ポケットから取り出した鍵を鍵穴へと差し込み、ガチャリとドアノブを捻って部屋の扉を開けると、そこは静かで誰の姿もない。
私は黙ったまま扉を閉めてゆるりと中へ足を進ませる。そのまま部屋の窓を開ければそこからは涼しげな風が入り込んできて、そっと髪を揺らした。
今日は天気が良く、日向にいれば少し汗をかきそうなくらいの気温だけれど、日陰にいるとまだ涼しい。窓辺の側までイスを移動させてそこに腰掛けると、組んだ両腕を窓枠に乗せて上体を寄りかからせて、それから外の景色を眺めた。

私は何をするわけでもなく、ただ時間を過ごしなるべく心を落ち着かせようと努める。暫くそうしていると、後ろの方から扉の開く音が聞こえてきた。


「何勝手に人の部屋に居座ってやがる」


その声に凭れかかっていた上体を起こして振り返ると、扉を閉める兵長の姿が目に入った。
パタンと扉が閉まると目が合い、私は口を開く。


「三ヶ月前にこの部屋の合鍵を渡してくれたのは、兵長じゃないですか」
「さぁ、そうだったか」


とぼけたようにそう言う兵長は脇に抱えていた書類の束をバサリと机へ置いて、それから私を見る。


「その三ヶ月間、一度も顔を見せに来なかった奴のことなんざ、覚えてねぇな」


そうして目を逸らしこちらに背を向けて机の前にあるイスを引きそこにどかりと座った。私は兵長の後ろ姿を見続けながら、イスに座ったままでまた口を開く。


「だって、兵長忙しそうだったので、邪魔しちゃ悪いかなあと思って」


三ヶ月前までただの部下と上司だった私達は、三ヶ月前に恋人関係となった。そしてその数日後に兵長はこの部屋の、兵士長室の合鍵を渡してくれた。突然何も言わずに渡されたものだから、一瞬どこの鍵だろうと首をひねったが、すぐに察した。言葉はなくても“いつでも来ていい”ということなのだろうと勝手に解釈をし、ありがとうございますと笑って、そして、それから三ヵ月後の今日まで一度もこの鍵は使わなかった。

兵長が忙しそうだから。それももちろん理由のひとつだ。でも、本当は少し気恥ずかしくて来られなかったというのも、実のところあったりする。

休憩中、食事をする前、休みの日、寝る前の時間、兵長の夢をみた時、訓練中のふとした瞬間、壁外調査が近づいてきた頃。私が兵長のことを思い出し、会いたくなるのはまるで不規則だ。
本当はいつだって側にいたいのだけれど、でもそうもいかないのが現実で。私だって暇なわけじゃないし、恋人になっても私が兵長の部下であることには変わりないし、同じ兵団にいてもいつでもいちゃつけるわけでもない。周りの目もあるし、兵長の立場もあるし、そもそも私達の関係は一応秘密だし、私も私でまだ少し恥ずかしいし。

だから、三ヶ月間、自分から行動を起こすことが出来なかった。どのタイミングで行っていいのかも分からなかったし。
でも、それでも今日こうしてこの部屋に来たのは、ずっとこのままじゃいけないと思ったからだ。

邪魔をしちゃ悪いという私の言葉を聞いて、兵長はギッとイスを鳴らしこちらへ振り向いて、私を見る。


「邪魔だと思うなら、最初から鍵なんか渡さねぇよ。」


まぁ、そりゃそうだろうけど。

まるで拗ねてるような態度の兵長に、少し悪い気がしてくる。でも、兵長だってこの三ヶ月間自分から誘ったりしなかったわけだし、お互い様のような気もするのだけれど。
それにずっと顔を合わせていなかったわけではもちろんない。普通に仕事中に話したり姿を見かけたりとかはしていた。仕事の話しかしてないけど。


「すみません。でも、すごく嬉しかったんです。鍵を渡されて。だから、逆に照れちゃって。意識しすぎて、来づらかったというか。いつ行っていいのかも、よく分からなくて」
「……」


正直に思っていることを話せば、兵長は黙ったまま私を見つめて、私もその瞳を見返していると、イスから腰を上げて側まで寄ってきた。そして私の髪をそっと手に取り触れる。


「本当か」
「…兵長には、嘘つきませんよ」


ふわりと風が吹いて、今度は兵長の髪も一緒に揺れる。

もしかしたら兵長はあの日からずっと待っていたのかもしれない。もしかしたら不安にさせたのかもしれない。そんなことが今更過ぎって、何のフォローもしてこなかった自分を殴りたくなった。
だって兵長が、そんなふうに思うなんて少しも思わなかったのだ。たとえば寂しい、とか、そんなようなことを。

