最近、馬に慣れる為に朝の餌やりと馬房の掃除を手伝わせてもらっているが、まだまだ全然慣れていない。 もちろん巨人とは違って見てるだけで怖いということはないし、どちらかと言えば可愛いとすら思える時もあるけれど、でもそれは眺めてる時だけだ。自分が馬に乗るのだと考えると怖くなる。もし乗っている時に急に暴れたり走り出したりしたら多分私だけでは止められないし、落馬して踏みつけられたりしたらもっと怖い。餌をあげてる時は平気だけど、馬房から馬を出す時に嫌がられたりすると途端に怖くなる。 今朝も、馬房から出す際に上手く出来ずに大変だった。 馬の世話をしたあとはいつも通りの筋トレと走り込みなどを当然のようにしなければならないし、リヴァイからは護身用の格闘術を容赦なく叩き込まれているせいで節々が痛いし、気付けば擦り傷や痣が体のそこかしこに出来ている。 「……はあ」 青い空を見上げて、ため息をぽつりと吐く。 本当に、何をやっているのだろう、と思う。訓練場で一人ぼうっと雲が流れていくのを見つめながら、現状を嘆いていると一羽の鳥が空を横切る。 ──空は、どこの世界でも同じなのだろうか。青くて、広い。 この世界は大きな壁に囲まれていて壁のずっとずっと向こうにはまだ誰も行ったことがないという。 そこへ行けば、何かあるのだろうか。ハンジさんから聞いた話だと壁の外の人類は滅んだと言われているようだけれど、本当に他の人間はいないのだろうか。それとも巨人の国があるのだろうか。私みたいな人間は他には居ないのか?どうして私はこんなことになっているのだ。誰か教えてくれ。そして日本への帰り方も教えてほしい。 一生、このままだったらどうしよう? 同じ疑問と不安だけがずっと迷路みたいにぐるぐるとさ迷っている。 私はどうやってここへ来たのだろうか。どうやったら帰れるのだろう。 風が静かに吹いて、髪が揺れる。 こんなふうに風に吹かれることにも少しだけ慣れてきたような気がする。 けれども、私の居場所はここではないのだ。 空から視線を下ろして足にぐっと力を入れると、ズキンと痛んだ。 「………はあ。」 早くも本日二度目のため息が出る。 だけど今日はリヴァイが忙しいらしく、こちらには顔を出さないらしい。つまり護身術を習わなくて済むということで、それだけは良かったと言える。痛いだけでほとんど拷問みたいな時間なのだ。あれは。 静かに、再び空を仰ぐ。 なんだか少し、疲れた。体力は少しだけついてきたような気がするけれど、慣れないことばかりで精神的にもかなり疲れている。いや、体も全然疲れまくっているけれど。心身共にボロッボロだ。 思わず出そうになった本日三度目のため息を堪えて、代わりに深呼吸するように深く息を吐いた。 ズキズキと痛む足を見つめて、そのままぐっと奥歯を噛んだ。 ◇ 本部内の廊下を一人、壁を伝って歩いている。 日はもう暮れていて窓の外は暗く、日中とは違って本部内もだいぶ薄暗い。蝋燭の灯りだけでは心許ないように思う。 たまにすれ違う兵士の人達は、いつも私には見向きもせずに通り過ぎて行く。まるで、私が見えていないみたいだ。こんなふうに足を引きずりながら壁伝いに歩いていても、軽く目を向けることすらしない。 私という存在は、この調査兵団という組織の中では異物だ。そんな人間とわざわざ関わり合おうとするような人がどれくらい居るだろう。 少しでも受け入れて欲しい、なんて烏滸がましいこと、だろうか。私が彼らを信頼出来ていないのに、それを望むなんておかしいだろうか。 私は、私なりに、無害であることを証明してきているつもりでも、そんなのここにいる誰にも伝わらない。関わろうとしてくれる人は居ない。目を合わせようとすら。 それでも最近はこんなふうに扱われることにも少し慣れてきたけれど、でも、やっぱり孤独を感じてしまうのだ。ずっと孤独感が拭えないでいる。 一人でも大丈夫だと、どんな扱いをされても気にせずに強くいられたらいいのだけれど、今の私には無理そうだ。 自分に与えられた部屋がある階まで階段を上ると、人通りはなくなった。おそらくリヴァイの部屋がある階は他の兵士はそうそう訪れないのだろう。それこそ、リヴァイに用がある時くらいしか。だから普段からこの階は人の気配があまりない。 