暗い闇の中で、目の前に巨人が立っているのだけがはっきりと見えた。こちらを見下ろす意思のなさそうな瞳はそれでもしっかりと私を捉えていて、その瞳に映り込む私は右手にナイフを握り締めていた。巨人は私をじっと見つめたあとゆっくりと大きく口を開き、ぐぐぐと距離を詰めてくる。頭の上からがぶりと食べられてしまう前に私は右手を振り上げて強く握っているナイフをそのまま巨人の顔へと突き立てた。ずぶりと肉に刺さる感触がナイフを伝ってきて、すぐに引き抜くとそこから血がぶわりと噴き出し、生温かい血液が顔にかかった。けれど私はそれを拭うこともせずまた同じように巨人の顔へとナイフを突き刺す。まるで気が狂ったみたいに何度も何度もそれを繰り返すと視界は真っ赤に染まっていった。巨人は呻き声を上げながら私の体を馬鹿でかい手でぐっと握り締め、すると簡単に肺が押し潰されそうになって息が苦しくなり身動きが取れなくなる。内臓が口から飛び出してしまいそうなくらいにぎゅっと握られると、体中の血液が頭に集まって溜まっていくような感じがした。頭が破裂しそうになり、じわじわと視界が暗くなっていく。最後に巨人の大きな唇が楽しそうに弧を描いたのが見えて、そしてそのまま真っ暗になった。



まるで深い深い海の底にいるみたいだった。ゆっくりと真っ暗な闇の中を落ちていくようだ。意識は朦朧としていて何も考えられない。
少しずつ闇と同化していくような感じがして私という存在がそのままなくなってしまうような感覚に陥る。消えてしまうのだろうか。このまま誰にも気づかれずに。



ふと、誰かの声が聞こえた。

その声にゆっくりと目を開けるとそこには暗い海のような色をした闇が広がっているだけで、何も見えなかった。


もう一度、声がする。


瞬きをして、顔を上げてみるけれど何も見えない。明かりもない。真っ暗だ。どこから聞こえるのだろう。気のせいだったのだろうか。


『……まで……つもりだ……』


──まただ。やっぱり、声が聞こえる。

そしてなぜだか、なぜかは分からないけれど、どことなく聞き覚えがあるような気がしてくる。誰かは分からないのにどこかで聞いたことがあるような。おそらく私はこの声を知っている。だけど頭に靄がかかったみたいにうまく思い出せない。

決して耳馴染みが良いわけではないし懐かしいわけでもない。どちらかというと慣れたくもないのに聞き慣れてしまったような。そんな声だ。心地の良い声色ではない。

誰だろう。誰だろう?

回らない頭でどうにか記憶を辿って呼び覚ます。

どこかで、聞いたことのある声。




───情けねえ叫び声が聞こえたと思ったがお前だけか?

───つまりてめえは罪人ってことだ。そこがお似合いだと俺は思うがな

───てめえの薄汚れたツラ見なくて済むならこっちも万々歳だ



……なんだか、とても腹立たしいことを思い出したような気がする。怒りのようなものが僅かに込み上げてくるのが分かった。
一体誰なのだ。失礼極まりない上に馴れ馴れしく声を掛けてくるのは。

この声は。この喋り方は。

低い声に、命令口調。

……心がざわつき始める。



「てめえいい加減にしろ。とっとと目ぇ覚ませ」


頭に直接響くような声が今度はハッキリと聞こえて、はっと息を吸い込んだ。頭の中の靄が一気に晴れると、後ろに誰かが立っているような気配がして振り返ろうとしたが、その瞬間振り向くよりも先に背後から伸びてきた手にグッと胸ぐらを掴まれて、そうして、意識が覚醒する。


