愚公移山


 陰鬱な雨期だ。窓の外は降り続く雨で煙り、陽光を遮る灰色の雲で日暮れ前だというのに薄暗い。
 放課後、既に多くの生徒が部活や寮に向かったこともあって、廊下には人影もなかった。更に言うと、曄士が跫音を響かせているのは特別教室棟二階のそこだ。美術部や管弦楽部が部活動に励んでいるが、彼らは何かなければ教室からは出て来ない。
 だから、今姿があるのは本当に曄士一人だった。
 管弦楽部の演奏と強かな雨音を耳に馴染ませつつ、曄士は教室棟に向かう足を速めた。瞬間、音楽室から微かに怒号が聞こえた。驚いて、足を止めて振り返る。
 音楽室は完全とはいいきれないが結構な防音室だ。ふつう怒鳴っても、離れた場所まで怒声が届くことはない。聞こえてきたのは多分、部長の声だろう。管弦楽部の知人が、しょうもないミスをすると部長が怖い、と苦笑していたのを曄士は思い出した。そりゃあ、防音をものともしないような怒鳴り声を上げられれば、誰でも恐がる。
 暫くしてから演奏が再開された。今度はさっき止まったところを通り過ぎたので、しょうもないミスは改善されたのだろう。
 管弦楽部はコンクールに出る訳ではないが、校内のあらゆるイベントで枠を取って演奏するし、麓にある老人ホームや児童養護施設といったところへの慰問演奏もしているから、気合いが入っている部員が多いらしい。ただでさえプライドの高い生徒が多い学園だ、内外問わず下手な演奏をしては沽券に関わる……と言う部分も少なからず、あるだろう。
 確か月末に麓の会館を借りての演奏会を行うのだったか……。今月の校外部活動のスケジュールを思い起こして、曄士は突き当たりの音楽室にこもる部員達に心中で激励を送った。
 そうしてから曄士は音楽室に背を向けて、自分の教室に向かって歩きだした。そもそも何故教室へ戻っているかと言うと、生徒会で必要な書類をうっかり机の中に忘れてきてしまったことに気付いたからだ。特別教室棟を経由するより、中庭を突っ切ったほうが早いけれど、この雨の中取りたい方法ではなかった。
 角を曲がって渡り廊下に差し掛かったとき、身体の正面に衝撃を受けた。進行方向から来た人物と衝突してしまったらしい、と気付いて、視線を上げて曄士は固まった。

「……た、……か、おみ……」
「曄、士……」

 何故なら、今までひたすらに曄士が逃げ続けていた元恋人、二階堂鷹臣の姿が、そこにあったから。
 思いもよらない邂逅に、どうやら鷹臣の方も驚いているらしく、鋭い目を丸くして曄士と同じように立ちすくんでいる。
 ――先に我に返ったのは、曄士だった。反射的に踵を返して駆け出す。一瞬後に鷹臣が忘我から立ち戻り、逃げる曄士を追いかけて来るのを背中に感じた。
 長距離は逃げられない。体力的な問題ではなく、場所が場所だけに直線だから、うまく撒くことができないのだ。
 だったら鷹臣の入り込めない特別棟まで戻ればよかったのに、あまりにも前触れのない遭遇に混乱しているのか、曄士はふと目についた生物準備室に逃げ込んだ。
 いくら鷹臣のスタートダッシュが遅れたとは言え、彼の足は速い。俊足さで言えば曄士の方が僅かに勝るだろうが、それこそ僅差だ。曄士が準備室に入った姿など、遮るものの何もない廊下では目にされたろう。
 案の定、身を隠す前に準備室の扉が乱暴に開け放たれた。部屋の隅に追いつめられて、とうとう――と言えるほど逃走劇は繰り広げられていないが――逃げ場をなくす。

「……っ、そこを退け、クソガキ」
「曄士」
「退けって言ってんだろ!」

 吼えて勢いで鷹臣の頬を殴るが、彼は微動だにしなかった。逆に曄士の方が狼狽える。
 曄士がチームのNo.3の座にいたのは、何も智謀だけのことではない。れっきとした戦闘員で、幹部に上り詰めるだけの力量があってのことだ。
 だから、その自分の拳を甘んじて受け入れた鷹臣に、居心地の悪さを感じる。殴られる瞬間に力を逃すこともせず、まともに受けた鷹臣の口端から、つうと一筋値が流れた。
 ――ひとを殴ると、こんなに痛かったろうか。
 曄士は鷹臣を殴った右の拳を、左手で覆った。じわじわと伝わっていく鈍い痛みが、今確かに鷹臣を殴ったのだと如実に教えてくる。
 周に来てからろくな喧嘩はしていないから、忘れていただけかもしれなかった。けれどそれだけではないことも、曄士は心の底では自覚している。
 振るった拳よりも、心臓の方が、痛い。同時に、曄士からの暴力を甘受した鷹臣に対して、嫌悪にも似た苛立が込み上げてきた。

