冬の海は氷の如き冷たさで身を侵し、爪先から全身を凍らせる。痛み、感傷、郷愁。全てを呑み込み塗り潰す白銀の煌きの中、一つの想いのみを抱いて沈みゆく感覚を私は知っていた。

そして、その感覚も想いも、永久に失われることはないのだろう。




日直の仕事を終えた頃には、教室に西日が差し込む頃合いとなっていた。教室には誰もおらず、遠くに運動部の掛け声が響くのが聞こえる。椅子に掛けたダッフルコート、鞄に無造作に突っ込んだ赤いマフラー。冬はもう終わりに差し掛かっているらしいが、私にとって防寒具は未だ手放すことのできない必需品であった。
春の温もり、そんなもの、この世に生まれた時から感じたことはない。簡単に言ってしまえば酷く寒がりな性質なのだ。いっそ病的な程のそれは、医者に恐らく心因性のものであると告げられている。――心当たりは、ないこともない。


「暑くないのか」


不意に投げかけられた声に、思わず身体がびくりと硬直する。ゆっくりと声の方に視線を向けると、いつからそこにいたのだろうか、教室の扉に凭れるようにしてクラスメイトの毛利くんが立っていた。驚きが抜けずに固まっていると、毛利くんがその切れ長の目をついと細める。ああそうだ、質問されたのだから、早く答えないと。


「……いや、別に大丈夫だけど」
「その様な厚着でか?貴様に感覚はないのか」
「寒がりなだけ。寒いの嫌いなの」
「何故」


この人はこんなにも饒舌だったろうか。思わずその整った顔を見つめてみるが、彼は表情一つ変えやしない。ただ、窓の外から差す夕日が彼の顔を陰と橙に色づけている様は酷く美しかった。そう、変わらず。

元就くんに見られないように、左手を握り緊める。爪が掌に刺さる感覚、微かな痛みに少しだけ安堵した。沈黙は苦手なのだ。必要のない、余計なことまで想起しそうになるから。


「何でそんなこと、毛利くんが気にするの?」
「どうでも良かろう」
「良くないよ」
「何故」
「さっきからそればっか……」
「みょうじ。貴様が寒さを厭い、その故を我に問われたくない理由があるとでも言うのか」


理由。――理由、どうして、そんな聞き方をするのか。ただの突拍子もない世間話だった筈のそれが、私の中で一瞬で形を変える。いや、世間話だと捉えていたのは私だけだったのか?
違う、そんな訳はない。目の前にいる毛利元就くんは、大して親しくもないただのクラスメイトだ。彼が、それ以外の用件を私に抱いている筈がない。


「……良かろう。貴様と押し問答をする気はない。我の理由を教えてやる」
「……」
「昔の話だ。――かつて、一人の愚かな女がいた」


私の心中などなど意に介さず、毛利くんは淡々と言葉を重ねる。


「自らの命の使い道を捨て去る以外に知らぬ愚者よ。自らの死は我の為に使いたいなどと宣う、愚かで使い勝手の良い手駒であった」
「……ねえ毛利くん、」
「そして結局、」毛利くんは言葉を止めず、はっきりと言い切る。「その女は我を庇い、死した。その胸に槍を受け、そのまま海に落ちて行った」


手駒だの、槍だの、死だの。それらは高校生が紡ぐにふさわしき言葉ではない。まるで戯言、しかし、私の視界は簡単にくらくらと揺れる。握り緊めた手に滲む汗、小さく息を吐く。ああ、なぜ。

どうして、貴方がそれを口にする。



「なまえ、次は貴様の番だ」



常と違う呼び方、私の名前。
この人は、それをいとも容易く口にして。


「我の問いに答えよ。何故寒さを厭う。何故その故を我から隠す。――何故、そのように振る舞い続けた」


もうやめてくれ、そう言おうとしたのに口が開かない。毛利くんは静かに私を見遣っている。いつかどこかで、私に向けた視線と同じものを投げつけて来ている。


答えはどれも単純、簡単なことだ。
寒さを厭うのは、白銀の海に抱かれる感覚が未だに消えてくれないから。
理由を隠すのは、貴方に余計なことを思い出させたくなかったから。