もう少し行けば自分の部屋がある。 ここまで歩いてきて気が抜けたのか、階段のすぐ横の壁に預けた背中がズルズルと床に向かって落ちていく。 今日一日のやるべきことはもう終えた。あとは夕食を食べてシャワーを浴びて、それとリヴァイの部屋に行って報告をする。忙しいと言っていたがいつ行けばいいのだろう。今日は朝会ったっきり顔を見ていない。 「……疲れた」 床に座り込んだまま、もぞもぞと膝を抱えてそこに顔を埋める。なんだかもう、疲れてしまった。後のことは何も考えずにそのまま目を閉じる。 視界が真っ暗になると、なんだか余計に孤独感がじわじわと増していくような、そんな感じがした。 「オイ」 ふと声がして、反射的にゆっくりと瞼を開き、膝から顔を上げる。いつのまにか眠ってしまっていたようだった。ぼやける視界の中、誰かの足が見えて、ゆるりとその人を見上げた。 「お前の部屋は一体いつからそこになったんだ」 「………、」 リヴァイがそこにいて、私を見下ろしていた。 だけれどなんだか頭がうまく働かない。 「気分でも悪いのか」 「………えっと…だいじょうぶ、です」 「だったらなぜこんなところで寝てやがる?てめえの部屋はすぐそこだろうが」 「……あぁ…すみません……ちょっと、疲れて」 横の方を見てみると、確かに数メートル先に部屋がある。手前にリヴァイの部屋があり、その一つ奥が私の部屋だ。リヴァイは煩わしそうに眉根を寄せた。 「廊下に住み着いていいなんていつ許可した?さっさと部屋に戻れ」 「………はあ」 そう言うとリヴァイは自身の部屋の方へと歩き出し、私から目を逸らす。私はまだ開き切っていない瞳で彼が歩いていくのをぼんやりと見送り、そして部屋に入ったのをそのまま見届けた。 再び一人になり、廊下はシンとして、私は横を向いたまままた膝に顔を預けた。 部屋に戻らなければならないのに、立ち上がる気力が湧かない。 リヴァイの姿が消えていったところをぼうっと見つめたまま、ゆっくりと瞬きを繰り返す。そこにはもう誰もいない。 ──孤独だ。私はいつだって独りだ。この世界にひとりぼっちだ。 でも、だから、自分一人で、立ち上がらなければならない。 どうにもならない現実に口元を歪めて、膝に手をついて立ち上がろうとすれば、ズキンと足首が痛んだ。 「いッ……、」 その痛みで、足首を捻っていたことを思い出す。ああ、そうだ。今日はずっとこの痛みに振り回されていた。そのせいでトレーニングもままならなかったし、余計に疲れたし、歩くのも大変だったし、階段を上るのだって苦労した。 眉根を寄せたまま、立ち上がろうとしたのをやめて、ゆったりと体の力を抜く。 「……はあ」 ため息をついて、もう少しだけここで休んでから戻ろうと、顔を膝に埋めながら再び目を閉じた。 「オイ、立て」 「………え…?」 先ほどと同じように声がして、また目を開く。それと同時にぐっと腕を掴まれて体が少し浮いた。顔を上げると、またリヴァイがそこに居て、私の腕を掴んでいた。 「……あ、えっと……」 「てめえいつまでそこにいるつもりだ。迷惑だろうが。立て」 あれからどれくらい経ったのだろう、言い訳をする暇もなくぐっと腕を引っ張られて、言われるがままに立ち上がろうとしたけれど、足に力を入れるとまた足首が痛み、顔が歪む。するとリヴァイが掴む手に更にぎゅっと力を入れて、そのまま引っ張り上げるように私をその場に立たせた。 急に立たされて少しよろけたが、リヴァイはしっかりと私の腕を掴んでいる。 「来い。」 そしてそのまま部屋の方へと引っ張られて、よろけながらもリヴァイについて行く。痛みを感じながらも少し歩けばリヴァイの部屋の前に着き、彼はガチャリとドアを開けて私を中へ入れた。 「座れ。」 部屋の中は紅茶の香りがした。誰かとお茶でもしていたのだろうか。机にはカップとポットが見える。 そんなことを思っていると机の手前に置いてあるイスへと座らされて、するりと手が放れるとリヴァイは私の正面にそのまま屈み、流れるように足首に手を触れた。 「いッ……!」 触られると痛くて思わず声を上げれば、しかしリヴァイはそんなことには少しも構う様子も見せずに躊躇いなく私の靴を脱がせて、それからズボンの裾を捲り上げた。淡々と行われるそれに、抵抗することも出来ない。 