「───オイ、」


ガクンッといきなり上体が持ち上がり、頭が揺れた。思わず眉を顰めながら目を開くと誰かがそこにいる。しかしこの乱暴な扱い、身に覚えがある。


「……やっと起きたか。」


目を開けば、リヴァイの顔がそこにあった。なぜだか胸ぐらを掴まれている。彼を見上げるような視界に、自分が横になっていることを自覚した。

部屋は静かで、私とリヴァイの二人しかいない。どういう状況だ?──頭が混乱している。眠る前の記憶が曖昧で今が何時なのかすらも分からない。しかしリヴァイに起こされたということは早朝なのか?だけど、いつもと雰囲気が少し違うような気もする。
瞬きだけを繰り返す私に、リヴァイは続けて不機嫌そうに口を開いた。


「どんな夢を見てたか知らねぇが、うるせえんだよ。てめえは黙って寝ることも出来ねえのか」
「……ゆめ……?」


掴まれていた服がしゅるりと放されて、少しだけ浮いていた私の上体は再びベッドへと沈む。
ぼんやりとした蝋燭の灯りが薄暗い室内を照らしていて、リヴァイの後ろに広がって見えるのは私に与えられている部屋だと分かった。

だけど、やっぱり思い出せない。今はいつで、何をしていたんだっけ?
リヴァイはベッドの横に立ったまま私を見下ろしている。なんとなく体に力が入らなくて、起き上がることが出来ない。


「覚えてねえのか」
「へ……なに、を……」


状況に全くついていけずにいると、そんな私を見兼ねたのかリヴァイは近くに置いてあった簡素なイスを雑に引き寄せると、面倒くさそうにそこへ座った。座り方さえ相変わらずガラが悪い。


「──今朝、廊下でぶっ倒れてたお前をハンジが見つけたらしい。声を掛けても目を覚さなかったが息はあったからそのままベッドに運んだんだとよ」
「え、廊下で……?」


廊下で倒れていた?今日の朝?

リヴァイはそれを淡々と説明する。しかしそうは言われても全く覚えていない。朝起きたところまではなんとなく記憶があるような気もするけど。確かひどく憂鬱な朝だった。いやまぁ大体いつもそうなんだけれども。


「それで、気分はどうだ」
「……えっ…と」
「俺らがせっせと働いていた最中、お前は一人だけ一日中眠りこけていたわけだが、気分はどうだ」


いやそんな責められるような聞き方をされたら気分は悪いんだが。

相変わらずどんな時でも嫌味ったらしい男だ。しかし、その内容を聞いて私は思わずがばりと体を起こした。


「えっ?!一日中寝てたのわたし!?」
「……うるせえな。騒ぐんじゃねえよ」


己の睡眠時間の長さにさすがに驚く。窓の方に目をやると、外はめっちゃ真っ暗だった。本当に一日中眠ってしまったらしい。どうやら今は深夜のようだ。

いや──そんなことより。


「じ、実験は……、」
「今から行って間に合うと思うか?」
「………。」


巨人との実験。私がいなければ始まるわけがない。つまり、私のせいで今日一日の予定を変更させてしまったということだ。今日も朝から実験をする予定だったのに、出来なかった。明らかに迷惑をかけてしまった。
一気に申し訳ない気持ちが押し寄せてくる。

ハンジさんの巨人への思いは常軌を逸したものがあったが、しかしそれ以上に謎を解明してやろうという情熱も私は少なからず感じていた。彼女はテンションが高くて言うこともめちゃくちゃで正直うんざりすることもあったけれど、それでも私が協力することで彼女達の役に少しでも立てればいいなとそれなりに思っていた。

私がここにいる理由。この人達に協力すること。私の役目は、足を引っ張ることではないのに。
不本意ではあるがお世話になっている身で、今のところそれで助かっているのも事実だ。やるべきことは、やらなければならない。なるべく迷惑はかけてはいけないのに。


「……すみませんでした」


気分は最悪だ。
猛省して素直に謝ると、リヴァイは黙ったまま、膝の上にもう片方の足首を乗っけるようにして足を組んだ。ギシリとイスが鳴る。


「まぁ……気にするな。お前の存在は元々おまけ程度のもので、てめえがどうなろうがこっちには何の支障もねえし、いようがいまいが起きてようが寝ていようが関係ねえよ。」
「……。」


