「大丈夫だよ、リヴァイ」 彼女はそう言って微笑んだ。 「生まれ変わってもまたリヴァイを探しにいくよ」 そんな不確かな話は聞きたくなかった。死んだ後のことよりも今を永く生きて欲しかった。 いつだって目の前にあるのは見るに耐えない惨状で、耳にこびりついているのは誰かの叫び声や息の絶える音で、鼻をつくのはひどい血の臭いと異臭だった。 そんなのはもうこりごりだ。 「だからこれはさようならじゃあないんだよ」 血が止まらない。どんどんか細くなっていく彼女の声と力の抜けていく手に胸が締め付けられる。命が失われていくそれは何度も何度も見てきた光景だったが、その時ばかりは自身の命まで削られているような気さえした。 これがさよならじゃないなら、何だってんだ。 いつかとか生まれ変わったらとかそういうことじゃなく、今この時を、これからを、共に生きたい。ずっとそばにいてくれ。居なくならないでくれ。 目の前で起きている現実はどうしたって受け入れ難く、心がまったくついていかない。彼女の方がずっと、無念だろうというのに。 しかし彼女はこんな時でさえ、いつもとさして変わりないような瞳でこちらを見ているということに気がついた。それはいつも隣にいた、ずっとそばにいてくれた、優しい眼差しだった。その瞳に彼女との他愛もない日々が思い出される。柔らかく笑う姿が好きだった。仕草も、匂いも、声も、彼女の全てが好きだった。そんな彼女に、去り行く彼女に、狼狽している姿を見せてはいけない。我に返り、強く手を握りしめて、身体を抱き寄せた。 大丈夫。何も心配しなくていい。 彼女は最期に、息をこぼすように小さく笑った。戦場の臭いにかき消されて、彼女の匂いはもう分からなかった。 あの日からずっと、この戦いを終わらせることが出来れば彼女達の死も無駄ではなくなると、報われるのだと、そう強く信じて進んできた。 蒸気と砂埃で前がよく見えない。体が燃えるように熱いわりに足の感覚はあまりなく、立っていられなかった。全身の骨が軋むように痛み、切り裂かれるような感覚が顔に残っている。 悪夢は終わったはずなのに、それでも喪失感は消えない。消えるわけはない。彼女はいない。死んだ人間は帰ってこないのだ。 上を見上げる。空が霞んで、よく見えない。 ──いつだって、誰かの泣き叫ぶ声と、血の臭いと、体の一部が転がっているような惨たらしい光景を見てきた。同じ人間を斬り裂く感覚。誰かに向けられた恨みや憎しみ。命が消えていく瞬間、命を奪った瞬間。思い出されるのは血生臭い記憶ばかりだ。それがずっと、脳裏にこびりついている。 きっと、ずっと、消えることはない。 呪いのようにいつまでもいつまでも纏わりついてくる。 「──リヴァイ?」 声がした。 ずっと聞きたかった声だ。 「お〜い。だいじょうぶ?」 すぐそばで声がして、弾かれたように上体を起こした。それに驚いたらしいその人は小さく声を上げてびくりと肩を揺らした。 「びっくりした。大丈夫?」 落ち着いた声が部屋に響く。目に入ってきた部屋の壁は白く清潔で、床には観葉植物が置いてあり、レースのカーテンの隙間からは太陽の光が柔らかく差し込んでいる。 サイドテーブルに置いてある見慣れたデジタル時計には時間だけではなく、今日の温度と部屋の湿度が表示されていた。 「怖い夢でも見たの?魘されてたよ」 彼女はそう言って顔を覗き込もうとしながらベッドの傍らに腰を下ろした。その存在に今更気づいて、ゆっくりと隣を見る。 「……ナマエ?」 息をするようにその名前を呼ぶ。そこにはナマエがいた。当たり前のように、必然のように。 「うん?」 首を傾けて、少し眉を下げながら微笑んだ。こちらに手を伸ばし、優しい手付きで撫でるように髪に触れてくる。 「まだ寝惚けてる?大丈夫だよ。さっきまでのは夢だからね」 「──夢?」 「うん。どんな夢見てたか分からないけど、それはただの夢だから大丈夫。っていうか、リヴァイ、寝癖すごい。今日のは一段とひどいよ。待って写真撮っていい?」 ただの夢だと彼女が言う。それでもひどく重苦しい感情だけはずしりと残されていて、どんな夢だったかはもう覚えていないが、とにかくひどい気分だ。 スマホを取るためかナマエは一度寝室を出て行き、ベッドに一人残された。静かになった部屋で右手をゆっくりと開きそこにある五本の指を見つめて、そのまま俯きながら顔の半分を覆う。それからブランケットを捲り足が動くかどうか確認した。ちゃんと感覚がある。漠然とした不安感は少しなくなった。 「リヴァイ、こっち向いて」 カシャリと無機質な音がした。 無邪気に笑うナマエがこちらにスマホのカメラを向けている。写真を撮って満足したのかそれに視線を落としたまま寄り添うようにまた隣に腰掛けた。 「ふふ、見て。これが一昨日のリヴァイ。これは先週の。で、これが今日のリヴァイ!っふは、どんどん芸術的になってくよ。寝癖大会があったら優勝だろうね」 くだらないことをナマエが言う。どうでもいいことでナマエが笑う。ただそれだけのことが、その光景が何よりも大切に感じて、かけがえのないものだと強く思った。穏やかに笑うナマエを見ているとなぜだか次第に胸が熱くなり、衝動的に彼女を抱きしめた。 そんな突然のことに少し驚いたような声を出したナマエは、それでも離れようとするわけもなく、どうしたの?