目の前に一人の女の子が立っている。
その子は逸らしたくなるような真っ直ぐすぎる瞳で私を見つめている。少し、居心地が悪い。

すると少女が言った。


『あなたはいつまでそうしているつもりなの?』


答えようとしたけれど言葉が出ない。


『せっかく翼を手に入れたのにどうして飛ぼうとしないの?』


(……翼?)

少女は続ける。


『わたしは空を見るのがすきなの。自由に飛んでいる鳥を見るのもだいすきなんだ。でもわたしには翼がないから飛ぶことは出来ないんだって。』


人間には翼はない。飛べないのは当然だろう。


『だけど、あなたは手に入れたんでしょ?』


人は翼を手に入れることなんて出来ないはず。


『壁の向こうにも行けるんでしょ?』


壁の、向こう。


『わたしはそんなふうになりたかったわけじゃない。』


(……この子、知ってる。)


『ねえ覚えてる?あのお姉さんがさ、いつも教えてくれたよね。いろんな話をしてくれたよね。だから、空を見るのがまた楽しくなっていった。』


空を見上げると寂しくなるのはなぜだろう。


『覚えてるでしょ?いつまでもそんなところにいないで、早く、思い出して』


ふと切なくなるのは、誰かを裏切り続けているような気持ちになるのは。


『…わたしの、憧れ。』


少女は微笑み私を指差した。

つられるように自分の体に目を向けると、茶色いジャケットと緑のマントが見えた。


───いつの間に。


覚えのない服装に気を取られているとその僅かな間に少女は忽然と姿を消していた。

それでも、彼女の言葉が頭の中で何度も繰り返される。

“せっかく翼を手に入れたのにどうして飛ぼうとしないの?”

私は、いつ翼を手に入れた?

開いた手のひらを見つめて思考する。

空を見上げるのが大好きだったこと、鳥のように飛んでみたかったこと、それが不可能なのだと知っても尚憧れ続けたこと。

(それは、全部)

その、憧れは。


その、夢は────







街中で倒れて病院に運ばれ、目を覚ますとなぜだか涙が止まらなかった。自分でもよく分からなかったけれどとにかく悲しくて胸が苦しかった。
そのうち看護婦さんに声を掛けられると涙は止まり、それから先生と少し話をした。何があったのかを自分の分かる範囲で話しそれから過去の記憶が曖昧なことも相談をした。
不安げな私に先生は落ち着いた声色で大丈夫だと言ってくれて、記憶のことも無理に思い出そうとする必要はないと言い暫くは家で安静にするよう言われた。
とにかく無理は厳禁で、話が終わったあともそのままベッドで少し休まされ十分に落ち着いた頃に家に戻った。

どうやら私が倒れたことは母さんの耳には入っていなかったようで、余計な心配をかけたくなかったから今日の出来事については黙っておくことにした。私は夕飯の支度だけして帰ってきた母さんとそれをいつも通り食べ、あとは少し疲れたからと言って早めにベッドに入った。

先に一人ベッドに横たわり、考える。

記憶のことや体調のことも。まぁ過去のことは思い出せないのだから考えても仕方ないような気がするけれど、考えずにはいられない。だけどズキンと少しだけ頭が痛み、目を閉じる。

先生が無理をするなと言っていた。

(……だけど)

突然涙が出たり胸が苦しくなったり、最近は特におかしい。こんな情緒不安定なままじゃ仕事もさせてもらえないかもしれない。それは困る。
ちゃんと働いて、稼がないと。

悶々といろいろ考えていると次第に瞼が落ちてくる。やはり疲れているのかいつもより早く睡魔がやってきた。

(そういえば、倒れた時、あの人の声が聞こえた気がする)

ウトウトとしながらふとそんなことを思い出す。
あれは、気のせいだったのだろうか。

(名前を、呼ばれた気がする)

まどろみながらついに瞼を閉じる。

(私の名前、教えたっけ)

ぼんやりと疑問に思いつつもやってきた睡魔に逆らうことなく従い、そのまま眠りについてしまった。





私は彼に名前を教えてはいない。
なのになぜあの時名前を呼ばれたのだろう。
いや。そもそも、あれは本当に彼の声だったのか?
気を失う瞬間のことだ。聞き間違いか幻聴の可能性もある。
どうして彼だと分かる?
声なんて最近初めて聞いたばかりじゃないか。
姿も見ていないのに、彼だと断言出来るのだろうか。


『あなたはいつまでそうしているつもりなの?』


いや……違う。
私は、知っている。
もっとずっと前から彼を知っている。
なぜなのか。
なぜって、そんなの。簡単だ。
とっくに出会っているのだ。
私は、彼に。
彼は、私に。
出会って話しをして、日々を重ねて互いのことを知っていった。
想いを重ねていった。
だから私が彼の声を聞き間違えるはずはないし、彼も私の名前を知っていて当然だ。


『覚えてるでしょ?いつまでもそんなところにいないで、早く、思い出して』


いつも、ずっと。夢を見ていた気がする。
思い出せなかったけど、とても大切な。
私が、私である為の。
失くしちゃいけなかったのに。
忘れちゃいけなかったのに。
どうして私は、忘れてしまったんだろう。
大事なことを。
大切な人のことを。

私は、思い出さなくてはならない。

いつまでもこんなことをしていられない。

いい加減、思い出すんだ。

少女は私を真っ直ぐに見つめて言っていた。

“せっかく翼を手に入れたのにどうして飛ぼうとしないの?”

