僕が気ままにピアノを弾いていると、また彼女がやってきた。彼女は僕がピアノを弾くのと同じ様に気紛れにやってくる。
彼女が来るのは凄く不定期的だけれど、それでも一日一回は必ず足を運んでくれるのは嬉しいことだ。僕の密かな楽しみである。


彼女と言語コミュニケーションを取ることは不可能だ。彼女が言葉を発したことは一度もないし、僕が話しかけても彼女が反応することはない。もしかしたら言葉が通じないのかもしれない。
彼女の耳が聞こえない可能性は全く無いだろう。彼女は僕がピアノを弾いていると、決まって反応を示すのだ。そして、僕が演奏を止めると彼女は鍵盤を叩いて演奏を促してくる。この反応が凄く嬉しい。
僕と彼女のコミュニケーションはこんなものだけれど、これも僕の楽しみだ。

僕は今日も彼女とコミュニケーションをとるため、止めていた手を動かした。
すると彼女は、何時も通り静かに聞いているのではなく、何処からか笛を取り出してそれを僕のピアノに合わせて吹き始めた。
おや……もしかしたら、この子はこのために同じ曲を聞き続けていたのかもしれない。なんて、僕の自惚れかもしれないけれど、それでも他の曲を弾いたら妨害された時があったものだ。いやぁ、あの時は困った。

それにしても、セッションは久しぶりだ。もしかしたら初めてかもしれない。よく覚えていないのが正直なところだ。
嗚呼、なんだか段々凄く楽しくなってきた。彼女には悪いけれど、ここは思い切りアレンジを加えて楽しませてもらおう。
そんな僕に彼女は一瞬不思議そうな顔をしたけれど、すぐにニヤリと笑って乗ってきた。
おお、彼女が笑った所を初めて見た。少し感動だ。セッションって素晴らしい。
ここから、曲が終わるまで僕と彼女のアレンジ合戦は続いた。


「どうかしましたか?今日は何か良いことでもあったんですか?」
曲が終わった所で、僕は彼女に聞いてみた。彼女が笑った事が、何より衝撃だったのだ。
でも、やっぱり返答はなかった。彼女は笛をどこかに仕舞い膝を抱えて座り込んでいる。
その姿は、凄く悲しげで儚い。今にでも死んでしまいそうなぐらいに。
彼女のそんな姿を目にするのは初めてではない。ただ、さっきまであんなにも楽しそうだったものだから、そのギャップに驚いてしまった。こんな彼女はあまり見たくない。何時も、さっきのように楽しそうに笑って居てくれたらいいのに。

何か、僕に出来ることは無いのだろうか?
多分、僕は彼女のことが好きなんだと思う。だから、ずっと笑っていてほしいと願うし、笑わせてあげたいと思う。

なにも出来ない空白の時間が少し過ぎたところで、彼女が突然立ち上がった。その手には包丁が握られている。
嗚呼……またいつものか。

実は彼女と僕のコミュニケーション方法はもう一つある。
コミュニケーションと言っても、彼女が一方的に僕に感情をぶつけるだけの成り立っているのかも怪しいものだけれど。

彼女が僕に刃を向けて一歩ずつ近付いてくる。僕は一歩ずつ後ずさるけれど、そのうち追い詰められてしまうだろう。

一歩。また一歩。

じわじわと僕を追い詰める彼女が、顔を上げた。その顔は涙に濡れている。
同時に僕の背が壁にぶつかった。もう逃げられない。

「そんな辛そうな顔をしないでください……」

僕の声は、彼女に届かない。変わりに彼女の包丁が、僕の腹に深々と突き刺さった。

痛い。
痛いけど、何故か刺した彼女の方が痛そうだ。それに、既に僕は痛いとか言う問題ではない。身体が消えかかっている。

「何か辛いことがあるのなら、僕を頼ってもいいんですよ…………」

彼女に手を伸ばす。
また今日も、手は届かなかった。



「ごめんなさい、先生…………」


消える間際にそんな事を言う彼女の声がした気がした――…………




また明日。


ーFinー