「一日の終わりに日報を書け。必ずその日中に出しに来い」 「に、日報……」 腕立て伏せが一回も出来なかった私はあれから腹筋と背筋を100回ずつ、そしてスクワット50回を死ぬ気でやった。それから追加のランニングも。普通に日本にもあれくらい平気でやっちゃう人もいるかもしれないけど私はあんなに体を苛め抜いたのは初めてで、初日からすでに心が折れかけてる。 自分の体力の無さが問題なのか、リヴァイのやり方が異常なのか、あるいはそのどちらもか。そもそも巨人と戦う兵士と一般市民の私のポテンシャルが違うということを大いに配慮してほしい。 文句と愚痴を並べればキリがないが、そんなことをリヴァイに言っても仕方がないので何度も出かけたそれを何とか飲み込んで、今日一日のメニューを終えた。これでやっと休める、と思ったのも束の間、日報を書けと目の前の男は言ってくる。聞き間違いであってほしい。 それはリヴァイが目を通したあとエルヴィンさんに渡るらしく、毎日出さなければならないと言う。面倒くさいと思ったのはもはや顔にも出なかったと思う。すでに疲れ果ててひどい顔をしているせいで。 「その汚ねえ格好をどうにかしてから来いよ。そのまま俺の部屋に入ってきたら殺す」 土でドロドロに汚れている私の姿を見て顔を顰めながらそう言うリヴァイ。お前が水をぶっかけたり足で踏みつけたりしたせいだぞ。と言い返す気力さえない。 日報を書く作業ですら今の私には相当厳しいものがあるが、素直にリヴァイの言葉に頷き、ぺこりと頭を下げてから自分の部屋へと向かう。足を引きずりながらよたよたと歩き、かなりの時間をかけて部屋へと戻った。そのままベッドへ倒れ込みたかったけれど、そうしたら絶対に起き上がれない自信があったのでなんとか椅子の方に座った。それだけでも机に突っ伏して寝てしまいそうだったが、どうにか手を伸ばして用意してあった紙とペンを握りしめる。 「日…報…かあ……ええっと……」 日報を書くなんてまるで会社だ。落ちてくる瞼を必死で開いて何度も意識を手放しそうになりながら、どうにかこうにか頭を働かせて、今日一日のことをなんとか思い出し、今日に限っては反省点が多かったがとりあえず必死でそれを書き終えた。 ペンを置いた瞬間再び全身の力が抜けそうになったが、なんとか踏ん張って両手を机につきながらゆらりと立ち上がり、ぐっと顔を上げる。震える手で紙を掴んで、一歩一歩踏みしめるように数歩歩いてドアノブを握る。すると、自分の汚れた姿を思い出し、頭にはリヴァイの言葉が浮かぶ。 「…あぁ……着替えてない……」 もう泣きそう。日報なんか早く出してさっさと寝たいよ。 全てを放り出して今すぐベッドへ飛び込めたならそれはもう数時間並んでスイーツを食べた時よりも幸福だろう。 日報をもう一度机へと置き、シャツのボタンをひとつひとつ外し始める。園児のようにゆっくりと時間をかけながら。というかこの汚れた服を洗濯しなければならないことも相当に面倒くさい。明日まで放置してたら汚れ落ちなさそう。今日やっておいた方がいいのかな。もう暗くなってきてるけど干しとけば乾くよね。うわーめんどくさい。 初日でこんなに疲れるなんて、果たして私はこれからもここでやっていけるのだろうか。ますます先が思いやられる。 ◇ 「お前、ふざけてんのか?」 「……っえ?」 若干寝かけていたが至って真剣な私はうつらうつらとしていた顔をパッと上げ思わず聞き返す。 身体に鞭打って真面目に日報を書きちゃんと服を着替えて顔も洗って身なりをそれなりに整えてから来たというのにふざけてるとは何事か。 リヴァイの部屋で日報に目を通してもらっていると、彼はおそらく読み終える前にそう言った。私が死ぬ気で歯を食いしばりながら一生懸命書いた日報を適当に読むなんてことは許されないぞ。 座っているリヴァイは横に立っている私を睨みつけるように見た。 「何なんだ、この字は。読めたもんじゃねえ」 「……はい?」 読めたもんじゃない?今度こそ言われてる意味が分からなかった。 自慢じゃないが私はそれなりに字が上手い方なのだ。さすがに読めないということはないはずだし、それに疲れてるからといって適当に殴り書きしたわけでもない。どういうことかと考えていると、リヴァイは紙を机上に手放す。 「お前、この字をどこで習った」 とん、と人差し指で私の字を差すリヴァイに、しまった──と咄嗟に思った。心臓をぎゅっと鷲掴みにされたような気分になる。 私にとっての日本語がこの人達にも普通に通じているから何の疑問もなく日本語で日報を書いてしまった。この世界の文字の確認まで、していなかった。 思わぬところで凡ミスをしてしまい、嫌な沈黙と、疑いをかけられているような居心地の悪い視線に目を逸らしたくなった。 