一本の蝋燭に灯った炎がゆらゆらと不安げに揺れている。その灯りはあまりに小さく、廊下を照らすには不十分で頼り無い。少し先には静寂と暗闇が広がっている。
肌に纏わり付く湿度の高い空気に不快感を覚えた。


ナマエは、長い廊下の真ん中に立っていた。


数歩先は前も後ろも真っ暗で自分の足元ですら薄暗い。
その場に立ち尽くしていると後ろから誰かが歩いて来る気配を感じ、振り返ってそちらを見てみると、一人の兵士がナマエに向かって歩いて来るのが見えた。誰だろう。顔はよく見えない。

しかしその兵士はナマエの存在に気づいた様子もなく、そのままただ横を通り過ぎていった。まるで彼女が見えていないみたいに見向きすらしない。その後ろ姿は闇へと消える。戸惑いながらも何も出来ずにそれをただ見送っていると、また奥から兵士が一人、また一人と歩いて来る。しかし誰一人としてナマエに目を向ける者はいない。

その様子にナマエはどこか既視感を覚える。

普段から、本部内を掃除している時や、食堂に向かって歩いている時などに調査兵団の兵士とすれ違うことがたまにあるが、ほとんどの人間がナマエを見て見ぬ振りをするのだ。というよりナマエがそう感じることが多々あった。

今も、それと同じような居心地の悪さがある。

また一人、ナマエのすぐ横を通り過ぎて行く。いくらなんでもおかしい。見て見ぬ振りどころか存在に気付いてすらいない。

様子が変だ。気味が悪い。

声を掛けても立ち止まってくれる人は一人もいない。次第に言いようもない不安が彼女を支配していく。息が苦しくなってきて、胸を押さえた。

この世界──調査兵団に来てからというもの、ずっと疎外感を抱いていたナマエの孤独は更に大きくなっていく。

彼らの瞳にナマエが映ることはない。

不安がじわじわと増して、足元から暗闇が広がっていく。溺れてしまいそうだ。もがくように手を伸ばしても、何も掴めない。誰にも届かない。怖い。
ひとりぼっちは、いやだ。



───誰か、助けて。



「たす………けて 」



シン、とした部屋に小さな声がこぼれ落ちる。その言葉は誰にも届かず消えていった。

まぶたを開くと、そこには最近になってようやく慣れてきた部屋の光景が当たり前のように広がっていた。
部屋の中はさっきまでとは違う静寂に包まれていて、薄明るく少しだけ暖かい。

先ほどまでの暗闇が広がっていたあの廊下は、あの兵士たちは、全て夢の中の出来事だったのだと、気付かされる。
とはいえまだ少しだけ気持ちを引きずってはいるが。
それくらい、ただの夢だったのだと簡単には割り切れないような居心地の悪さがあった。

ため息を吐いて、三度ほど瞬きをしてから窓の外にゆるりと目を向けると、まるでベールのような太陽の光が差しているのが見えた。

──朝だ。雨が止んでいる。

のそりと体を起こし、窓の方を見つめたまま寝ぼけた頭で思考する。今日は珍しくリヴァイに叩き起こされなかった。彼が来るよりも早くに目が覚めたのだろうか。一見穏やかな朝だ。
降り続いていた雨はようやく止んだようで、久しぶりに朝らしい朝を迎えられたような気がする。今日からまた外でのトレーニングが始まるのだろうか。書庫の掃除はすでに終わっている。

それにしても、太陽の光がこんなにも大切なものだと強く実感したのは生まれて初めてかもしれない。

暖かい日差しを思いっきり浴びたい気分だ。ベッドから下りて窓の側に寄り、窓を開いて空を見上げた。
風が気持ちいい。





「今日は待ちに待った巨人との実験に参加してもらうよ!」
「……」


リヴァイに起こされなかったのはこのせいか。
嘘みたいに晴れ渡った空の下、嬉しそうに笑みを浮かべるハンジさんは私に向かってそう告げた。今日は一日ハンジさん預かりらしい。


