街中を駆けながら、自分の体が随分と鈍ってしまっていることに気がつく。

これくらいの疾走でこんなにも息は上がり足もひどくもたつき全身に疲労感を感じている。

頭の中では彼のことや訓練兵時代のこと、先ほど母さんに言われた言葉などがひたすら巡り続ける。

こぼれそうになった涙は流れる前に何度も拭った。泣いてる暇も泣く資格も、私にはない。自分に何が起こったのかは未だ思い出せていないけど、でも、彼は分かっていたのだ。覚えていたのだ。私のことも、そしてきっと私に起こったことも。

だからあんな顔をしていたんだ。

今なら分かる。私を見た時の驚いたような顔、毎回必ず目が合うのにすぐに視線が逸れること。
今思えばどこか寂しそうな、横顔。


(あなたは一体、どんな気持ちで)


彼と会ったあの掃除用具の店や紅茶屋さんは、以前二人でよく行っていた店だ。


(どうして思い出せなかったの)


忘れたかったわけがない。忘れたいと思うはずがない。
離れたいなんて思うわけがない。

だって、こんなに。

こんなに、私は。


「 くッ……!」


拳を握り締め、歯を食いしばりひたすら足を動かす。前へ。

前へ、前へ。もっと、もっともっと速く。

一秒でも早く。

彼の、いるところへ───







空を見上げることが大好きだったこと。
近所に住んでいたお姉さんが兵士になった影響で調査兵団に興味を持ったこと。
そして私も訓練兵になったこと。
母さんがそれを反対し続けていたこと。
調査兵になってからも家には帰らず母さんをずっと一人にしていたこと。
大事な仲間ができたこと。
大切な人と出会えたこと。

何かがはじけたように私はそれらを思い出す。

走って、走って、静かな夜にも関わらずたどり着いた先で出来る限りの力を振り絞りドアを叩いた。息が苦しくて肺が酸素を求めて空気を吸い込むけれどすぐにそれは逃げるようにまた外へと出て行ってしまう。
走り続けたせいで体が重く汗がひどい。名前を呼びたくて声を出そうとしたのにうまく出すことも出来ない。

このドアの向こうに、彼がいる。

──ああ、もう、なんでもいい。

とにかく、早く、顔が見たい。

両手でドアを叩きながらズルズルと体が床へと向かっていく。膝をついたところで、ようやくドアが開いた。


「うるせぇな……何度も叩くんじゃ──」


──調査兵団の、兵士長室。

彼の声が耳に届いた瞬間私ははっきりと思い出す。彼との日々、失っていた記憶がより色濃く蘇っていく。

開いたドアの間から顔が見えて、目が合った。彼は言葉を止める。私は床にへたり込む。彼が目を、見張る。



「 っ 、リ ヴァイ…ッ……、」


肩で息をしながら声を振り絞って名前を呼ぶ。一瞬、彼が少し切なそうに眉を歪める。


「っナマエ……」


彼が私の名を呼ぶ。手を伸ばす。手と手が触れる。彼の体温を、一気に思い出す。

自ずと涙が溢れ出した。


「…リヴァイッ……ごめん、なさい……っ」


全身の力が抜けて下を向きボタボタと涙を床へと落としながら謝罪の言葉を伝えれば、ゆっくりと同じように屈んだリヴァイは私の顔にそっと手を触れ視線を合わせる。


「お前……記憶が……」
「……っ」

「戻った、のか」


うまく返事が出来ずにとにかくコクコクと頷けばリヴァイは肩の力を抜きながら深く息を吐いた。

暫くして、顔を上げる。


「そうか……」


それはどこか安堵したような、そんな声だった。

表情が見たいのに、涙で何も見えない。変わらず呼吸が落ち着かなくて苦しい。空気をうまく吸い込めない。

酸素が、足りない。


「ッ、リ、ヴァイ、……リヴァ、イっ、」


苦しい。


「……ナマエ、」


──苦しい。


「っごめん、ね 、」


だけど。


「ごめん、ごめんな、さい、っ」


だけど、リヴァイに、謝らなきゃ。


「…オイ、ナマエ、」


忘れてたこと、謝らないと、


「ごめ、っなさい、」



(だって、私は)

───リヴァイに全部、謝らないと。

今までのこと、忘れてたこと、顔を見ても思い出せなかったこと、(全部、私が悪い)、ずっと見てたのに気づけなかった、目が合っても分からなかった、(忘れたいわけないのに)、自分が何なのかさえも忘れて、夢も希望も、何もかも、失くして。

私はあなたに──ひどいことを、した。



「っオイ、ナマエ!」
「ッ……!」


それ以外は何も考えられずひたすら謝り続けていると、リヴァイの声がしてはっと息を吸い込む。
顔を上げ見失っていた彼の姿を再び捉える。


「……っ」
「少し、落ち着け……」


すると心配そうに私を見ている瞳と目が合った。


「……… 、」


ゆっくりと、息を吐く。


「……う、ん……、」


彼のその言葉で混乱していた頭が少しだけ落ち着きを取り戻し、乱れていた呼吸もそれに伴ない落ち着いていく。

じわじわと少しずつ、ようやく私はちゃんと現実を受け止め始めた。



「(……リヴァイ、)」



──泣くまいと、思っていたのに。リヴァイが瞳に映った瞬間溢れ出して止められなくなってしまった。
それでも尚静かに流れ続ける涙をリヴァイに拭われ、黙ったまま彼を見つめる。