リヴァイは続ける。 「…お前は、記憶を失くしているわりに言葉や日常生活を過ごす程度の知識はあるみてえだが……それはどこで学んだものだ?生まれも育ちも、これまでどう生きてきたのかさえも、そんなことも分からねえなんてありえんのか」 ごくり。思わず生唾を呑み込みそうになる。が、悟られてはいけない。そんな気がした。 元の世界で事故に遭い、壁の向こうで目が覚め、こんな世界のことなんて全く知らないこと。違う世界で生まれ生きてきたこと。それを言ってしまってはいけないような気がする。バレてしまえば今度こそ憲兵団に連れて行かれるのではないか?それとも、それでも私が調査兵団に必要なことには変わりないのだろうか。隠し通すのは難しいか?隠し通すべきか? ぐるぐると一気にいろんなことが頭の中を巡る。 私はこの世界でどう立ち回るべきなのだろう。慎重にならないと、ちょっとしたことで一気に足元から崩れ落ちる。常にそんな瀬戸際に立たされている気分だ。 私はなるべく表情を変えないように、一度も目を逸らさないまま、すっと小さく息を吸った。 「…記憶のことは、信じられないと言われてしまえばそれまでですが……それを証明する術が、私にはありませんので」 真っ直ぐに目を見て、伝える。 彼らが──目の前の彼が、私を疑うのはなぜか。嘘をついているのではないかと勘繰るのはなぜなのか。それは、単純なこと。私がこの人たちにとって普通じゃないからだ。そして、私がどのような人間か分からないから、だろう。壁の向こうにいきなり現れて、記憶がないなどと言って、何をしでかすか分かったもんじゃないから、だから疑ってかかる。この人たちは私のことをまだほとんど何も知らない。 ならば、せめて、私は伝えなければならない。 「あなた方が、私を不審に思うのは当然です。それが人として当たり前の感情で、正しい対応だと思います。むしろ大歓迎なんかされたりしたら、私の方が気味悪く思ってしまうでしょう。だから、たとえ冷たい目で見られたとしてもそれは仕方がないことだと思ってます。むしろこんなふうにこちらで面倒まで見て頂いて、有り難いとすら思ってます」 もし武器に見えそうなものがあるのなら全て捨てて、丸腰になり、こちらには敵意はありません、と。ただひたすらにそう伝える他ない。私がやらなければならないことは彼らと真摯に向き合うこと。言えないことはたくさんあるが、それでも伝えられることはあるはずだ。 「記憶がないので自分のことを説明するのは難しいですし、そもそも何が起こっているのか私自身分かってません。それなのに、信じて下さいとは簡単には言えません。ですがあなた方にとって敵でいるつもりもありませんし、どうにかして陥れようとか何かの情報を盗もうとか邪魔しようとかそういったことは一切考えてません」 どんな理由であれ私はお世話になっている身なのだから、出来ることがあるならやるべきだし、不信感があるのならそれを取り除く努力はこれからもしなければならない。 勝手が分からないこの世界で衣食住が確保出来るのはとても大事なことだ。すぐに信頼出来ないのはお互い様だけど、それでもまだここを手放すわけにはいかない。素性が分からないとしてもせめて今ここにいる私はちゃんとした人間でいなければ。 一通りこちらの気持ちは伝えて、そうして最後に、ちらりと自分の書いた日報に視線を向ける。 「その文字は……何の疑問もなく出てきたものです。あなたが読めないなんて思いもしませんでした。どうしてこの文字が書けるのか……どこで教わったのかは、ごめんなさい。思い出せません。」 嘘を言うのは心苦しいが綺麗事だけではやっていけない。私だって、自分にとって不利になるようなことはなるべく言いたくないのが本心だ。 今のところは現状維持で様子を見た方がいいだろう。 口を挟まずにじっと私の目を見て話を聞いていたリヴァイは暫くしてようやく、解放するように目を逸らして、呟いた。 「エルヴィンは、お前みてえな小娘一人の真意も探れないような間抜けな男じゃねえ。」 今度は私が彼の言葉を聞く。 その口調は先ほど感じたようなピリついたものではない。 「たとえお前が何かを企んでいたとしても、それは俺らに対処しきれないほどのことでもないと判断している。まぁお前みたいな奴に何かされたところで痛くも痒くもねえからな。お前が何か考えていようがいまいが、こっちは利用するまでだ。」 そして最後に、リヴァイはこう言った。 「疑い深いのは性分だ。変えるつもりもねえ」 ギッと音を立てて椅子の背もたれに背中を預ける。 ──つまり、信用はしてないし受け入れているわけでもないが、とりあえず今は納得してくれたということだろうか。 