せめて気にするなと言うのならもう少しマシな言葉を掛けてくれてもいいと思うのだが?全く励まされてる気がしない。もちろん励ます気なんて更々ないのだろうが。
そのさすがの言い回しにはもはや感銘を受けるが、私は思わずジト目でリヴァイを見つめた。


「そうですか……特に支障がなかったみたいで良かったです。でもそれなら明日もゆっくりしていいですか」
「調子に乗るな。これだけ寝りゃあ睡眠不足は解消されただろ」
「………さぁ、どうですかね」


そう言われて、先ほどの夢のことを思い出した。気味の悪い夢。ナイフから伝わってきた、肉を抉る嫌な感触が手に残っているような感じがする。
ここのところずっと悪夢ばかり見ているから、寝ていても眠れた感じがしない。今だってそうだ。

伏し目になって少し眉根を寄せると、ベッドの上で伸ばしている足の太もも辺りに、いきなりぽすりとリンゴが落ちてきた。それが視界に入ると思わず目を丸くする。


「ハンジからだ。あいつも様子は見にきてたみたいだが……お前がアホみてえに眠ってたから、起こさなかったんだろうな」


赤くてまあるいリンゴ。ハンジさんが持ってきてくれたというそれにゆっくりと触れる。
ハンジさん、わざわざ様子を見にきてくれたのか。しかも果物まで持ってきてくれて。その優しさに改めて申し訳ないことをしてしまったと思わされる。リンゴに視線を落としたまま、私はリヴァイに向かって口を開いた。


「……そりゃあハンジさんはあなたと違ってお優しいですから……寝ている人の胸ぐらを掴んで起こしたりはしなかったのでしょうね」
「あ?何言ってんだ……俺はむしろ感謝してほしいくらいだが」
「はい?胸ぐらを掴んだことにですか?感謝しろと?」
「ああ。お前が魘されてて可哀想だと思ったから、わざわざ起こしてやったんだぜ」


その言葉に、目が覚めた時のことを思い起こす。そういえば、てめえは黙って寝ることも出来ねえのか、とかなんとか言ってたような。
そっか私魘されてたんだ。あんな悪夢を見ていたんだから、それも当然かもしれないが。

──いやいや、だとしても。だとしてもだ。

もし彼に少しでも可哀想という感情があったのだとしたら、胸ぐらを掴んで起こしたりするか?いやしない。絶対にしない。どうせこいつのことだから可哀想とかじゃなくうるせえとか耳障りだとかそういう理由で起こしたに決まってる。


「それは、わざわざ、ありがとうございます。おかげでちょっと首が痛いような気がしますけど」


とりあえずこちらも丁寧にお礼を言っておく。本当、いちいち乱暴なのどうにかしてほしいのだが。ていうかそもそもどうして私の部屋にいるんだこの人は。

なんだかやるせなくなってきて、小さくため息を吐きながらまたリンゴに視線を落とす。
…これは、私が知っている(日本で食べたことのある)リンゴだ。味も同じなのだろうか。じっと見つめていると、リヴァイが口を開いた。


「言っておくが観賞用じゃねえからな。ちゃんと食えよ。お前、最近ろくにメシも食ってなかっただろ。だからこんなことになる」
「……」
「寝不足だってそうだ。体調管理くらい自分でしっかりやれ」


その言葉に、心が重くなる。
なぜならそれは本当に、その通りだからだ。もういい大人なのだから、なるべく体調は崩さないように、普段から心掛けるべきだろう。

だけど、食欲が湧かないのも、夜寝付きが悪いのも、自分ではどうにも出来ないのだ。私だってどうにかしたい。私が一番どうにかしたいけれど、でもこればっかりは。


「……怖いんですよ」
「あ?」


リンゴを包む手に少し力が入る。それに暗い視線を落としたまま、私はぽつりと話し始めた。


「怖いんです。巨人が。あの目が。目の前にいなくても、近くにいなくても恐ろしくて……眠れないんです。だって、たとえ今は私に反応を示さなかったとしても、先のことは分からない。もしかしたら急に私を認識するかもしれない。そうしたら、どうなるんでしょう」