「いつ挫いた」 「…え……っと」 少し腫れている足首の具合を確かめるように触れながら、それに視線を落としたままいつ挫いたのかと聞いてくる。 答えられずに言い淀んでいると、眉間にシワを寄せたリヴァイが私を見る。早く答えろと目が言っているのが分かる。 だけど、私が足を挫いたことをどうして知っているのか。 「……朝に、馬房の掃除をしていた、ときに」 ──今朝、馬を馬房から移動させようとした時に少し暴れられて、それに驚いて足を滑らせた際に捻ってしまったことを思い出す。 誰にも見られていなかったはずだし、リヴァイとはさっき顔を合わせるまで一度も会わなかったはずだ。 「……大方、馬に驚いて一人で勝手に挫いたんだろう。どんくせえ女だな」 そのままズバリ言い当てられて、ぐっと口を結ぶ。 しかし全く以ってその通りなのだが、なんだか腑に落ちない。言い方が気に食わないのだ。 「冷やしたか?」 「……いえ」 「馬鹿か?」 「なっ……」 相変わらず何を考えているのか分からない瞳がこちらをじろりと見て、私はぎゅっと拳を握り締めた。 「これで冷やしておけ」 「うわっ」 立ち上がったリヴァイは、いつの間に用意したのか水の入った桶からタオルを絞って取り出し、それを私の顔へと投げつけた。絞って硬くなったタオルが顔に当たり、太ももの上へとぼとりと落ちる。それが地味に痛くて手のひらで顔を押さえながら、タオルが当たった際についた水気を手で拭き取り、それからリヴァイをじろりと見る。 「……どうして、足捻ったこと知ってるんですか」 「あ?」 私は眉根を寄せながらも、投げられたタオルを広げて、それを足首へと当てた。そうして一番の疑問をリヴァイへと投げ掛ける。 ハンカチで濡れた手を拭いているリヴァイは、ひとつ瞬きをすると、私の方に向き直り嫌味っぽく口を開いた。 「……俺の部屋の窓からは訓練場にいるお前の姿がよぉく見える。お前が片足を引きずりながら歩いていた無様な姿も、よく見えたぜ」 「……あぁ、そういう」 忙しかったとはいえ、私を監視するのがリヴァイの役目なのだから、一日中ずっと目を離しているわけはないのだ。側にいなかったとしても、いつだってどこからか見られている可能性があることを改めて忘れないでおこう。別に何か悪いことをしているわけではないけれど。ていうかそれにしても嫌味な言い方だ。 「冷やしたらそれで固定しておけ」 そう言って水桶の隣にちょこんと置いてある包帯に視線をやるリヴァイにつられて、私もそれに視線を向ける。 それにしても、水桶もタオルも包帯も、いつのまに用意したのだろう。 「……ありがとうございます」 言い方は気に食わないけれど、こうして手当てをしてくれたことは事実だ。しかしお礼の言葉に返事はなく、それでも今更気にすることもなくぼんやりとそれらを見つめていると、リヴァイはハンカチを仕舞いながら机を回り込み自身のイスへと腰掛けた。定位置に収まったリヴァイを他所に、タオルで冷やしている足首に視線を落としていると、後ろから紅茶を淹れる音が聞こえ始める。特に何も思わずに黙っていると、カチャリと音がした。 「飲め」 声がして、ゆっくり振り返る。 すると、こちら側に寄せられているカップが目に入ってきて、その中で揺れる紅茶に視線がいった。 ──カップに、紅茶が注がれている。 それと同じようにリヴァイの前にも置かれているカップを見て、私は半信半疑でリヴァイへと視線を向けた。 「……え?」 さっきまで空であったそのカップは他の誰かが飲んだあとのものだとばかり思っていたのに、湯気を立てているそれは、どう見てもこの時間に合わせたものだった。 そうしてリヴァイは一言、「飲め」と言った。 「……え、これ……私の?」 机を挟んで向かい側に座るリヴァイは、私とは目を合わせない。 「この部屋に俺とお前以外の誰かがいるように見えんのか」 余計な音はしないし、他の誰かがいるようにももちろん見えない。 ──見えない、けれど、でも、あなたがわざわざ私の分も紅茶を用意してくれるような人にも、正直見えないのですが。 「……」 内心でそんなことを思いながらも、黙ったままもう一度カップへと視線を落として、机とは反対の方を向いていたイスの向きを変えながら座り直し、カップへとそっと手を伸ばした。 |