まるで闇のような暗さだった空が少しずつ色づき始めていく。次第に私のいる部屋にも静かに光が差して、長い夜は終わりを告げる。窓側へ向けた背中が少しあたたかい。けれどそれに反して私の指先はひどく冷えている。 広げた手のひらを見つめて、ぎゅっと握った。私は今──生きている。心臓の鼓動だって確かに感じるし、感情だって、痛みだって、確実に、ある。 私の体は、心は、何も変わっていないはずだ。私は生きている。息をしている。血が巡っている。なのに世界だけが一変してしまった。あの事故のあと、元の世界で私はどうなったんだろう。 これが最近よく聞く異世界転生ってやつなのかなあ。なんて、もうどこか他人事のようにそう思い始めていた。もしくは深く考えることを諦めたとも言える。 深夜に目が覚めてからずっと一人で考えていたけれど、答えは一向に分からないしそんなのはここで考え込んでいたって無意味なことのように思える。いくら考えたってこんなこと分かるはずがないのだ。異世界転生──いやどうやら転生したわけではないみたいだけれど──とにかく私は異世界に来てしまった。それだけしか分からない。 事故に遭って、そのあとにこちらの世界で目覚めた。私はもしかしたら、もう、元の世界には戻れないのかな。ずっとこのまま? そんなのはあり得なさすぎて、心と頭がずしんと重くなる。 ベッドに腰掛けたまま深く項垂れながら両手で顔を覆う。嫌だ、無理だ、とそんな思いばかりが頭を支配する。 ──考えていたくない。 もうこれ以上何も考えたくない。どうすればいいのかすらも分からないのに。 目を閉じたままぐっと奥歯を噛み締めた瞬間、いきなり部屋のドアがバンっと勢いよく開いた。突然のその音にビクッと体を震わせ、顔を覆っていた手を少しだけ下げて視線を上げると、そこには機嫌の悪そうな顔をしたリヴァイが立っていた。 「……てめえ、いつまでそこにいるつもりだ」 「…………、」 「俺の部屋に来いと言っただろうが」 「………すみません」 突然の登場に頭が追っつかない。けれどリヴァイの言葉に昨日のことをぼんやりと思い出す。朝になったら着替えてから部屋に来いと、そう言われていた。そう言われていたんだった。忘れていた。というか、頭にすらなかった。朝日はとっくに昇っている。 開ける前にノックしてくれとかそういう言葉すら出てこなくて思わず謝ると、姿勢を直すことも忘れて項垂れているままの私の姿を見ながら、ドアノブを握り直したリヴァイは「さっさと着替えて部屋に来い」とだけ言って、ドアを閉めた。 部屋が静かになり、なんとも言えない気持ちになる。初日から遅刻とか社会人として有るまじき行為をしてしまった。へこむわ。 思わずため息が出る。 ここでずっとぐずぐずしていても、きっと今の状況が変わるわけでもないし、それに彼らにはそんなことは関係ない。やるしかないと、決めたはずだ。 もう一度だけ目を閉じて息をゆっくりと吸い込み、静かに深く吐き出し、やっと項垂れていた上体を起こした。 「……着替えなきゃ」 孤独感に押し潰される前に頭を切り替えようと、服に手を伸ばした。 ◇ 「お前の体力はクソすぎる。それをまずどうにかしろ」 「はあ」 あれから急いで支度を済ませ、すぐにリヴァイの部屋へと向かい改めて遅れたことを謝罪した。めちゃくちゃに嫌味を言われるかと思ったが案外そんなことはなく。深く追及されることもなく、用意されていたパンと水を一分で食えと言われ急いで食べたのち、裏にある訓練場のようなところへとやって来た。 「今日から体力作りに励め」 「体力作り、ですか」 思いがけない言葉が出てきた。何か協力を頼まれるものだとばかり思っていたのにどうやら体力作りから始めるらしい。 「走り込みから始めろ。俺が戻ってくるまで休むなよ。いいな」 「えっ」 言葉数少なくそれだけ言うとくるりと背中を向けて戻って行くリヴァイに、思わず手を伸ばしかける。他には何一つ指示をせずそのままいなくなってしまった。え、走り込み?リヴァイが戻ってくるまで?いつ戻ってくるの? 不安と疑問でいっぱいになりながら立ち尽くしていると、だんだんとまた心細くなってくる。広い訓練場に一人きり。心が折れそう。 空を見上げてみるといつのまにかそこは厚い雲に覆われていて、気持ちまでどんよりとしてくる。 「…まぁ晴れてるよりはいいか」 太陽燦々の中走るよりは曇りくらいがちょうどいいよね…と、せめて前向きに考えながら、とりあえず軽くストレッチから始めることにした。 曇り空の下、大きな円を描くように一人で淡々と走る。一周、二周、三周。まるで部活だ。ランニング(というよりジョギング)なんてどれくらいぶりだろう。