まれたままの移動はさすがに苦しくて、放して下さいと頼んだが、謝罪も何もかも含め徹底的に無視された。
さすがにヤバいな、と思っていると案の定そのまま地下牢まで連れてこられた。嫌な空気が肌に纏わり付き、ここで何日か過ごしたことを思い出してぞくりと身震いする。
リヴァイはそのまま牢を開けると私をその中に雑に放り投げた。綺麗とは言えない冷たくて固いザラついた地面で肌を擦り、痛みが走った。


「っ……」


その痛みに耐えながら、ゆっくりと体を起こし振り返ると、薄暗い中黙って立っているリヴァイが見える。しかしその表情は暗さのせいでよく分からなかった。指先が冷えていく。

───あの青い目をした兵士は、これからどうなるのだろう?誰かに相談することが出来るだろうか。話を聞いてくれる兵士は調査兵団にいるだろうか。分からないけれど、でも、一人でもいてくれたらいい。彼の気持ちを分かってくれる人がいることを願う。

私は、今日、彼と話をしたことを後悔したりはしない。絶対に。


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