「……やあ、姫ちゃん」

 そう挨拶をしただけだったのに、何故か姫ちゃんは泣きそうな顔をしてから責めるような口調で言った。
「なんで……なんで師匠がこっち側にいるですか……ッ」
 結局抱きつかれてそのまま泣かれる。どうしたらいいのか、ぼくにはよくわからない。ぼくはただ、アパートの部屋から出て適当にぶらぶらしようと思ったら、姫ちゃんがいたから声をかけただけだったのに。ぼくが何をしたって言うのだろうか。
「姫ちゃん、別にぼくは――」
「姫姉、いー兄をあまり困らせたら駄目ですよ」
 いつからそこにいたのか分からないが、横から萌太君が姫ちゃんをたしなめた。でも、その表情は戸惑っているように見える。ぼくが見ていることに気付いたのか、萌太君はぼくに笑ってみせたがその笑みも曖昧なものだった。
「……いー兄、何があったのか僕たちには分かりませんが――戻れるうちは、ちゃんと戻って下さいね」
 曖昧な笑みを浮かべたまま萌太君はそんな事を言う。戻るというのがなんのことなのか、ぼくにはよく分からない。
 戻るところなんて、とうにないはずだ。



 骨董アパートにいても楽しいことはないし、何より気まずい空気に耐えきれなかったため、ぼくは清水寺の辺りまで散歩に来ていた。歩いてきたのだが不思議と疲れていない。時間が進んでしまった様子もあまりない。はて、ぼくはそこまで歩くスピードが早くかつ持久力を持ち合わせていただろうか。ベスパなんかに頼っていたから体力は特に落ちてしまったと思っていたのだけれど。
「……普段の体力作りが効を奏したかな」
 なんて呟いてみる。もちろん嘘だ。ぼくは体力作りなんてしていない。そんな健康的ではない。
「あっれー? おにーさんじゃん。久しぶりってかァ!? ギャハハハハッ」
「……お久しぶりです。変な名前の人」
 ならどうして持久力とスピードがあるのか。うーん謎だ。とか思っていたら懐かしい声に呼び止められた。声の方を向いてみたら、そこにいたのは仲良く生八つ橋の試食をする出夢君と子荻ちゃん。いやいや、どういう組み合わせだ。
 二人の表情は対照的だ。出夢君は爆笑し、子荻ちゃんは難しい顔をして黙りこんでいる。やがて口を開いた子荻ちゃんが放たれたのは、萌太君と全く同じ言葉だった。

「……だからさ、ぼくには戻る場所なんかないっつーの」
 清水寺の階段に座り込んで空を見上げる。平日だというのに清水寺には人一人いない。まあ、当たり前か。これが俗に言う死後の世界って奴らしいから。
 何があったのか、重要なことの筈なのに全く覚えていない。ぼくの記憶力には呆れたものだ。……もしかしたら死んだときに頭でも吹っ飛んで記憶すらできなかったのかもしれないけど出来なかったのかもしれないけど。
 事実がどうだったのかはわからないけど、死んだ後であれこれ妄想してみるのも悪くないだろう。案外、ぼくみたいな奴は誰かをかばって死んだかもしれない。

「なんて、戯言だけどね」