※現パロ



 水曜日、週の半ば。今週末に期限の迫った課題を終わらせたサイはそれを提出し、荷物を取りに実習室に戻った。課題を提出する前に色々寄り道して、その後も図書館に寄ったおかげで、長い時間荷物を放置してしまった。盗られて困るようなものは置いていないけれど、とドアを開けて置きっぱなしの荷物に手を触れた時、目の端に何かが映ってそちらに顔を向けた。何も描かれていない真っ白のクロッキー帳。それだけ見れば、今週末の課題の途中かとも思えたけれど、その隣には薄く下書きされたボードと硯が置いてあった。元々染みついた絵具の匂いに紛れて、新しい墨の匂いがした。近寄ってみると、作業を途中で止めて放置しているのか、せっかくの墨がほとんど乾いてしまっていた。近くに鞄らしきものもある。サイが実習室を離れている間に誰かが作業を始めていたらしい。時計に目をやればもう随分な時間だった。誰もいないならそのまま実習室の鍵を締めて帰ろうと思っていたけれど、誰かいるのでは勝手に締めてしまうわけにもいかない。気にせず帰ってしまおうかとボードに背を向けようとした時、その下書きに目を奪われた。この絵が誰のものなのか、分かった途端、サイの中でこのまま帰るという選択肢は消えてしまった。
 彼が実習棟にいるとしたら、おそらく休憩スペースにいるのだろう。蛍光灯に照らされた廊下を歩きながら、彼の絵を思い浮かべた。初めて彼の絵を見た時から、気になっていた。とても繊細な絵を描く男だ。そして決まって抽象画だ。描いている様を見たことはない。いつも展示会の絵を見るだけだ。コースが違うわけでもないのに、本人を見かけたことはなかった。知っているのは彼の名前だけ。苗字も変わっているけれど、それより下の名前が変わっていて。

「―――ああ、制作で―――しばらく――――」

 角を曲がった先で人の声が聞こえ、サイは息を潜めた。彼の声を聞いたことがないから、この声の主が彼なのか判断することはできない。しん、とその場が静かになる。サイがそのまま足を進め、角を曲がると、ふわりと煙草が香った。
 香りの先にはスマートフォンを操作しながら煙を吐き出すサスケの姿があった。
 サイに気づいたのか、サスケは顔を上げた。ぱちっと目が合い、サイはどうしていいか分からずぎこちない笑みを浮かべた。

「サスケくん?」
「誰だお前」
「あ、サイと言います。多分同じコース」
「ああ……水墨画ばっかり描いてる……」
「そう。で、キミはサスケくん、ですよね?」
「……そうだけど」

 突然下の名前を呼ばれたサスケは怪訝そうな表情を浮かべた。サイとしては、サスケの名前が印象的で、つい口をついて出ただけなのだけれど、サスケからしてみれば馴れ馴れしいと感じたのかもしれない。

「実習室、締めようかと思って。まだ作業するならいいんですけど」
「あー、……いや、帰る。鞄取るから待ってくれ」

 手にしていた煙草を灰皿に押しつけてサスケが立ち上がった。目線はサスケの方が少し低い。心地好い低音が耳に残って、サイはしばらくその場に立ちつくした。

「実習室、締めるんだろ?」
「えっ、あ、うん」

 通り過ぎざまに声をかけられはっと我に返り、サスケの後を追った。嗅ぎなれない煙草の香りに目を細める。初めて見たサスケの姿は彼の描く絵のように繊細で美しかった。絵を見たとき、その絵から目を反らすことができなくて、しばらく呆然としてしまった。きっとサイの感性にぴたりとはまるものだったからだ。その絵を描いた、この学校で今一番気になる相手。そんな人物と会話する機会を得られた幸運を噛みしめながら、サイは教室へと入った。
 サスケから少し遅れて教室に入ってみると、サスケは手早く片づけを始めていた。椅子に腰かけてその様子を眺めていると、ちらりとサスケから視線を受け、サイは思わず背筋を伸ばした。