「えっと……よろしくお願いします」
「うん!楽しみだね!」
「楽しみというほどではないですが」


とりあえずぺこりと頭を下げればハンジさんは両手を腰に当てて楽しみだと言った。正直楽しみでは全くないのですけれど。
この前のこともそうだけど、これから行う実験を楽しみだと言うことも、彼女に悪気があるわけではないことは分かっている。リヴァイのような嫌味とか悪意を彼女からは感じない。ただちょっと思考が行き過ぎてるだけなのだ。


「やっと晴れてくれて良かったよ」
「あの、実験と言っても壁の向こうに行くわけじゃないですよね?」
「うん、違う。捕らえてある巨人の話をしただろう?その子たちと一緒に実験を行う。ナマエも早く会いたかったろ?」
「そんなことはないですけど」
「めちゃくちゃに滾るよねえ?!」
「わりと冷静です」
「早く始めたいよね!ではさっそく行こうか!向こうでモブリットも待ってるから」
「あの……その、攻撃されたりとかしないですよね?」
「大丈夫!いい子たちだから」
「巨人にいい子とかあるんですか?」
「もちろん!個性はそれぞれだよ」


本当に大丈夫かなあ。わりと真面目に不安だ。だって、巨人は人間を食らう化け物なのだ。調査兵団の兵士だって壁の向こうではそうやって亡くなる人もいるというのだから、捕らえられているからと言って油断は全く出来ないだろう。憂鬱すぎる。

とはいえ、やるしかないので仕方なくハンジさんの後ろについていく。
歩きながら無意識に手をぎゅっと握りしめた。喉が渇いている。



「この子たちが今回捕らえた巨人だよ」
「……っ」


ハンジさんはそう言って私に“彼ら”の名前を紹介してくれていたけれど、正直私の耳には全く入ってこなかった。

それは目を覆いたくなるような光景だった。体には大きな釘が大量に刺さっていて、動けないように締め付けられているその姿は化け物とはいえ痛々しい。それが人間の形をしているから尚更だ。
一ヶ月ぶりに見る巨人の存在に、私は体を強張らせる。足が動こうとしない。


「…ん?ナマエ、大丈夫?」
「…………はい」
「怖がることはないよ!彼らの力ではどうにか出来ないくらいにはちゃんと拘束しているから。可哀想だけどね」
「………は、はい…。」


とはいえ、そうは言われても、たとえ大丈夫だと分かっていたとしても、近づくこと自体怖い。視界に入れているだけで恐ろしい。出来れば見ていたくない。だけど、目が離せない。息が詰まる。
見れば見るほどまるで人間のようだ。髪の毛も、眉毛も、睫毛も、私と同じように生えていて、それが余計に恐ろしい。


「この子たちもナマエには反応しないかどうかを確認したい。出来ればもっと近くにきてほしい」
「え…も、もっと……って……?」


一人だけ結構な距離を取っていた私は思わず聞き返し、するとハンジさんは、うーんそうだなあと言って、少しも躊躇せず巨人に近づいていった。その行動に私の方が思わず後ずさりをしてしまう。ハンジさんの隊の副長であるモブリットさんも、少し焦った様子で彼女の後ろについて行く。


「これくらいかな!それでこのまま暫く動かないでいてほしい!」
「分隊長よそ見をしないで下さい近すぎです」


ハンジさんは巨人の真ん前まで行って私の方を見ながらそう言った。私は思わず絶句する。だって、本当にかなり目の前まで近づいている。ていうかモブリットさんだって軽く焦ってるんだけど。近すぎですって言ってるんだけど。
私よりは慣れているはずの兵士でさえもあの距離まで行くことは普通ではないのだろう。

気分が悪くなってきた。


「うおッ!!危ねえぇ!!」
「分隊長!!」


私が立ち尽くしている間にも、ハンジさんに向かってその大きな口を開いていた巨人は顔を少し傾けて彼女の頭を齧り取ろうと思い切り口を閉じた。ガチンッと歯が当たる嫌な音がして思わず耳を塞ぎたくなる。間一髪その口から逃げたハンジさんのテンションは異様に高い。


「じゃあ次はナマエの番だ!いってみようか!」
「………」


こっちへと寄ってきて私の手を取るハンジさんの目はキラキラと輝いている。そんな彼女の勢いに気圧され続ける私はもう何も言うことが出来ない。ぐっと手を引っ張られて、足をもたつかせながらも巨人の方へと進んでいく。昨日までの雨のせいで地面が泥濘んでいる。冷や汗が滲んで、距離が近づくにつれ心臓の鼓動がどんどん激しくなっていく。

──本当に、大丈夫なのか?