例え愚かと言われようと、これ以外、貴方の為に尽くす手を知らないから。



「……思い出して、しまったのですか」


私の呟くような言葉に、毛利くんは答えを返さない。ただ私を射抜くのは、さざ波すら立たず、如何なる誤魔化しをも許さない瞳。知っている。それは、毛利くんではない――元就様の、それ。


「だとしたら、何とする」
「そんな……だって、元就様がかつてを思い出す必要なんてなかったのに。辛く重苦しい記憶なんて、もう、必要のない、」
「だから貴様は愚かなのだ」


感情のままに溢れかけた言葉がばっさりと切り落とされ、思わず目を見開く。彼は扉から背を離し、ゆっくりとこちらへと歩を進めてきた。静かな足音が、他に人のいない教室に響く。その全身を夕焼けが仄暗く照らし、不意に、制服を着た賢い青年の姿が、戦国を暗躍する謀神の姿と重なった。


幾度仰ぎ、夢にまで描いたことだろうか。
その視線を一瞬でも受け、その下で刀を振るう。その喜びに、幾度打ち震えたことだろう。

最期の最後まで、否、白銀に抱かれた後も思い描き続けたその姿。



唯一無二の、私のかみさま。



数歩前に立ち、私を冷たく見遣ったまま口を開く。


「良いか、我の悲喜を貴様如きが判ずるな。その様なことで貴様に気遣われるなど悪寒が走るわ」
「……元就様は、思い出して悔いはないのですか」
「くどい。二度と言わせるな」
「そう、ですか……」


自分の言葉の筈のそれが、まるで他人事のように響いた。何か続けようとするが、結局黙りこくって目を伏せる。何時の間に思い出していたのか。私のことまで思い出してくださったのか。いつから私の茶番を――ただのクラスメイトというものを演じ続ける姿を、見ていたのだろうか。その全ては徒労であり、まさしく愚者そのものであったというのに。
脳内を疑問が過り、溢れ、弾ける。もう毛利くんではない。元就様を目の前にし、何も言えない自分がいた。


「……まこと、愚かしき女よ」


元就様が、ぽつりと呟く。


「彼の世でも此の世でも我の手駒であろうとし続けたこと、それくらいしか救いようのなき女だ」


その言葉に、思わず顔を上げる。一瞬、ほんの一瞬だけ元就様と目が遭った。しかし、直ぐにそれは逸らされ、そこに浮かぶ思いを汲み取ることは叶わない。しかし言葉だけははっきりと耳に届いた。
そして浅ましくも、その言葉を都合良く捉える余裕は残っていた。


「元就、さま」
「……」
「その……それは、お褒めの言葉と捉えて、宜しいのでしょうか」
「……此度こそは、その命、使い方を過つな。我の為と言うのなら果たしてみせよ」


心臓が打ち震える。どくりと血液が全身を巡る感覚に、一度だけ瞬きをする。はい、そう答えた声は熱を孕んでいた。

乱世はとうの昔に終わった。今この世において、この方に命を捧げられる局面などありはしない。それは分かり切ったことであるし、無論元就様だって承知していることだろう。言われずとも、嫌という程に分かっている。
しかし、そのようなことは問題ではないのだ。元就様の傍に在ろうとした生を他ならぬ元就様に肯定され、これからもそう在ることを許された。それだけで充分なのだ。それ以上に尊き事実が、この世に存在するだろうか?
心臓から巡る血は指先にまで届き、仄かな熱を点らせる。白銀の海は煌めき、水面の向こうに垣間覗くのは荘厳なる日輪の姿。神なき生は終わったのだと、私の身体が今一度産声を上げたように。
指先が暖かく、喉元が熱い。目頭が熱を持ち、溢れかけた感情の徴をぐっと抑え込んだ。

代わりに、幾度も胸に刻んだ言葉を口に乗せる。





「……何時までも、貴方のお傍に」





白銀の海は溶け、長い永い冬は終わる。



そして私は今一度、ただ一人のかみさまに救われた。







20140510


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