いつだって怖くてたまらない。いつか食べられるんじゃないかと、そう思うとたまらなく恐ろしい。
実験ではどこまで反応しないかを調べる為にいろんなことをした。限界まで近づいたり、巨人の顔にナイフを刺したりもした。化け物とはいえほとんど人間と同じ形をした生き物にナイフを刺すのにはかなり抵抗があったし、私自身には反応を見せなくても痛がるような素振りは普通に見せるし、傷付けるという行為自体が恐ろしかった。皮膚が裂けて肉にずぶりと入っていくあの感触が、忘れられない。


「……目を閉じると、あの大きな瞳が、闇の中で私をじっと見つめているような気がして、まるでずっと付き纏われているみたいで……夜が、暗闇が、怖くて、これから先のことだってひとつも分からなくて、一人になるとどうしようもなく寂しくて……頭の中がぐちゃぐちゃになって……どうしてこんなところにいるのかすら、分からなくて……」


それは一度言葉にすると、止まらなくなる。
今まではここまでの弱音を誰かに吐いたことはなかったけれど、ほとんど無意識に打ち明けていた。こんなことを彼に言っても慰めてくれるはずはない──どころか、むしろ厳しく追い討ちをかけられる可能性の方が高いというのに。
だけど、もう限界に近かった。
恐怖を、不安を、吐き出してしまいたかった。

──大丈夫だと、誰かにそう言ってほしかった。


「……怖いんです……」


消え入りそうな声で最後にそう呟いた。どうしてこんなこと、言っているんだろう。私が黙ると部屋はシンとして、居心地が悪くなる。よりにもよってリヴァイにこんなことを言わなくてもいいじゃないか。私。
自分で自分をおかしく思う。気分は落ちていくばかりだ。

返事を期待していなかった私はどうすればいいのか分からなくなってそのまま何も言えずにいると、それまで黙っていたリヴァイがそっと口を開いた。


「…自ら調査兵団に入団してきた兵士でさえ、巨人を目の当たりにすれば怖気付く奴だって少なくねえ。そんなもん、当たり前といえば当たり前だが……あんなもんを目の前にして、端から平気で笑っていられるような人間なんていると思うか」


聞こえてきた言葉にぴくりと反応する。彼の声は存外落ち着いたものだった。返ってくる言葉があったとしたなら、もっと辛辣で突き放すようなものだと思っていたのに。


「お前の恐怖を取り除くことは俺には出来ない。……記憶を失くしている人間の気持ちも、俺にはさっぱり分からねえ」


そう言うと、リヴァイはガタリとイスから腰を上げた。私は落としていた視線をゆるりとリヴァイへと向ける。


「それでも、お前がどんなに怯えていたとしても、これからも巨人との実験には付き合ってもらう。それ以外の選択肢はない。」


いつもみたいに私を見下ろして、はっきりとそう言ってのける。本当にこの人は容赦がないなと、どこか他人事にそう思う。

何も言えないまま目だけを合わせていると、彼はこちらに背中を向けてドアの方に一歩を踏み出す。そして振り向かないまま、ぽつりと呟いた。


「…次からはぶっ倒れる前に、そういうことも報告しろ。」


──そういうこと。そういうことと言うのは、何だろう。言葉数が少なすぎて彼が何を思っているのか分からない。だけど、もしかして、また弱音を吐いてもいい…ということなのだろうか。報告という言葉を使われるとピンと来ないが、これからは恐怖や不安を吐露してもいいということだろうか。

その意味を聞くことも、今日一日のことを改めて謝ることも何も出来ないまま、リヴァイは部屋を出て行った。

静まり返った部屋に一人になり、暫くそのドアの方を見つめ続ける。


──彼は、私の欲しかった言葉や優しく寄り添うような言葉はひとつもくれなかった。何も解決していないし、巨人への恐怖もこれから先の不安だって何もかも残ったままだ。

だけど、どうしてだろう。

ひどく憂鬱だった気持ちがほんの少しだけ、薄まったような感じがする。単に誰かに気持ちを吐き出すことが出来たからだろうか。よく分からない。


ハンジさんから貰ったリンゴは、少しだけ酸っぱかったけれど、心に沁みていくようなそんな味がした。


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