嫌な想像ばかりが頭を過ぎって、不安ばかりが大きくなる。巨人の方をちらりと見てみると、まるで固定されてしまったみたいにまた視線が逸らせなくなった。これは、現実だ。お伽話ではない。薄く開いたその口の隙間からは歯が見える。その歯で、人間を噛み千切り、人生を、希望を、命を、奪うのだ。

ハンジさんは巨人の側まで寄ると足を止めてこちらに振り向く。引っ張られていた手が放されて、私は自分一人の足でそこに立った。視線は釘の刺さっている体の方へと下がる。
地面に座るような体勢で拘束されているその巨人の顔は私の身長だと少し見上げるようにしないと見えない。まだ少しだけ距離があるが、恐ろしくて顔を上げることが出来ない。動けない。


「私が近くにいると検証しにくいから、離れるね」


私の肩をポンと叩いて離れていくハンジさんの声が遠く聞こえる。
ああ、そういえば、初めて巨人を見た時──リヴァイに放り投げられた時も、リヴァイは木の上に移動して私と巨人から距離を取っていたな。
頭の片隅でそんなことをぼんやりと思い出す。


「ナマエーっ、もうちょっと近づけるかなあー?」


もうちょっと。近づく。
後ろの方から声が聞こえて、言われるがままに足を前へ動かそうとするけれど、うまく上がらない。足元を見ながら、なんとかぐっと力を入れて、少し引きずるようにして片方ずつゆっくりと前へ動かした。


「……大丈夫かな?」
「どうでしょう……」


後ろでハンジさんとモブリットさんが話をしているが、私の耳にはもちろん入ってきていない。
少しずつ時間をかけながら、いよいよ本当に巨人の目の前まで来る。自分の心臓の音がうるさい。すぐ近くに巨人の息遣いを感じる。

ふと脳裏に、巨人がリヴァイを見つけた瞬間に木に向かって突っ込んで行った時の光景が浮かぶ。あの速さは私にどうにか出来るものでは到底ない。
あの時は三体共私に大した反応は見せなかったが、それは今でも本当に変わらないのか?もし、さっきのハンジさんのように頭を齧られそうになったら?私はそれを避けられるのか?もしこの巨人に見境がなかったら?急に暴れ出して拘束が解けたら?そうなったら───私は。

急にゾクリと嫌な予感がして、顔をバッと上げた、瞬間、私は目を見開き、息を呑む。ぎょろりとした大きな目玉が、直ぐそこでじいっと私を見ていた──からだ。息を吸い込む音、熱い息、そして睫毛の一本一本まで、鮮明に目が捉える。


「……っ 、」


死というものがその瞳の中にあった気がした。あまりの近さに、ふっと足の力が抜けて、そのまま尻餅をつく。体がガタガタと震え出し、ハンジさんが私に何か声を掛けていたけれど、私は巨人から目を逸らすことが出来ない。──怖い。

こんなのに近づいたままじっと耐えるなんて、絶対に無理だ。無理だ、私には出来ない。
恐怖で視野が狭まっていく。



「──ナマエ、大丈夫?」


いつのまにか、ハンジさんが隣にいて、私の顔を覗き込みながら体を支えるように背中に手を添えてくれていた。
その声でようやく巨人から目を逸らせた私は息を吸い込みゆっくりとハンジさんの方を見る。


「……ハ、ハンジさん」


彼女の両目に私が映っている。
巨人の謎を解明する為に協力することだけが、私の存在意義だ。それが出来なければ私に価値はない。その為だけにここにいる。
だけど──怖い。怖すぎる。

私は縋るようにハンジさんを見つめる。ハンジさんはこくりと頷く。


「うん。今のだと短すぎてよく分からなかったから、もうちょっと長く近づいていてほしいんだけどいいかな?」


そうしてメガネを光らせながら容赦なく追い討ちをかけてきたのだった。


「分隊長、容赦なさ過ぎです」


後ろの方でモブリットさんが呟いたのが聞こえた。


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