普段からあまり運動をしない私の記憶を引っ張り出してみても、やっぱり学生時代の体育くらいしかない。 はっはっ、と短く息を吐き出しながら、ただただ走る。そうやって何周か回ったところで、どうしてこんなことをしているのだろうと、ふと頭に過った。 ──これから先、どうなるんだろう? 言いようもない虚無感がじわじわと心を蝕んでいく。私は何の為に走っているんだ。どうしてこんなところでひとりぼっちでいるんだろう。 こんな見知らぬ土地で、頼れる人は誰もいない。 「(暑い……)」 最初は前を向いていた顔がだんだんと俯いてくる。途中から何周なのかすら数えなくなった。 頭の中ではほとんど無意識にずっと答えのない問いを問い続けている。汗が頬を伝ってポタポタと落ちていく。 リヴァイが戻ってくるまで休むなと言われたけれど、せめていつ戻ってくるかくらいは教えてもらわないと、キツい。時間も分からないし終わりが分からないのは辛すぎる。 ──ひたすらに地面を蹴り続け、もうどれくらい経っただろうか。次第に腕も足も上がらなくなり、ふらふらと体が揺れ始め、もう何も考えられなくなる。ついに足は止まってしまった。ガクンと頭が下がり、膝に両手をついてぜーはーと肩で息をする。汗がすごい。 「はっ、はっ、…っも、う、むりっ」 目の前がぐるぐると回る。立っていられなくなり地面に座り込んでも呼吸は一向に落ち着かない。ヤバイ──とギュっと目をつぶる。 多分一般的に考えてもまだ倒れるほど走ったわけじゃないと思うんだけど、それでも寝不足だし体調が良いわけでは全くないしで普通よりも早く限界がきた。 いよいよ座っているのも辛くなり、地面に寝転んで仰向けになると、曇り空が一面に見える。こんなふうに無防備に地面に寝転ぶなんて、子供の頃以来かもしれない。(この前も壁の向こうでしてたけど) 仰ぐ空が霞んでいく。暑い。苦しい。自分の心臓の音がうるさい。ああダメだ、だんだんと瞼が開かなくなってくる。意識が遠のいていく。私、ここで死ぬのかな。次に目が覚めた時は元の世界に戻ってたりしないかな。戻ってるといいな。何もかも夢で、事故のことも私の妄想で、全て元に戻ればいい。 そんな希望を抱きながら、私は目を閉じた。 三時間後。 「てめえ何勝手に休んでんだ」 「ぶっ!??」 突如顔面に水をぶっかけられ、思わず飛び起きた。一瞬何が起きたのか分からず、忙しなくキョロキョロと周りを見渡したあと、横に立っている存在に改めて気づく。もちろん、リヴァイである。げほっごほっと噎せ込んだあと、彼の顔を見上げた。 「な、なんなんですか…っ」 「俺が戻るまで休むなと言ったはずだが」 そう言って持っていた水桶を雑に地面へと手放す。ガコンという音が響いて、水を掛けられたことを今更ながら理解して、もっと他の起こし方があっただろうと内心で呟く。 「…それは、すみませんでした。でも、せめて戻る時間くらいは教えてもらわないとキツイです」 「三時間くらいで戻ると言えば素直に走り続けたか?」 「さんっ…!?」 え!?あれから三時間経ったの!? 思わず目を見開いて驚く。そんなに眠っていたなんて。しかも三時間も走らせるつもりだったのかとそのことにも驚く。その思考にうんざりしながら、未だ立ち上がる気のない私はリヴァイの冷めた瞳に見下ろされ続ける。それにも少し慣れつつあるが。 「三時間って……何かトラブルでもあったんですか」 「予定通りだが」 「えっじゃあ最初から三時間も休まずに走らせる気だったってこと?やば」 もうこの人本当にどうかしてる。三時間も休まずに走るとか今の私には絶対に無理だよ。元々体力ある方じゃない上に今は心身共にものすごく疲れ切っているというのに。いや十分な休息をとったとしてもそんなに走り続けるのは無理だが。 するとリヴァイは半ば呆れたように走り込みはもういいと言って、そして次は筋トレをしろと言う。…筋トレかあ。腹筋50回とかかな。出来るかなあ。だけど三時間も休んだからか、なんだか出来るような気が少ししてくる。 「まずは腹筋背筋腕立てスクワットそれぞれ200回ずつだ。始めろ」 「待て待て待て」 「待たねえ。やれ。」 「いやあの、ちょっと待ってください」 「……何だ」 「やる前からこんなことを言うのは私とて不本意なんですが、でもなんていうかその、無理です。」 「無理かどうかは聞いてねえ。やれ、と言っている」 相変わらずの有無を言わさない態度である。 いやでも200って。200回ってなに?したことないよそんなに。出来ないよ。やる前からこんなこと言いたくないけど無理だよ。何なのその回数。 顔にでかでかと無理と書いてある私を見ながら、リヴァイは淡々と口を開く。 