埋み火


 曹操が袁紹を打ち破り中原の覇者となった後、戦もすっかり片付いた曹操陣営だったが、思わぬところで新たな戦が始まっていた。
 初春の昼の陽射しに照らされる曹家邸の廻廊を奥へと行く歳若い背中に、琉漣は声をかける。

「曹丕殿、甄姫殿のところへ行かれるのですか」
「……そうだが」
「では、お供致します」

 と言うと、振り向いた曹丕は眉を顰めた。
 対袁紹の戦の折曹丕が妻に迎えた甄姫という女、これを琉漣は警戒している。甄姫はそもそも袁紹の次男袁熙の嫁で、前線に出ていた彼女を曹丕が己の元に降したからだ。
 袁家を滅ぼしてから、そう時間が過ぎた訳ではない。甄姫が心底曹丕に惚れているわけでない以上、何があるか知れたものではない。琉漣自身の過去が、過去であるだけに。
 だから、琉漣は曹丕が甄姫を訪う時は必ずと言っていいほど護衛として同行していた。さすがに部屋の中までは入らないが、常に室内の様子に意識を集中させている。

「子然よ。お前、いい加減に甄を信用したらどうだ」
「曹丕殿が、容易く信用し過ぎです。曹丕殿の御身に何かあったらと思うと」
「……子然」
「はい」
「甄の元へ行くのに護衛など要らぬ。――そもそもお前が言ったのだぞ。信をおける人間を増やせと」
「それは……言いましたが」
「お前は同じ降将の張遼や張コウはすぐに信用したくせに、甄はならぬと言うか」
「あのお二人は、曹丕殿の害にならないだろうと判じたので……」
「甄も、彼奴らと同じことだ」
「っ……曹丕殿は奪われた者の恨みの深さをご理解でない!」

 ――そう。義兄を奪った漢王朝への恨みは、未だ琉漣の奥底で燻り続けている。未だに胸中の、曹操に対する蟠りは根をはって消えようとしない。
 心の整理がつくことと、恨みを忘れることは、近いようで遠い。
 思わず聲を荒げると、曹丕は少し面食らったように瞠目したが、すぐに厳しい顔をした。

「張遼も張コウも、我らによって主君を討たれているだろう。恨みが深いというのなら、お前はあの二人もまだ疑っていなければならぬ」
「……ですが」
「甄は、自らの意思で私に降ることを選んだ。子然のように、疑うものがあることも承知の上であったろう。未だ思うところもあるであろう。だがそれでも、甄はここにいる。袁熙とともに死ぬ道もあったろうに。――……それに子然。惚れた女一人落とせぬようで、何を成せる」
「惚れっ……!? ……それとこれとは話が……」

 思わぬ台詞が教え子の口から出て来て、琉漣は激しく狼狽えた。その裏に、寂しさが隠れていたのだが、動揺が大き過ぎて当人も気付かなかった。

「違わぬな。これも一つの戦であり、天下の大業の縮図だ。――いいか、ついてくるなよ。来ようものなら僻地へ飛ばすぞ」
「曹丕殿っ!」

 厳しく琉漣を睨みつけて下命した曹丕は、さっさと踵を返して奥へ行ってしまった。追いすがる琉漣の聲には振り向きもしない。
 一人廻廊に取り残された琉漣は、唇を噛んで曹丕の背中に伸ばしかけた手を下ろして、その拳をきつく握りしめた。
 ぽつり、朱玉が一滴、滴り落ちた。


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