「待ってろ、水持ってくる」


少し放心したような状態でいるとリヴァイが立ち上がろうとして、それに気づくと思わずその腕をとり彼を引き止める。そのせいで動きを止め振り向いたリヴァイは私を見つめた後「すぐそこだ」と、机の上にある水とコップを指差した。

でも、なんだか。すごく……心細い。

今は少しも離れたくなくてほぼ無意識で掴んでいる手に力を込めれば、ふいに廊下の方から声が聞こえた。



「なんだか騒がしいけど何かあったの……ってナマエ!?」


声のする方を見てみればそこには私を見てとても驚いている姿があった。


「………、ハンジ……」
「え、えええッ!?ナマエ私のこと分かるの!?はっえっナマエ、あんたもしかして記憶が……!?」


思わず名前を呟けばハンジは更に騒ぎ出しリヴァイはため息を吐いた。


「騒ぐなメガネ……ナマエがここにいる時点で察せ」
「いや察せって言われても!」

「………、」


そんな二人が話をしているところを見ているとなんだかそれがとてつもなく懐かしく感じて胸がまたひどく締め付けられた。余計に涙が出てきて、顔を両手で覆って俯く。


「……っ」
「っえ、ちょっとナマエ、大丈夫っ?もうリヴァイ、何泣かしてるんだよ」
「俺のせいなのか」
「とにかくナマエ、そんなところじゃなくイスにでも座ろう?」


泣くことしか出来ずされるがままにハンジに支えられながら立ち上がり、そのままリヴァイの部屋に入った。
なんだかもう、情けないくらいに涙が溢れてくる。



「──で、ナマエ。確認だけどここにいるってことは記憶が戻ったってことでいいんだよね?リヴァイのこともちゃんと分かっているんだよね?っていうか顔色が悪いけど大丈夫?汗もすごいし脈も早いじゃないか。ここへは走ってきたの?無理しちゃダメだろう。転んでまた頭でも打ったらどうするんだ。気をつけないと……まぁでも、また会えてすごく嬉しいよ。ずっと気にしていたんだ。記憶が戻って本当に良かった。でもどうやって思い出したの?そもそも全部思い出したってことでいいのか?」
「あ、えぇっと……、」


イスに座らされ、すぐ側に立っているハンジにさっそく問い詰められる。だけど答える隙がない。


「ハンジ、あまり一気に聞くな」
「あ、ごめん……つい」


涙は止まりリヴァイに水の入ったコップを渡されそれを受け取る。ハンジに謝られ、首を横に振り水を一口飲んだ。


「少しは落ち着いたか」
「……うん。ごめん、ありがとう」


謝り、お礼を言うと僅かに眉を下げるリヴァイ。


「そんなに謝るな。お前は何も悪くねぇだろ。」
「…… でも、」
「そうだよナマエ。誰のせいでもないんだから」
「……… 」


──というか私は、まだ全てを思い出したわけではない。何が起こってどうして記憶がなくなっていたのかすら分かっていない。

ズキリと頭が痛む。


「……あのね、私、多分…忘れていたことのほとんどは思い出したと思うんだけど……でも、どうして自分がこうなったのかは分からないの。一体、何があったの?さっきハンジが『転んでまた頭でも打ったら』って言ってたけど、私そんなに激しく横転でもしたの?それで記憶がなくなってたの?」


急かすようにハンジに顔を向ければ、静かに口を開いた。


「あぁ……そうだな、まぁ、うん。転んだというか、壁外で巨人との戦闘中に頭を打ったらしいんだ。実際にその現場を見た人間はいなくて詳しくは分からないけれど、まぁ戦っている最中に頭を強くぶつけたんだろうってことになっているよ。おそらくその通りだと思うし」
「……巨人との、戦闘中、に……」
「あとから駆けつけた兵士が倒れてるナマエを発見して、連れて帰ってきてくれたんだ。」


“巨人との戦闘中に頭を打った”。

……その、せいで。


「他にも怪我はしていたけど特に頭を強く打っていたせいであなたは記憶の一部を失っていた。分かるだろうけど、我々や調査兵団に関わることほとんど全てをね。」
「………、」
「壁内に戻ってきて数日後に目を覚ました時、ナマエは自分が兵士であることを完全に忘れていたんだ」


(どうして、だろう)


「だけど正直……目を覚ました時やそのあとの様子は私たちも詳しくは分からないんだ。ナマエのお母さんが調査兵団の人間とは頑なに会わせてくれなくてね」
「え……」


思わず母親の顔が頭に浮かぶ。


「もうナマエは調査兵団の人間じゃないんだって言われたよ。…それでも、いつだって私たちはナマエのことを想っていたけどね」
「………、」


きっと、母さんにとっては私が調査兵団のことを忘れているのは好都合だった。それに関してだけ言えばとても喜ばしい出来事だったのだろう。元々兵士になることは反対されていた。家を出ることを嫌がっていた。