「……ッ、だよ……今更……! 何で追いかけてくるんだよ! 今みたいに俺にわざと殴られて、それで――っそれで詫びているつもりか!」

 鷹臣は変わった、と実兄からも恵からも伝えられた。実際鷹臣が入学してきてから、彼に浮いた噂もない。猛省し、悛心したのは確かなのだろう。それは鷹臣にしてほしかった一つでもある。
 けれど、だからと言ってすぐに認めることはできない。信じることも。
 また同じことを繰り返されたらと思うと、何よりも恐ろしかった。
 曄士、と真摯に名を呼ばわれ、俯かせていた顔を上げるのと同時に、身体が随分と懐かしいぬくもりに包まれた。思い出が美化されて、泣きたくなるほど愛おしく思えるあたたかさ。
 抱きしめられたのだ、と気付いて抵抗するが、鷹臣の身体はびくともしなかった。
 年下のくせに……。頭の悪い幼子みたいな罵声にもならない罵声を、掠れた声で浴びせる。

「曄士……曄士、悪かった」

 記憶の限り、こんなにも深く真剣な声音での謝罪は初めてで、曄士は目を瞬かせた。後悔の程度を表すかのようにきつく抱きしめられて苦しいはずなのに、それも意識から消え去った。
 首を回して鷹臣の顔を見ようとしたけれど、肩口からでは側面がちらと見えるだけだった。
 暫時、鷹臣は腕の中の存在を確かめるように無言でいた。曄士は、逃げないから……と鷹臣の背中を軽く叩く。それでようやく、抱きしめる力が少しだけ緩められた。
 逃げ続けていてはどうにもならないことなど、先刻承知だった。それでも顔を合わせ辛くて、徹底して鷹臣を避けていたのだ。原因が鷹臣の浮気にあるとはいえ、何も――別れの言葉さえも――告げずに姿を消して、一体どんな顔をして会えば良いのかわからなかったから。
 だがこうして会ってしまえば、考えるよりも先に、心の奥底の方が鷹臣を恋しがって求めた。懐かしい体温に、目を閉じて鷹臣の肩に顔を埋める。
 また"鷹臣に"傷つけられることがひどく恐ろしくて仕方ないのに、なのに彼を求めてしまうなどと――自嘲しながらも曄士は強張っていた身体から力を抜いた。

「……俺は」

 暗い準備室に、ぽつりぽつりと鷹臣の声が響く。
 怖かった――。置き去りにされた子供のような声で、鷹臣はそう言った。
 曄士に近づくたび、曄士を知るたび、距離が埋まっていくたびに曄士への思いが増幅していった。好き過ぎて、ゆえに無体をして泣かせたい、恥じらわせたい、穢したいという嗜虐的な思いも抱いた。

「増えていく情を総てお前にぶつけて、それで嫌われるのが、厭われるのが、疎まれるのが、俺は怖かった……」
「……っ浮気、して嫌われたって同じだろ……!」
「違う。俺自身の曄士への思いを否定され拒絶されるのと、浮気で捨てられるのじゃ、傷の深さが。だったら浮気を重ねて見捨てられる方が、俺自身――根底にある思いを拒絶されるより、マシだった。別れ話さえ切り出してもらえないのは、予想外だったけど」
「何で――ああ、このクソガキがっ」
「曄士?」

 先刻とは別種の憤りが、心中を支配していく。それは呆れであって、歯痒さであって、愛情だった。

「どうして嫌われること前提で確定してンだよ、馬鹿か。何でそれを――怖いって言わねえの」
「……それは……」
「なんだよ……ほんと自己中で俺様なくせに、なんで馬鹿なの、お前は。言えよ。いくら何でもそンなこと、言われなきゃわかんねえだろ、馬鹿」
「馬鹿馬鹿うるせェなっ。ビビってるって知られて、曄士に子供扱いされンのが嫌だったんだよ!」
「ほんっと、馬鹿じゃねえの……」
「あぁ?!」
「男扱いしてなきゃ、足開くかよ、馬鹿が」

 ガキに抱かれる趣味はない……。言い切って、随分直接的な言い方をしてしまったなと、曄士は少しだけ恥じる。

「……まあ、何で浮気したかはわかった。俺にしたくても嫌われんのが怖くてできねぇこと、浮気相手でやってそうだな、お前」

 返答がなかった。恐らく図星なのだろう。非道な衝動のはけ口に、すり寄ってくる人間を使っていたというわけだ。
 喉で笑いながら最低だと言ってやれば、狼狽の気配が伝わってきて更に笑えた。

「なあ、お前、俺のこと好きなの」
「っ当たり前だろうが……! 好きだから嫌われたくないんだろうがっ。……だから……言い訳になるってわけじゃねーが、……悪かった。もう、しない。曄士以外いらねぇ……」
「モトサヤになりてぇ?」
「……ああ」

 半分諦めの入っている声音だった。情けない肯定を受けて、曄士は鷹臣を突き放す。押された力のまま二、三歩下がった鷹臣の表情たるや、後々一生涯からかえそうなものだった。
 眉根を寄せる鷹臣を笑って、彼の鎖骨の中央を人差し指でとん、と突く。

「なら、俺の信を取り戻してみせろ、マセガキ」
「っ曄士――」
「それくらい、できんだろ? 愚公山を移す、というしな」
「誰が愚公だ。――まァいい。だというなら、覚悟してやがれ、曄士」

 自信に満ちあふれた笑みを浮かべる鷹臣に、曄士はそれは楽しみだ……と言い返して準備室を出た。
 春からずっとつきまとっていた鬱々とした気分は、既に消えていた。
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