私に優しく触れてくる兵長に、胸がぎゅっと締まる。


「本当は、壁外調査の前の日、とか。終わったあと、とか。特に、すごく会いたかったですし、抱きしめてもらいたかったですし、こうやって触れ合って、不安とかいろいろ消してほしかったし、私も兵長の不安とか辛い気持ちとかあれば、少しでも和らげたかったです。」


兵長の手に触れて、軽く力を込めて、それを見つめながら素直に話す。そもそも兵長と付き合えるなんて思ってもいなかった私は三ヶ月前のあの日からずっと夢をみているような心地なのだ。
好きすぎて、奇跡のようで、どこか恥ずかしい。だけどそれで距離が出来ていたんじゃ意味がない。

そんなことを思いながら、落としていた視線を上げようと顔を上げれば、兵長は私に覆いかぶさるように少し腰を曲げて、顔を近づけてきた。その距離と伏せられた睫毛を見て、少しドキリとする。ほんのちょっとだけ体を強張らせた私はそれでも兵長と同じように目を伏せて、そうして唇が触れる頃にまぶたを閉じた。

まるで世界の時間が止まったみたいだった。


「……兵長」


優しく触れた唇が離れ、そっと目を開ける。


「好き、です」


溢れ出した想いをそのまま伝えれば、兵長は僅かに表情を緩める。


「だったら、もっと会いに来い」


きゅうと胸が締まって、思わずそのまま兵長に抱きついた。兵長も同じように私を抱きしめ、私はぎゅっと目を閉じる。
ドキドキとうるさい心臓が、兵長に伝わってしまいそうだと、頭の片隅でそう思った。こんなにドキドキしているなんてことは出来れば気付かれたくない。

部屋の中は静かすぎて、自分の鼓動だけがやたらとうるさい。

ああ、どうか気付かないでください。


「……あ、あの、兵長、」
「…何だ」


それでもいつまでも高鳴り続ける心臓に耐え切れなくなった私はそろそろ離れようと兵長から体を離そうとすれば、どうしてかそれが叶わなかった。腕の力を緩めて体を引こうとしたのに、兵長は更に抱きしめてくる。


「あ、いや……その、もういいかなって」
「何がだ」
「え、だから……えっと。この体勢が、です」
「もう少しくらい、いいだろ」


まるで面白がっているかのように余計にぎゅっと腕に力を込めて顔を埋めてくる兵長に、私は小さく悲鳴を上げた。


「っへ、へいちょう、そんなに、抱きしめないで下さい」
「うるせぇ。」
「ええっ」
「…ついでにお前の心臓も、面白いくらいにうるせえ。」
「エッ」


バレてる。

兵長のせいでドクンドクンと高鳴る心臓が、更に大きく脈打つ。殺す気ですか。


「や、やだ、離してください」
「あ?聞き捨てならねぇな。」
「だって。はずかしい、」
「何を恥ずかしがることがある」
「だ、だって、…兵長は平気でも、私は、恥ずかしいんですっ」
「……そうか。」


私の必死の訴えに納得したのか、ようやく体を離した兵長は、少しでも離れようと兵長の体を押していた私の両手首をそれぞれ掴んで、左右に小さく広げた。


「えっ?」


そうして両手を封じられた私は思わず兵長を見て、すると、瞬く間にまたキスが落ちてきた。

突然の出来事に一瞬何が起きたのかが分からず、目を見開き、状況が理解出来ないまま、いきなりのそれに僅かに眉を歪める。それはさっきのような優しいキスではなく、執拗なもので。


「っ……ん、ぅ、」


──なにが、どうなって。

初めてするそんな奪われるような強引なキスに、頭の中がぐちゃぐちゃになり上手く息継ぎをすることが出来ず、酸素が足りなくなる。なんとか逃れようと抵抗する私に容赦のない兵長の唇が追いかけてくる。掴まれている両手は全く動かない。そもそも兵長に力で敵うはずなんて絶対にないのに、体は必死に抵抗をする。
それでもやめない兵長に、いよいよ苦しくなってきた私は体を反らして少しでも離れようとして、だけれど兵長は全く逃がしてくれない。むしろ兵長に有利の体勢になってきた気がする。イスに座ったままの私は上半身を反りすぎて、窓枠に後頭部をぶつけた。ゴツンと鈍い痛みが走って、すると兵長はようやく唇を離す。


「ッ、ぷはっ……!」


まるで押し倒しているような体勢のまま兵長は唇だけを離し、私は色気の欠片もない声を上げながら思い切り空気を吸い込み肩で息をした。そして涙目で兵長を見る。未だ両腕は自由にならない。