と揶揄うように小さく笑った。けれどその問いには答えずに、黙ったままそこに顔を埋めるとナマエの匂いがした。ひどく懐かしいような気がして、抱きしめている腕にいっそう力が込められる。 「どうしたの?本当に。…そんなに怖い夢みたの?」 「さあな……もう、忘れた」 どんな夢だったか。もう思い出したくもない。ただただ、ひどい夢だったような気がする。今の生活とはかけ離れた、違う世界での話。ナマエがそばに居ない、ナマエを失ってしまった世界。そんなのは夢だけでいい。いや、夢でももう二度と見たくない。 「大丈夫だよ、リヴァイ」 耳元でナマエがそう言う。 背中に回ってきた腕にぎゅっと力が込められて、いつの間にかこっちが抱きしめられていた。ナマエの心臓の音が聞こえる。心地よく穏やかに、鼓動を刻んでいる。 「何も怖いことなんかないよ」 ……本当に? 「リヴァイがいつも私に言ってくれるでしょ。大丈夫って。だから今日は私が言ってあげる。──大丈夫だよ。」 心を覆う重苦しい砂埃のようなものが少しずつ風に流されていくようだ。ナマエのまじないのようなその言葉で、ザラついた心が穏やかになっていくのが分かった。そうして、ひとつだけ思い出した。あの時霞んで見えなかった空は、青く澄み渡っていたんだ。 「…ナマエ、」 「ん?」 「どこにも、行かないでくれ」 「……ふふ、行かないよ。」 まるでなんて事ないように、子供を慰めるように、優しく呟く。ナマエのそんな言葉ひとつでひどく安堵する自分は極めて単純だと思えたが、もう何でもいいと思った。ナマエがそばに居るのなら。共に生きられるのであれば何でもいい。 「もし生まれ変わったとしても、またリヴァイと出会って恋をするよ」 少し冗談っぽく、けれど偽りはなく、ナマエは言った。 それに、どうしてこんなに胸が締め付けられるのだろう。こうして触れ合える現実に不安はないはずなのに、どこか寂しさが付き纏う。 思えばずっとそうだったように思う。ナマエと出会ってからずっと。好きだと言われても、二人で暮らし始めても、愛情を真っ直ぐにぶつけられても、ふとした時に不安に駆られる。ナマエとのこの当たり前の日常がいつか失われてしまいそうで、それが怖い、のかもしれない。 「私ね、何でか分からないけど、でも出会った瞬間に分かったの。ずっと探してたのはこの人だって。別に誰かを探してたわけでもないのにね。何でかな?おかしいよね」 ナマエのゆったりとした話し方が好きだ。声も、仕草も、笑い方も。こっちを愛おしそうに見る瞳も。出会った頃からずっと、惹かれ続けている。 まるで、本当に、ナマエのことを探していたみたいだ。 「でもね、だから、大丈夫。私達は出会うべくして出会ったんだよ。だからこれからもずーっと一緒。何でかは分からないけど、それだけは分かるの」 ナマエが不確かなことを言う。漠然とした未来を話す。これから先のことなんて誰にも分からないはずなのに。なのに、それが、こんなにも心強いのはなぜなのだろうか。 「だって、リヴァイも同じでしょう?ちがう?」 ナマエが少し体を離して、顔と顔を向かい合わせて愛しそうに俺の頬を撫でる。その手が温かくて、なぜだか泣きそうになった。 ずっとずっと昔からこの温もりを知っていたような気がする。 ナマエの顔が見たくて、声を聞きたくて、俺はずっとナマエを探していたのかもしれない。なぜだかは分からない。それでも、そう思う。 「──そう…だな。出会う前からずっと、知ってたような気がする。お前のことを」 おかしなことを言っている自覚はある。だが、思わずにはいられない。もう理屈なんかどうだっていい。 ナマエが柔らかく微笑む。 それだけで俺の人生には意味があるのだとそう思えた。 血色のいい柔らかな頬に掌を滑らせて、髪を梳くように撫でる。それから小さな耳に唇を軽く寄せて、そのまま耳元でゆっくりと口を開いた。 「──ナマエ、愛してる。あの頃から、これから先も、ずっと」 窓からは暖かい太陽の光が差し込んできている。まるで新しい朝を祝福しているかのように。 二人で選んで買った観葉植物は白い壁に緑がよく映えていて、お洒落だからという理由だけでナマエが購入し結局たまにしか使っていないフロアランプも、掃除のしやすさと通気性の良さで選んだ脚付きのシンプルなチェストも、全てがこの部屋によく馴染んでいる。ナマエと暮らし始めて、二人での生活も随分と当たり前になった証拠だ。 そんな穏やかな日常がこれからもずっと続けばいいと思う。きっと続いていくはずだ。 ──愛していると、ここまではっきりと言葉にしたのは初めてだったかもしれない。普段ならなかなか素直には言えなかったはずの想いだが、今はすんなりと伝えることが出来た。ナマエは顔を見合わせると少し照れくさそうにはにかんで、再び体をくっつけて抱き合った。 「私も、愛してるよ。リヴァイ」 何度だって探す。何度も出逢って、そのたびにまた恋をする。 優しい彼女の心音が聞こえる。ナマエの匂いで肺が満たされて、心地の良い体温に安堵する。部屋の中は暖かく、レースのカーテンが照らされてキラキラと光っている。 大丈夫。何も心配しなくていい。 心の底からそう思えた。曖昧に不安を感じるよりも目の前のナマエを愛そう。それだけでいい。きっともう、大丈夫。いつまでも夢に魘される必要はない。 |