生きることは抗うことだと思う。

都の地下街に生まれ落ちた私は、まだ若くそして孤独であった母親と二人きりで身を寄せ合って生きていた。父親はどこの誰かも分からず、母は体を売って生活をしていて、住居と呼べる場所はなく私はいつも路地裏の隅で母を待ち、そうして日々を過ごしていた。

けれどやる事がなく母を待つことにも飽きて、空腹を少しでも満たそうと思った子供の私は次第に盗みを働くようになっていった。最初の頃は上手くいかずやっかいな輩相手に殺されそうになったこともあったが、暫くすると要領を覚え痛い目に遭うこともだんだんと少なくなっていき、逆に自分らの物や金を盗られそうになったことももちろんあったけれど、そんな時はいつだって必死に抵抗し続けた。

生きていく為には、奪われない為には、誰かから何かを奪わなくてはならない。

奪え、奪え。

この世界は「奪うか奪われるか」だ。そういう思考が染み付き始めた頃、突然母が死んだ。ある日いつものように母の元へ戻ると身包みの剥がされた母が地面に転がっていた。声を掛けても体を揺すってもぴくりとも動かず、あまりに突然のことすぎて理解が追いつかなかったがそれでも死んでいる人間を見るのは初めてではなかったから、母は死んだのだとじわじわと理解した。

それが分かると、頭の中が空っぽになった。

母は、お母さんは、とても口数の少ない人だった。だけどいつも私を優しく抱きしめてくれて、温かかった。だがその手や体はひどく冷たくなっていて、触れた私の方まで冷たくなりそうで、それだけではなく私の中の何かもひどく冷えてしまったような、そんな言葉では言い表せない気持ちになった。

心に再び深く刻まれる。
この世界は、奪うか奪われるか──だ。

私は母を誰かに奪われ失った。死んだら人はどうなるのだろう。私も死んだら、母にまた会えるのだろうか。暫くは何をする気も起きず母の傍らで膝を抱え込みながらただ息をしていた。
母がよく言っていた言葉がぐるぐると頭の中を巡り冷たい涙が一筋流れると、私は立ち上がりそこには二度と戻らなかった。
「こんな世界なのに生んでごめんね。でも生まれてきてくれてありがとう」
母がよく言っていた言葉だった。まだ幼かった私にはその言葉の意味を理解することは出来なかったけれど、でも、生きなければと強く思った。

しかしそれからの毎日はそれまで以上に苦しい日々の始まりであった。生きる為に誰かから必死に奪ったものも次の瞬間には他の誰かに奪われてしまい、取り返そうとすれば殴られ、蹴られ、立ち上がる力すらも奪われていく。冷たい地べたに這い蹲るたびに何て非力なのだろうと思った。だけど、それでも必死に生きた。奪って、奪われて、また奪って。抗い続ける。その繰り返しだ。

人は皆自分の欲望を満たす為に生きている。その為になら奴らはどんなことだってする。いつだったか、見ず知らずの男に突然襲われたことがあった。路地でいきなり殴られて、倒れ込んだところに馬乗りにされただ乱暴された。金目のものを盗るわけでもなくただ乱暴してくる男に私の思考は混乱していた。私が何かをする時は大抵空腹を満たす為だったからだ。それでも服を破られた時、脳裏に母親のことが浮かび、母もこうして乱暴されて死んだのだろうか、とまるで他人事のように思った。
このままだと私も死んでしまうかもしれない。意識が遠くなりそうになった時、母の言葉を思い出した。
「生まれてきてくれてありがとう」
それを思い出した時、我に返った。ああ、そうだ、諦めちゃいけない。このまま死ぬわけにはいかないんだった。だって私は、生まれてきたのだから。お母さんが私を生んでくれたのだから。ありがとうって、言われたのだから。
遠くなりかけた意識を取り戻すと思い出したように体中の痛みまで感じ始めて、顔を歪める。それでも奥歯を噛み締め男を睨みつけると、そいつの後ろから声がした。

「オイ、邪魔だ退け」

男の耳には届いていないのかその声に何の反応も見せず、しかし私の耳にははっきりとそれが聞こえていた。誰かいる──そう思った次の瞬間、目の前の男からいきなり血が吹き出した。
壁や地面にバタバタと血が飛び散り、私にも降りかかってくる。突然のことに訳が分からず目を見開けば、吹き出す血の向こうにひとりの少年の顔が見えた。
あの声はそこに立つ少年のものだったのだ。私の上に乗っていた男がそのままこっちに倒れ込むと、少年の手にナイフが握られているのが見えた。その刃が男の首を切り裂いたのだ。目が離せないまま倒れ込んできた男の体から抜け出すように上体を起こし、私はごくりと喉を鳴らす。なぜ少年は男を殺したのだろう。黙ったまま見つめていると少年はふいと目を逸らして男のズボンのポケットへ手を伸ばし、そこから金を取り出すとこちらには目もくれず私の横を通り過ぎて行く。