「っな、に、……するん、ですか……ッ!」
「キスだが」
「それは分かってます!!」


思わず声を荒げてそういうことじゃないと言えば、兵長はまったく顔色を変えない。


「言っておくが、お前が三ヶ月も顔を見せに来なかったのが悪ぃ。」
「そ、それとこれとは関係ない!」
「いいや大いにある。その分を今しているだけだ」
「……っだ、大体!私だけが悪いみたいな言い方してますけど、兵長だってこの三ヶ月間、特に何もしてこなかったじゃないですか!全然声かけてくれなかったですし!」
「俺は鍵を渡しただろうが」
「それだけでしょ!」
「確かにそれだけだが、それでも何もしなかったお前とは違う」
「そ、そんなのっ、私だってっ今日ここに来たもん……っ!」
「おせえよ。」


容赦のない兵長に、いつの間にか滲んでいた涙が一筋こぼれる。すると兵長はそれを見て私の目尻に唇を寄せる。私はまたぎゅっと目を閉じる。


「っだ、から……こういうこと、あんまりしないで、」
「何でだよ」
「恥ずかしすぎて心臓が破裂しそうだからです……。」
「ほう」
「捧げた心臓が破裂するのは良くないと、そう思いませんか……リヴァイ兵士長」
「思わんな。」
「ええっ」
「お前の捧げた心臓なんてどうでもいい。」
「よくないですよ、それでも兵士長ですか、」
「今は俺はただのてめぇの男だ。捧げた心臓なんかどうでもいい。てめぇは俺にだけ捧げてりゃいいんだよ。」
「お、横暴だー……」
「だったら別れるか?」


世界で一番聞きたくない言葉が兵長の口から出てきて、思わずはっとした。

だけど、そんなことを言うなんてひどい。ずるい。私は少し冷静になり、そして眉根を寄せる。


「……嫌です。別れたくないです。」
「そうか。なら、仕方ねぇな」
「でも、あんまり急にキスしてこないで下さい」
「それは難しい」
「難しくないですよ……何なんですか、普段は全く私のこと好きな素振りなんか微塵も感じさせないくせに……」
「そりゃお前、仕事中だからだろ。」
「切り替え激しすぎじゃないですか。いつもみたいな冷静さでいてほしいです当分は」
「これでも、抑えてる方なんだが」
「え、えぇー……怖い」
「怖がるんじゃねぇよ。」
「なんだかますます部屋に来たくなくなってきました」
「てめぇ、それだけは許さねえぞ」


不機嫌そうに眉根を寄せた兵長は、確かにみんなの知っている『リヴァイ兵長』ではなく、普通の、おそらく私にしか見せない、男の顔をしていた。

それが分かるとなんだか少し面白くなってきて、私は思わずふっと表情を緩めて笑う。


「……っふふ、」
「あ?何笑ってんだてめぇ」
「っふは、すみません。なんか、なんとなく」


──なんだ、そうか。

今目の前にいるこの人は、兵長は、意外と、思っていたより、普通の、人だ。
忙しい中でも恋人の顔を見たいと思うくらいにはきっと普通の男だ。

だから私は、三ヶ月も待たせてはいけなかったのだ。


「兵長、ごめんなさい。これからはもっと、会いに来ますね。」
「……」
「でも、兵長ももし、寂しかったりとかしたら、ちゃんと言って下さい」
「………、」
「フェアにいきましょう。」


疲れた時も辛い時も楽しくない時も眠れない夜も悪い夢を見た朝も、私はちゃんと分かっていたいし、側にいたい。言ってもらわないと、側にいないと分からない。それが出来なきゃ意味がない。


「忙しさにかまけて、二人の時間を作れないのは良くないですよね。」
「……。そうだな」
「はい。忙しくても、たまにはこうして話をしましょう。仕事以外の話をして、お互いに心が休まるような、そんな時間を作っていきたいです」
「…ああ。」
「だからたとえ理由がなくても、会いたい時は、ちゃんと教えてくださいね」


この三ヶ月間、私もなかなか自分から行動しなかったし、そしてそれは兵長も同じだ。確かに鍵は渡してくれたけれども、でも、歩み寄る気持ちが互いに弱かったのかもしれない。きっとタイミングなんて、いつでも良かった。


「……そうだな。俺も、悪かった。」


兵長はそう言ってさっきまで強く掴んでいた私の手首に、触れるようなキスをした。少しこそばゆくて、だけど、嫌じゃない。

柔らかな風が窓から入ってきて、私の心はとても穏やかだった。



「あ、でもさっきみたいなキスは、もうちょっと段階を踏んでからにしてほしいです」
「あ?…そんなもん、いちいち踏んでられるか。」


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