少しの沈黙のあと、リヴァイは私が書いた紙をこちらへ渡してきた。 「読め。俺が代筆する」 「……、はい」 話は終わったとでも言うようにそれを私に渡すと、引き出しから紙を一枚取り出すリヴァイ。素直にそれを受け取りそれから自分の日報を私が読み上げ、彼が代わりに書いていく。 ちらりと覗き見た彼の字は、見たことのないような字だった。英語とも違う、少し独特な字だ。 全て書き終えたあとリヴァイがそれを私に見せ、読めるかと聞いてきたけれど殴り書きのような字に見えて結局読めなかった。 「お前はどうやら日報の書き方はそれなりに分かっているみてえだが……それはどこで教わった?」 読めずにそのまま紙を返すと、リヴァイはこれをどこで教わったのかと私に聞いてくる。ぎくりともしなくなった私は冷静に分かりませんと答えた。 「お前の中で覚えていることと覚えていないことの違いは何だ」 「分かりません」 「あの日、壁外で何をしていた」 「…分かりません」 「巨人がお前に反応しない理由は」 「……あの。この話、終わったんじゃなかったんですか」 「そんなこと言った覚えはねえ」 「何度聞いたって分からないものは分かりませんよ」 「そうか?そのうちボロを出すかもしれねえだろ」 「……。本当、いっそ清々しいくらい信用してないですよね、あなた。」 「当然だ」 欠片も悪びれている様子のないリヴァイにいっそ清々しさすら感じる。 それとも何を考えているか分からないよりかは、これくらいはっきりと態度に出る人の方が楽なのだろうか。それにしても露骨すぎるが。 出そうになったため息を我慢して、もう部屋に戻っていいですかと聞く。少し気が抜けて忘れかけていた疲労感を思い出しつつあった。 「ああ、部屋で大人しくしてろ。メシは部下に運ばせる」 「え。わざわざ運んでもらわなくても自分で取りに行きますよ」 「何言ってやがる。てめえみたいな不審者が食堂にいたらメシがまずくなんだろが。黙って部屋で待ってろ」 「……そうですか。それはご丁寧にありがとうございます」 というか正直食欲があまりない。一刻も早く眠りにつきたい。 そんなことを考えていると、リヴァイが見透かしたように口を開く。 「メシはちゃんと食っておけ。言っておくがやることは明日も今日と同じだ。暫くは体力作りに徹するからな」 「……え、あ、明日も、同じこと、するんですか」 「当たり前だ。腕立て伏せも出来ねえような奴に他にすることがあると思うか」 目眩がする。考えただけで倒れそう。 ふらりと一歩を踏み出し、分かりましたと返事をしてまるで逃げるように部屋から出ていこうとする。しかしドアノブを握ったところで、ふと思い出した。 「あ……そういえば、今日汚した服を洗濯したいんですけど……やり方とか分からなくて、良かったら教えてもらいたいんですけど」 もはや思い出したくもなかった。汚れた服のことを。しかし一応今日中に洗っておきたい。死ぬほど面倒だけど。 道具のある場所も手洗いでのコツとかも何も分からない令和に生きる私はドアノブを握ったまま振り返ってリヴァイにそう聞けば、あからさまに訝しげな顔をされた。 「お前、洗濯のやり方も知らねえのか。日報の書き方や腕立て伏せのフォームは分かってるくせに服の洗い方は知らねえってのか。」 「…あぁ……やっぱりいいです。自分で何とかします」 「オイ、待て。」 なんだか小馬鹿にされてるような気がする。やりとりが面倒くさくなりもういいやとさっさと出て行こうとすれば、待てと言われ、また振り向けば私が書いた日報とリヴァイが書いた分の二枚を手に、椅子から腰を上げる姿が目に入った。 「エルヴィンにこいつを出すついでだ。ついて来い」 日報を私に見えるように軽く持ち上げてそう言う。つまりそれを出しに行くついでに洗濯の仕方を教えてくれるということだろうか。 返事をするのも忘れリヴァイを目で追っていると、さっさと出ろと部屋を追いやられる。二人で廊下へと出てドアを閉めるとリヴァイはポケットから鍵を取り出し、部屋に鍵を掛けた。 ガチャリと回るそれを見ながら、ふと口を開く。 「私の部屋には鍵はないんですか」 「お前にプライバシーがあるとでも?」 「……」 「そんなことよりさっさと小汚ぇてめえの服を持って来い。置いて行くぞ」 プライバシーどころか人権があるのかすら危うい時もあるものね。そういえば今朝もノックすらなくいきなりドアを開けられたんだった。朝のことなのになんだかもう遠い昔のように思える。ああ、さっさと寝たい。一日ってこんなに長かったっけ。 一瞬意識が遠くへ飛んでいた私に、早くしろというリヴァイのドスのきいた声が耳に響いた。 |