なぜ、私からは何も盗らないのだろう。少年を目で追いながらズルズルと男の体から抜け出し、立ち上がろうとした。──けれど、膝に力が入らずガクンとまた地面に倒れ込み、動けなくなった。体中の痛みと疲労と空腹でまた意識が遠くなり始める。少年が足を止め一度振り返った姿を視界に入れることなく、私はそのまま気を失った。

それから少しして目を覚ますと、景色は変わらずそのままであった。ハッとして体を起こすとばさりと何かが地面に落ちて、それと同時にズキンと体中が痛み思わず手で体を押さえる。顔を歪めながらも落ちたそれに目をやると、そこにあったのは上着だった。なぜこんなところに着るものがあるのか。なぜそれが私に掛かっていたのだろうか。
それに手を伸ばし拾うと、気づいた。──ああ、そうだ。これはさっきの少年が羽織っていたものだ。少年が歩いて行った方へ振り向けば、そこにはもう誰もいない。静かに瞬きをしてまたそれに視線を落とす。ふと自分の体を見れば服は当たり前のように破れたままで、横をちらりと見ると男が倒れたままだった。

とりあえず、ここを離れなきゃ。あれからどれくらい経ったのかは分からないけれど明らかに殺されている男の側にいつまでもいるのはよくない。上着を羽織って立ち上がり、その場をあとにした。

それから私があの少年とまた出会ったのはあの時の怪我がだいぶ治ってきた頃のことだった。

思わず声を掛けたのはもちろん私の方で、だけどあの頃の私には助けてもらったという考えすらなかったせいでお礼を言うこともなく、もちろん服を返すという発想もなかった。しかし少なくとも彼に対して興味が湧いていたことは確かであった。

歳も大体同じくらいで、私も彼もどうしようもなく孤独だった。母が死んでからというもの誰かと共に生きようなんて考えたことすらなかった私はその時初めて母以外の人とただの会話をした。食べ物や金や物を盗む為ではなく、何かを奪う為ではなく、ただ普通に。私は彼と話をした。

あの時どうして私に何もせず、その上服を掛けたのか。しつこく聞けば彼はめんどくさそうに、道を塞いでいて邪魔だった男を殺したついでにそいつから金を取りその際に男の血が服について気持ち悪かったからあそこに上着を脱ぎ捨てただけだと言った。私に何もしなかったのは特に興味がなかったからだと。
けれどそれを聞いても私には理解が出来なかった。何のためらいもなくそれを着ていた私は人の血がついたくらいで服を捨てるなんて勿体ないことはしないし、そもそも血なんかついてなかったような気がするし、まるで納得できずに首を傾げると彼はあからさまに舌打ちをした。
他人に優しくされたことのなかった私は人の気持ちを汲むなんてこと当然出来るわけがなく、なんとなく腑に落ちないままではあったが、とりあえずそれ以上聞くことはなかった。

しかし彼とはそれから度々顔を合わせることが多くなり、歳が近いせいか行動パターンも似ていて、一度話したことがあるせいでよく目についた。付け狙う相手も次第にかぶるようになり、しかし彼には狙ったものを先に越されることが多く初めは正直邪魔に思っていたが、それでもそうしているうちにだんだんと仲間意識のようなものが互いに生まれ始めた。
いつの間にか協力して物を盗むようになり、気づけば一緒にいることが多くなって、一人でいる時間よりも二人でいる時間の方が増え用がなくても互いの存在を確認するようになる。

私達は同じ孤独を持て余していた。

冷えた心がまるで溶けるように解け合って混ざり合っていく。一人でいるより二人でいる時の方がなぜだか落ち着く。側にいると離れがたくなる。この感情は一体何なのか。彼の瞳がこちらを向くだけで灯りがともったような温かさを感じるのはどうしてなのか。
彼は──リヴァイは、私から何を奪ったのだろう。
だってこの世界は、奪うか奪われるか、のはずなのに。

いつだったか二人で盗みを働き追っ手から逃げている時、リヴァイは私の手を強く握って引っ張った。その繋いだ手が温かくて、私はリヴァイと手を繋ぐのが好きだと思った。
眠くなったとき隣にいてくれて肩に寄りかからせてくれるのが好きだった。私の名前を呼ぶ声がどことなく優しくて好きだった。私が母の真似をして体を売ってお金を稼ごうとしたとき、まるで自分のことのように怒ってくれた。体は絶対に売るなと言われた。なんだか大事にされてるみたいで嬉しかった。

そうして私は気がついた。リヴァイは私から何かを奪ったのではない。奪ったのではなく、与えてくれているのだ。それはたとえば温もりや優しさ、それから安らぎを。

共に生きるということは、与えること、そして与えられること、なのかもしれない。きっと互いに支え合うことが大切なのだ。

──ねぇ、リヴァイ。

「私はあなたに何かを与えることが出来ているのかな」

独りでいた時には感じられなかったものがたくさんある。それはあなたも同じだろうか?

「馬鹿なこと聞くんじゃねぇよ」

ちらりと私を見たリヴァイは目を逸らし表情を変えることなくそう言った。馬鹿なこと──確かに、そんなことわざわざ聞くことじゃなかったかもしれない。

だって、繋いだ手の温もりを知っているのは、私一人じゃないのだから。


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