「アンタがこの前の展示会に出した絵、よかった」
「……っ、ありがとう」

 思ってもみない言葉にサイは目を丸くした。サスケが自分の絵を気にしたことがあったなんて考えたこともなかった。

「水墨画もいいけど、アンタの描く日本画好きだぜ」
「そう、かな……日本画専攻しといてなんだけど、やっぱり水墨画描いてる方が落ち着くんだ。ああ、それよりボク、君の描く絵がすごく好きで。最初の展示会で君の絵を見て以来、君のことがずっと気になってたんだ」
「そうなのか?」

 硯を触ったときに墨が手についてしまったのか、サスケは水道の蛇口をひねりながら驚いたような声をあげた。ばしゃばしゃと水が跳ねる音がしたあと、蛇口が締められ、また静かになる。振り返ったサスケははにかみながら薄く笑っていた。

「同じ学生に絵のこと言われた経験少ねえから、少し驚いた。案外見てるやつもいるもんだな」
「ボクも同じこと思ったよ。君がボクの絵見ていいと思っててくれたなんて、思いもしなかった」

 興奮気味にサイは立ち上がった。片づけを終えたサスケが荷物を手に取ってその隣へ立つ。

「どこ住んでんだ? 下宿か?」
「下宿してる。ここから結構近いよ。自転車で10分かからない」
「へえ。いいな。オレは電車通学してる」
「実家?」
「いや、同居っつーか……同棲、してて、そいつの学校とオレの学校の中間地点に部屋借りてる」

 同棲と聞いてサイは目を見開いた。左手を見るとシルバー色に輝く細い指輪があった。ちくりと痛む心臓に首を傾げて、胸を押さえた。けれどすぐに気のせいだろうとサスケの方に顔を向ける。

「すごいね、学生で同棲なんてさ。いつから?」
「同棲は大学入ってから。付き合い始めたのは高校の頃だ」

 知り得ないサスケの高校時代に思いを馳せた。彼は一体いつから絵を描いていたのか。その絵に、名前も顔も知らないサスケの恋人は、どれくらいの影響を持っているのか。どんな環境が彼の感性を作って、あの繊細な絵を描くことができるようになったのか。知りたいことがあふれそうになる。

「ねえ、サスケくん」
「『くん』はつけなくていい。なんだ?」
「あ、はい。あの、連絡先、教えてもらってもいいかな」

 突然の申し出にサスケはぱちくりとまばたきをしたが、すぐに薄く笑みを浮かべて携帯を取り出した。サイも同じように携帯を取り出して、操作をする。

「君を見かけたら、声をかけてもいい?」
「そうしてくれ」

 笑いを含んだ声音でサスケが答える。最初に顔を見た印象とはまた違って、案外気さくな性格らしい。表情の少ないポーカーフェイスかと思いきや、思った以上に表情が変わる。
 強く自分の心を揺さぶる絵を描く、そんなサスケのことをもっと知りたい。どうして、こうやって実際に顔を見るまでこの欲求が生まれなかったのが不思議でならない。

「君の絵、本当に好きなんだ」
「もう聞いた。……ありがとな。オレもサイの絵好きだぜ」
「……ありがとう」

 『好き』の言葉に心臓が跳ねる。サイ自身も口にした言葉であるにも関わらず。どこかおかしくなってしまったのだろうか。自転車にまたがったサイは、向かう方向の違うサスケに惜しみながらも別れを告げ、ペダルを漕ぎ始めた。珍しく気分が高揚している。きっと憧れていたサスケと話すことができたからに違いない。けれど、それだけでこんなに鼓動が激しくなるものだろうか。サイは医学書でも読めば原因が分かるだろうか、そんなことを考えながら、自身の部屋まで自転車を走らせた。



好きの意味


120423

「#エロ」のBL小説を読む
BL小説 BLove
- ナノ -