だから、必死に思い出させないようにしていたのだろう。

きっとあのまま、引っ越しをして違う土地でまた新たな生活をスタートさせて、私はもう兵士だった頃のことは思い出さない。夢を忘れたまま、母さんと毎日を過ごしていずれ誰かと出会い一緒になって、何も分からないままその人と生きていく──。

母さんにとっては、それが良かったのかもしれない。


「……っ」


(だけど、私は)


「……そんなの……」


(私の、気持ちは)


「っ関係、ないのに……」


私はぎゅっと拳を握り締める。


「母さんの言うことなんて……聞かなくていいのに……私は、もっと早く……思い出したかった」

「……」
「……」


もし会いにきてくれていたら、なんて。
本当のことを教えてくれてたら、もっと早く、なんて。

(会いに、きてほしかった)

それは私の勝手な都合でみんなにとってはそれこそ関係のないこと。
そのことで二人を責めるのはとんだ逆恨みだ。

でも、どうしてか、胸が詰まる。


「……うん。そうだね。確かにナマエのお母さんの話なんか聞かずにあなたを迎えに行くことだってもちろん出来た。」


ハンジのその言葉にドキリと胸が高鳴る。


「調査兵団に関する話をしたり連れて行ったり少しでも触れさせて思い出させるようにすることだって出来たはずだ。」
「………、」


でも、とハンジは続ける。


「だけど──…、」


そのまま何かを言おうとして口を噤み、なぜかリヴァイの方を見る。私もそれにつられて彼を見ると彼は一度、頷いた。

私はまたハンジに視線を向ける。


「ナマエは……覚えているのかな。」
「え……?」
「あなたが、精神的に、弱っていたことを。」
「……… 」


──え、と頭の中が真っ白になる。


「あの頃のナマエは精神的にだいぶ弱っていた。あまり笑わなくなっていたし、いつも暗い顔をしていた。それは仲間の死やなかなか謎が解明されない現状、きっといろんなことが重なってストレスになっていたからだろう」


(精神的に、弱っていた?)


「だからこんなことになって……ナマエの母親にもう関わらないでくれと言われた時、もしかしたらナマエにとってはその方が幸せなことなのかもしれないと、私たちはそう思ってしまった。」


ドクンと心臓が脈打つ。


「だから会いには行けなかったんだ。すまない」


仲間の死、報われない現実、何度壁外に出ても虚しさだけがいつもひどく残る。


「──…、」


それでも。

──だけど、それでもきっと、少しずつでも前へは進んでいる。調査兵団がやっていることは間違ってはいない。いつかきっと報われる。いつかきっと分かる日がくる。いつか希望をこの手に掴む日がきっと──くる。


“いつかきっと”

(でも、それは、いつ?)


「っ………、」


違う。

そんなこと、思ってなんかいない。

私はまだ、前を向いて、戦える。


「もしナマエを街中で見かけたとしても声を掛けないようにと頼んで……みんな、出来るだけ知らないふりをすることにした。ナマエとは関わらないようにしていたんだ。」


私は、この心臓を捧げた調査兵団の兵士。自由の翼を掲げた兵士の一人。

それを、忘れたいと、思うはずがない。

絶対、ないんだ。


「…まぁでも、リヴァイがどうしていたのかは、知らないけど」
「……。」


ハンジのその言葉に下がっていた視線を上げ、リヴァイを見ると目が合う。

…ああ、そうだ。
あの店は、リヴァイと二人でよく行っていたお店。

リヴァイはきっと──私を。


「………。」


間違っているはずが、ない。

私はすっと姿勢を正す。


「……ごめん、二人とも。私……まるで二人のせい、みたいに言って……。ごめんなさい」


とにかく、ここまで来たんだ。


「ううん。ナマエの気持ちも分かるよ」


これからまたここで生きていけばいい。
戻ってくればいい。
ただそれだけのことじゃないか。

私は今、何も怖いものなんて───



「……ナマエ、今日のところはこれくらいにしておけ。」
「…え、?」
「無理してまた倒れても知らねぇぞ」


一気に詰め込むなと、リヴァイが言う。


「うん。まーとりあえず帰ってきたんだしね。慌てることもないんじゃない?」


ハンジも腰に手を当て晴れやかな表情で私を見る。

そう、帰ってきたんだ。私はこれから私を、取り戻すんだ。

──そして。



「おかえり、ナマエ。」



柔らかな声で、ハンジがそう言った。
その瞬間に世界が変わる。リヴァイが私に一歩近づく。

おかえりという言葉が胸に広がって、目頭が熱くなる。

私は今度こそ涙を我慢して口を開いた。



「…ただいま、」


少しでも震えないようにと懸命に出したその言葉によってどことなくうす暗かった空気はどこかへと消え失せ、私たち三人の表情を穏やかなものへと変えた。


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