私は、翼を手に入れた。

───いつ?

開かれた手のひらを握り締め、前を向く。


「……行かなきゃ、」


前を向けば、少し先の方に自由の翼を背負った彼の後姿が見えた。





目が覚めると、涙がこぼれていた。静かで薄暗い部屋の中それを拭いながら体を起こす。陽はまだ昇っていない。


「………、」


ベッドの上で一人。両手を見てみると小刻みに震えていた。いや、手だけじゃなく体が震えている。


「…… っ」


両手で顔を覆い、俯く。

───苦しい。

息がしづらい。胸が、痛い。

奥歯を食いしばり頭を抱えそのまま髪を握り締める。
涙が出そうだったけれど、我慢した。ここで泣いてる暇なんてないと思った。

深く息を吐いて、顔を上げる。

滲んだ涙を残らず拭いてベッドから下り、部屋を出るとすぐに母さんと目が合った。


「……、」
「……」


そういえばベッドに母さんの姿がなかった。まだ起きてたんだ。
頭の片隅でそんなことを思い、静かに息を吸い込み一歩を踏み出す。



「……どこへ行くつもり?」


ぴたりと私の足が止まる。


「……え?」


また母さんの方を見てみるとイスに座ったまま私をじっと見つめている。射抜かれるようなその視線に、私は思わず黙り込んだ。


「……ねぇ、ナマエ。まさか、戻るなんて言わないわよね?」
「………、」


“戻る”。

そう言って母さんは少し悲しそうに目を伏せる。その言葉の意味も悲しげな瞳の意味も、もう分かる。


「……母さん、私……」
「どうして?」
「っえ……、」
「せっかく……やり直せると思ったのに……どうして、またそんな顔をするのよ」


テーブルの上で合わせた両手をぎゅっと握り締め、俯く。


「もういいでしょう……いつまであんな無謀なことを続けるつもり……?」


私はきっと親不孝者なのだろう。


「何の意味があるのよ……」


そしてきっと分かり合えない。


「……母さん、ごめんなさい。でも、私は、」
「っやめて、」
「……っ。」
「いい加減もう、やめなさいよ……」


震えるくらいにぎゅうっと手に力が込められているのが分かる。黙ってその姿を見ていると、突如深夜に似つかわしくない大きな音が部屋に響いた。


「ッどうしてあなたもあの人も私を一人にするのよ!?」


声を荒げながらテーブルを叩きつけ、母さんは立ち上がる。


「私はっ、あの人と別れてからも必死にあなたを育ててきたのに!なのに何であなたまで離れようとするのっ!?」
「っかあ、さん、」


肩を掴まれ詰め寄られ母さんはいよいよ瞳に涙を溜めながら話す。

だけど、私は。早く行かなきゃ。


「──っ母さん、」


同じようにグッと肩を押して体を離し、顔を上げる。


「お願い、行かせて、本当はこうしてる時間も惜しいくらい一秒でも早く会いたい人がいるの、」
「そんなの嘘よ!」
「な、嘘じゃない、っ本当に、」
「ならどうして忘れていたの!?」
「、え……っ?」


彼のことが頭に過ぎった瞬間、母さんが更に声を荒げた。


「私のことや自分のことは大体覚えていたじゃない!なのにその部分だけ記憶がなくなっていたってことは、忘れたかったってことでしょ!?」
「……… 、」


“忘れたかった”?


「本当は、もう、ずっと嫌気が差してたんじゃないのっ?ずっと、やめたかったんじゃ、ないの?」


“やめたかった”?


「それが普通なのよ!それとも死ぬまで続けるつもりなの……?」


───違う。


「楽しいわけがないじゃない、あんなところに居たいわけがないでしょう?あなたもそう思っていたから、記憶からなくしたんじゃないの?」


そんなことない。そんなわけ、ない。


「ナマエ、もうあんな人たちと一緒にいるのはやめなさい。あの人たちは人手が足りないからってあなたを良いように使って騙しているだけなのよ?」
「──っ、」


さすがにそれを言われた瞬間、私の中で何かがぷつりと音を立てた。
母さんをずっと一人にしていた罪悪感からあまり強く言えないでいたけれど、そんなのはもう、関係ない。

ふつふつと感情が湧いて出てくる。
だんだん余裕がなくなっていく。



「母さん……それ以上、私の大切な人たちのことを悪く言ったら……許さない」


こんなところで話している暇はないの。


「な……何よ、その目は……」
「どいて。」


早く、早く早く、──早く。


「っだから、行かせるわけ、」
「──どいてよッ!!」


我慢できずに思わず声を荒げると母さんは目を見張った。

でも、だって。

(誰かに言われてやっていることじゃない。無意味だなんて思わない。)


「っ……私は、…ッ私は……!」


──あの日、あの時自分の意志で入団したんだ。

迷わず家を出た時のことを思い出しギュッと拳を握り締め息を吸う。



「っ私は、この心臓を捧げた調査兵団の兵士!!自由の翼を掲げた兵士の一人なの!!」



久々にちゃんと自覚をして出てきたその言葉は、少しだけ、震えていた。

そして涙で顔を歪めた母さんの顔を最後に家を飛び出す。

自分の夢の為に。


(それと、もうひとつ。)


──早く、会いたい。

今すぐ顔が見たい。

今までのことを全部謝りたい。

一分一秒でも早く、あの人に会わなくちゃ。


「……っ」



───リヴァイ。

彼のことを想う度に、涙が出そうになった。


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