壁に叩きつけられた背が痛い。 冷めた目でこちらを見下ろす政宗の瞳をぼんやりと眺めながら、私はそんなことばかり考えていた。 両手は頭の上だ。政宗の大きな手に掴まれて、動かすことができない。 日頃から体を鍛えている彼が少し手に力を込めれば、きっと私の手首なんて簡単に折れてしまうのだろう。政宗はまるでそのつもりであるかのようにギリギリと私の手首を締め付けた。痛い。それでも怖いとはちっとも思わないことが、自分でも不思議だった。 「政宗……?」 恐る恐る呼び掛けてみたところで返事はない。いつも爛々と前を見据えているひとつだけの瞳は、憎悪や愛情、悲哀、憤慨、色々な感情がせめぎあってひどく濁っていた。 「ねぇ政宗、どうしたの?」 ぴくり、形のいい彼の眉が動く。 掴まれ続けている両手の先はいよいよ冷たくなってきていた。きっと血が止まっているのだろう。 「ねぇ、まさむ」 「黙れ。」 「っ、」 ぴしゃりと言い放って、政宗は私の手首をぎりぎりと締め付けた。みしみしと、骨が悲鳴をあげるのが聞こえるようだ。痛い。それでも私を見下ろす政宗の方が痛そうな顔をしていて、飛び出しかけた非難の言葉は喉の奥に引っ込んでしまった。 そんな私を見て、政宗は笑った。口の端だけを釣り上げた、ひどく自嘲めいた笑みだ。その顔になんとなく見覚えがあるような気がして、私は首を傾げた。政宗が嘲笑う。 「その顔も計算か」 「……何言ってるの?」 「ふざけんじゃねえ。テメェもどうせ、あの女と同じなんだろう」 あの、女。 苦しそうに苦しそうにそう口にした政宗を見て、私はようやく理解した。 そうだ。今日は、東の方がお越しになる日。政宗のお母様、義姫様がおみえになる日だ。 「何か言われたの?」 「……誰にだ」 「お母様に。」 お母様に。 意識してその言葉を使えば、政宗はぎりりと唇を噛んだ。ははうえ、と。形のいい唇が、音にはせずにそうなぞる。やがて絞りだされた声は酷く低く擦れていて、声として聞き取ることが難しかった。 「……あの人が、俺を見るはずがねえだろう」 呟いた政宗の瞳は、すぐ前にいるはずの私を映してはいなかった。 どこか遠く。きっと、まだ「母上様」だった頃の義姫様を見ているのだ。彼がまだ政宗になる前、梵天丸と呼ばれていたほんの数年の間だけでも、義姫様は彼の母親だった。厳しくも優しい、武家の母親だった。 「誰だってそうだ。俺を見てる奴なんざいやしねェ。」 「そんなことない」 「ある。由仁、テメエだってそうだろうが。俺は醜い。醜いから、目に映したくない。違うか?違わねぇはずだ。なあ?」 フッと笑った政宗の横顔に、赤く腫れた筋。義姫様が愛用する扇が頭を過ってずっとした。 「俺が、」 燭台の火がちらちら踊る。それに合わせて、壁に映る政宗の陰もゆらゆらと揺らめいた。 日はとうに沈んでいる。もし今誰かが廊下を通りかかれば、障子に写った私達の影に驚かれることになるだろう。 政宗の表情が歪む。手首が痛いとどこか他人事のようにそう感じている私より、政宗の方が随分と痛そうな顔をしていた。 「……何をしたっていうんだ。」 低く低く、これ以上ないほどに抑えられた政宗の言葉。それが限りなく彼の本心を表しているように思えて、私は彼の一つだけの瞳をじっと見つめた。泣きそうに歪んだ表情は、すぐに嘲笑へと変わる。見慣れた顔だ。自分を責めて責めて責めて、それでも満足できずに歪んだ顔だ。 政宗は早口で言った。 「父上を殺したのは俺だって言うのか?家督を継ぐべきは俺じゃなく弟だったと?それともなんだ、病にかかったのが悪かったのか?」 「違うよ。政宗は何も悪くない。」 「だがあの女はそう思ってない」 「それでも違う。」 