「これ以上ごねるなら100追加だ」 「ちょっ…!わ、分かりましたよっとりあえずやってみますよ!」 この男なら本当に容赦なく増やしそうなので、さすがにこれ以上無理だとか言うのはやめておこう。とりあえずやってみたら案外出来るかもしれないし。そう前向きに思い、まずは腕立て伏せから始めようと、体をその体勢にもっていこうとする。 「あ、でもその前にお水飲んでもいいですか」 「水ならさっきやっただろ」 「……え?いつ?」 腕を組み仁王立ちしながら見下ろしてくるリヴァイはそれ以上口を開こうとしない。見上げたまま考えていると、先ほどのことを思い出す。 ああそういえば、顔面に水ぶっかけてくれてましたね。お気遣い本当にありがとうございます(怒り)。 「はぁもう。じゃあとりあえず腕立てからやりますね。……よっ、と」 両手を地面について、両膝をゆっくりと伸ばす。腕立て伏せの体勢になり、よーしやるぞ、と気合いを入れた瞬間。突然下半身が重くなりズシャッと地面へと踏みつけられた。 踏みつけられた? 「ケツが上がってんだよ。もっと平行にしろ」 「!?踏んでる!?」 体をもっと平行にしろと言って片足で私のお尻を当然のように踏みつけているリヴァイ。嘘でしょ?ねえもう本当嘘だと言ってくれ。それはどんな指摘の仕方だ?そのありえなさすぎる行動に怒りは増していく一方だし、さすがに屈辱的すぎる。どうしてこいつはいちいち神経逆撫でにしてくる上に乱暴なの? 上体を軽く仰け反らせて顔を顰めながらリヴァイの方を見ると、すっと足をどけて、そして早くやれとでも言うように自身の顎を煽る。ムカつくなあ。 「くっ……そ、」 こうなったらもう本気でやるしかない。ここまでされて負けっぱなしなのはあまりに癪だ。別に勝ち負けとかじゃないような気もするけど。 とにかく腕と足に力を入れて落とされたお尻を軽く上げて、平行になるようにぐっと耐える。いやきつい。あれ?この体勢だけでだいぶきついぞ。 「っう、……ぐ、」 ぶるぶると震わせながら腕を曲げていくとだんだん地面と体が近づいてきて、よしよしその調子だとぐぐぐと歯を食いしばりながら体を沈めていく。そうして、地面スレスレまで近づいたところで限界がきて、腕の力が一気に抜けてあっという間にベシャッと体が地面に落ちた。あれ? 二人の間にひゅるると風が吹く。 瞬く間に失敗した私の様子を後ろから見ているはずのリヴァイはこんな時に限って珍しく何も言わず、その沈黙に耐えきれずに顔だけで振り向くと、目が合った。 「…どうやら私は一回も腕立て伏せが出来ないみたいです」 「……」 素直に白状(というか見ての通りだが)するとリヴァイは黙ったまますっと私の顔の横にしゃがみ込んだ。それを目で追っていると左手を私の頭の方へ伸ばしてくる。そしてガッと掴んだ。 「…えっと、あの……いでででで!!」 「褒めてやるよ。この状況で一発芸が出来るお前の図太い神経を」 「いっ一発芸じゃないし全然褒めてないじゃん!?」 頭を撫でるどころが頭蓋骨割れそうなくらいの勢いで力を入れてくるリヴァイ。この状況で一発芸が出来るほど心臓強くないわ。 しかもみんながみんな腕立て伏せが出来るだなんて思うなよ。 「しょうがないでしょ!出来ないもんは出来ないんだもの!急にやれって言われても出来ないことだってありますよ普通に!」 「ほう」 まるでゴミを見るような目で見てくるリヴァイ。こいつ本当目付き悪いな。 ちょっと腕立て伏せが出来ないくらいでそんな目するなよ。それに、今は出来ないだけで。 「…だけど、頑張れば、そのうち…一回くらいは、出来るようになるかもしれないじゃないですか。ちゃんと鍛えれば、私にだって、きっと出来るはずです」 「……」 「ただ、現段階では出来ないってだけですよ。別にいいでしょ?もともとそれが目的なんですから。これくらいは許してくれてもいいじゃないですかまったくケツの穴の小さい男ですね」 「あ?」 普通に腹が立って思わず言い返してしまった。 すると眉根を寄せているリヴァイはひとつ瞬きをして、それから信じられないくらいの力で鷲掴みにしていた私の頭を適当に解放した。私は思わず両手で頭を押さえ込む。痛すぎた。マジで。 そしてすっと立ち上がったリヴァイを目で追うと、雲の切れ間から太陽が出てきてそいつの頭上から強めの光が差した。眩しくて目を細める。 「そうか。確かにそうだな。ならお前が出来るようになるまで俺がみっちり付き合ってやる。しっかり扱いてやるから、楽しみにしてろ」 「………」 そう言ったリヴァイの顔はどこか愉快そうで。 いや本当楽しみすぎて夜も眠れそうにありません。 |