生きることは何よりも苦しくて冷たくて楽しくて温かい



 今朝はやけにすっきりとした目覚めだった。俺にがっしりしがみついて寝てる嘉山を蹴落として顔を洗う。鏡に映った顔も、どこか身軽さを感じているように見えた。
 昨日は昼から授業に戻って、放課後は下校時刻ギリギリまで美術室にこもって絵を描いていた。量産されるスケッチを見た副部長には、「憑き物が落ちたみたいだ」と言われた。
 ――多分、事件の後初めて泣けたからだろう。ずっと張りつめていたものが少しだけ緩んだ、その自覚がある。
 それを気取ったのか、嘉山は夜中、神妙な顔で言った。

「あのね、いーちゃん。俺がこうなのは、俺の問題で、いーちゃんはまったく関係ないんだよ。俺が勝手にいーちゃんに寄りかかってただけで、少しも芳春が悪いことなんてない」

 以前までなら、取り繕っているだけだろうと否定したはずの言葉も、素直に受け入れることができた。そうか、と頷いたとき、嘉山は泣きそうな顔で安堵していた。……代理には感謝しねえとな。あの人ほどの強者に許されなければ、きっとずっと泣けないままでいたし、嘉山の言葉だって信じられなかったろうから。
 とりあえず――これで俺に関する諸々は、一応ほとんど決着がついたといって良いだろう。
 少しだけ晴れがましい気分で登校すると、何やら教室の前に人だかりができていた。人だかりは俺達に気付くと不躾に奇異の視線を送ってくる。けれど、不思議とあまり苛立たなかった。気にならないとも言える。噂したければすればいい。俺は真実を知っているから、噂にも、それを振りまく奴らにも、振り回されてなんてやらねえ。
 そいつらを威嚇しまくる嘉山の後頭部を軽く叩いて教室に入るなり、大声で名前を呼ばれた。

「芳春! あ、いや……白水っ」

 俺に駆け寄って来た小柄な、色素の薄い生徒に心当たりはなかった。が、声で真山だと言うのはわかった。
 素顔は親衛隊のネコ連中のような雰囲気をしている。こいつが真山だと分かると、ギャラリーの半分ほどが興味を失って立ち去っていった。顔がよくても……ってやつだろう。
 俺の前に立って顔を強張らせる真山の一歩後ろに、穏やかな顔をした龍鳳寺が立った。
 何の用だと訝って見やれば、真山は勢いよく頭を下げた。

「いままで、ごめんっ!」
「あ?」
「俺、いままで芳……白水達に嫌な思いさせてて……白水にはすごく酷いことしちゃって……。謝っても許してもらえないと思うけど、謝らせて欲しい。本当にすみませんでした!」

 内心驚きながら何か答えようと口を開く前に、不機嫌を露にした嘉山が前に出た。

「あのさァ。こんな人目のあるところで謝罪して、何?」
「え」

 嘉山の冷たい声に、真山は顔を上げた。

「謝罪が受け入れられなかったら、同情票集めていーちゃんを悪者にしようって腹づもりなわけ?」
「え、あ……」

 恥じ入った様子で俯いた真山は、そう受け取られる可能性に気付いていなかったらしい。また小さく「ごめん」と聞こえた。
 龍鳳寺が落ち込む真山の肩を抱いて、嘉山を睨みつける。嘉山も龍鳳寺を睨み返すものだから、教室内の空気が張りつめていく。

「心から謝罪してる友紀に対して、その言い方はないんじゃない」
「あんたの入れ知恵なんじゃないの? 俺とつるんでるからって、いーちゃんのことも嫌ってるあんたからしたら、いーちゃんが悪者になれば万々歳でしょ」
「本当に失礼な奴だな……! 気付いてたら、教室じゃなくて部屋に行って謝るのをすすめてたよ!」
「は、どうだか」
「この奇人……!」

 悪化していく空気に溜め息をつく。真山は顔を上げ、しっかり俺の目を見てもう一度謝った。

「気付かなくて、本当にごめん、白水。そんなつもりじゃないんだ、信じてもらえるかわからないけど、本当に俺は……」
「……」

 まっすぐに見つめてくる真山は、何があったのか、どうやら本当に反省しているらしい。親衛隊は動いたから、確実に制裁関係で思うところがあったんだろうが。
 何であれこいつがいままでの行動を省みて、改めようとしているのは事実のようだ。

「……謝罪は受け取る」
「許してくれるのかっ?!」

 顔を輝かせた真山を、嘉山が疎ましげな目で見下ろしている。
 ――誰が許すか。狭量だと言われようが、そんな簡単に許してやる気はない。こいつのせいで、春宮司家の気遣いが無駄になったんだから、簡単に許すことはできかねる。隠してくれたことに、俺は恩義を感じているから。

「許してやる気はないし、お前とオトモダチになるつもりも、更々ねえよ。謝罪を受け取ってもらえただけ有り難く思え、野猿」
「う……ごめん」

 真山があからさまにしょげたから、龍鳳寺が俺に文句を言おうとしたようだが、何度か言い淀んで結局は口を閉じていた。かなり不満げに。一応こいつも、真山がやらかしたことは理解してるらしい。
 ……。

「ただ、もう少し成長して、少しはマシな奴になれたら、その時は考えてやらないでもない」
「ほ……ほんとか?!」
「確約はしねえがな」
「充分! それで充分だから!」