「違わねぇ。」 ぎり。捕まれた手首に、とうとう爪が食い込んだ。触れた手のひらから、ぐしゃぐしゃになった感情が流れ込んでくるようだ。 いい。これで、いい。政宗が、凶器と化した感情を自分に向けずに済むのなら、これで。 そんなことを思っていたら、何かがつうと腕を伝った。強く握り締められてとうに感覚のない手首から、どうやら血が流れているらしい。 ぬるりと滑った感触に驚いたのか、政宗がぴくりと眉をあげた。瞳が揺らいで途方に暮れたような顔になる。それだけだったけれど、口下手なお殿様の言いたいことは伝わった。傷つけるつもりはなかった、それだけ分かれば私には十分だった。 「……大丈夫だよ。」 痛くないよ。 そう言ってあげれば、強く握られたままだった政宗の手のひらがそっと離れていく。両手をぶらりと体の横に下ろして、政宗は唇を噛んで俯いた。 その頬にそっと手を添えてみる。 右目を覆う眼帯に触れた瞬間、政宗の肩がぴくりと跳ねた。 「……おい」 「痛くないよ。」 指先を引っ掛けて、引っ張る。 「もう痛くないんだよ、政宗。」 顕になった右目は疱瘡の痕が痛々しく残り、変色して窪んでいた。そこにあるはずのものがないことは明らかだ。 元々の顔立ちが端正なだけに、酷く目立って見える傷跡。政宗から多くのものを奪った傷跡だ。彼がこの傷跡を酷く憎んでいることは知っている。 それでも私には分かっていた。政宗は拗ねているだけだ。 死にそうなくらい辛い思いをして死病に打ち勝ったのに、一番会いたかった母親に死ねと、死んでしまえと言われたあの日から。 どうしてと。貴女の息子は俺だろうと。 声に出せない思いを無理矢理右目に詰めて、眼帯で蓋をした。 そっと撫でるように指先を動かした私の手を、政宗はまたさっきのように掴んだ。滲んでいた血が彼の手のひらを赤く染める。 「やめろ」 「嫌。」 「触るな由仁」 「どうして?」 「……感染る、から」 「感染らないよ」 「分からねぇだろ」 「大丈夫。」 「何、で」 「私が大丈夫だと思うから、大丈夫。」 「……なんだそれ。」 政宗は笑った。 「馬鹿じゃねぇの……。」 淋しそうに笑った政宗は、相変わらず私を見てはいない。 それでもいいのだ。たとえ得られなかった母の愛の代わりに私を求めているのだとしても、私は十分幸せだから。 「……ねぇ、政宗。私にどうして欲しい?」 じっと目を見つめて問うてみる。 政宗はぎゅうと左目を瞑って、縋るように私に抱きついた。 「……愛してくれ。」 小さな声で告げられた、小さな小さな彼の望み。 それは果たして私に向けられたものなのか、それとも義姫様に向けられたものだったのか。どっちでもいい。私の答えは決まっている。 「愛してくれ。」 「うん。」 「嫌い、に、」 「ならないよ。大丈夫。」 「俺から逃げるな」 「逃げない。約束する。」 傍にいろ。醜いなんて言わないでくれ。ずっと、隣にいて欲しい。 幼い子供が親に言うように、そんなことばかり要求する政宗の言葉を私はただただ繰り返した。 傍にいる。醜いなんて思わない。私は何があっても、政宗の味方だよ。 言い聞かせるように、刷り込むように約束を口にした。だけどきっと、政宗が本当にそう言って欲しかったのは私じゃないはずだ。 案の定、政宗の薄い唇がははうえと動いた。短い単語だ。間違えるはずがない。 ほらやっぱり。そう思う反面、心の底がじくりと痛んだのには気付かなかったフリをする。 小さく震える政宗を抱き締めて、私はそっと囁いた。 「愛してる、政宗。」 その言葉に一際大きくぶるりと震えた政宗の髪をそっとかきあげて、引きつった傷跡に口付けた。 傷痕を嘘で塗り潰した |