 ちょっとは学んだはずなのに、相変わらず声でけえ。
 飛び跳ねて喜んでる真山を横目に席に着こうとすると、不満げな嘉山と目が合った。

「いーちゃんのお人好し」
「は……、仕方ねえだろ」

 唇を尖らせて、まるで拗ねてるみたいな嘉山の様子に、笑いが零れる。

「仕方ねえよ、――父さんから受け継いじまったからな」

 それは悲劇を招いたものだけれど、俺はお人好しな父親が好きだった。優しさは連鎖していって、そうすると少しだけ世界は穏やかになる――それが口癖だった人が。
 仕方ないとはいえ、だけど多分ほとんど一生、女に対して優しくはできないだろう。引き金となったものはどうしたってトラウマだ。正直克服できる気はしない。現時点で……だから、もしかするとうっかり乗り越えるかもしれねえけど、先の話はわからない。

「……おい、何だ」

 どういったわけか、目の前の嘉山は顔を赤くして固まっている。周囲を見渡すと、真山も龍鳳寺も、こっちを見てた奴らの大半が同じことになっていた。
 もう一度嘉山に声をかけると、嘉山はハッとして何か情けない声を出しながら抱き着いてきた。……何なんだ。

「いーちゃん、そんな笑顔ホイホイ出しちゃらめぇぇ!」
「あぁ?」
「……貞操に気をつけたほうがいいよ、白水」
「は?」

 何で龍鳳寺にそんなことを言われなきゃならねえ。真山も頷いてんな。

「つうか、別に気をつけなくても、吉良が牽制なり何なりするだろうよ」

 さらりと言うと、嘉山がびしりと動きを止めた。ただ一瞬のことで、数秒後にはやけにシリアスな顔で俺から離れたが。

「ちょっときらりん殴ってくる」
「へえ? 殴れるもんなら殴ってみやがれよ、変人」

 物騒なことを言って踵を返した嘉山の真正面に、やたらニヤニヤした吉良がいつのまにか立っていた。……マジでいつ来た。よくギャラリーが騒がなかったな。

「で、出たな、きらりん! ここで会ったが百年目、いーちゃんを賭けて尋常に勝負しろー!」
「力量差考えてものを言えよ、嘉山。お前が俺に勝てる訳ねえだろが」
「それでも挑まなきゃならないときが、男にはあるでしょうがー!」
「まあ、一人で喚いてろよ、オレンジ頭。俺は風紀委員長だから、殴り合いの喧嘩なんてするつもり、ハナっからねえけどな」
「うわーむかつく! いーちゃんこんな男やめようよ!」
「やめねえよ。つうか、付き合ってもねえよ、まだ」
「やめっ……まだ?! ちょっと、いーちゃん!?」

 ちょっとからかってやると、面白いほど嘉山は苦悩しだした。その苦悩の内容がなんとなく分かるから嫌だ。あれは萌えれば良いのか妨害すれば良いのか悩んでるんだ。
 ちらりと吉良を窺えば、翡翠の双眸はわずかに驚きに見開かれていた。

「……止まり木の話、あれ、受けても良いぜ」

 今度ははっきりと瞠目した。何の話だとか騒いでる嘉山はまるっと無視をする。

「俺は……何もしてやれねえって思い知った。それでもいいのか」
「その中でできることを探して、助けてくれたろうが。何にもできねえってことは、ねえんだよ。昨日も言ったろ。それで俺は助けられたんだから、いいんだって」
「っ白水……」

 納得させるために微笑んで言えば、吉良はさっきの嘉山達と同じように赤くなって硬直した。

「あんま、その笑顔振りまくな、頼むから。ライバル増える」
「うっはー、きらりん赤くなってんの気色悪〜い」
「うるせえぞ、嘉山!」
「いだだだだ!! ちょ、苦しい! 暴力反対!」
「俺を殴ろうとしてたのはどこのどいつだ!」
「痛い痛い! お、落ちちゃう! 落ちちゃうから! 苦しいって!」

 赤くなった吉良を嬉々としてからかいにいった嘉山は、その吉良にスリーパーホールドを仕掛けられて悶絶する羽目になっている。
 滅茶苦茶うるせえ。うるせえのに、俺はこの騒がしさを、悪くないと思っている。むしろ穏やかに思えて、心地良ささえ感じてるんだから始末が悪い。

「白水! だからその笑顔を無駄撃ちすんじゃねえって言ってんだろ!」
「はぁ? 笑ってねえし」
「や、笑ってたよ、白水……」
「無意識微笑とかたまんなっ……いてえ! ちょっ……マジ、入ってるから、ちょ……」

 嘉山が解放されたのは、意識を失う直前だった。机にぐったり伏せている嘉山の情けなさが何だか笑えて吹き出すと、吉良にまた笑うなと言われ、顔を胸板に押し付けられた。ざわめく周囲と息苦しさに解放を求めても、「笑うから駄目だ」と撥ね除けられる。
 まあ、好きにさせとくか。どうせ夏煌胤あたりに吉良は小言を言われるだろうが、俺には関係ないことだ。
 吉良に大人しく抱きしめられてる俺を見てまた嘉山が騒ぎだす。周囲の騒がしさに、俺はこっそりと、ひどく穏やかな心地で笑った。

(怖い記憶が閉じた扉の奥から漏れ出てきても、きっともう怖くはない。周りがこんなに賑やかなんだから、たとえ恐怖を感じたって、全部掻き消してくれるのだろう――)


end.
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