その部屋は、以前とは随分様変わりしていた。以前は足の踏み場もないほど物に溢れ、生活スペースが完全に消失していた。床が見えないどころの話ではない。何かを踏まないようにと歩くことは不可能で色々な物を踏みつけながらの移動が当たり前だった。しかし、今は別の意味で生活スペースが見当たらない。まるでモデルルームのように、生活感のない部屋だった。申し訳程度に置かれた家具しかない。こんな部屋では生活をすることは到底できない。冷蔵庫を開けてみても中にはほとんど何も入っておらず、辛うじて飲み物がいくつか見えるだけ。食器棚に至っては何もない、空の状態だった。
 よくない傾向だ。前にも似たようなことがあった。落ち着いたと思いきや、大人しくなった時ほど危ないのだと学んだのはいつのことだっただろうか。
 しばらく部屋を眺めているとさあさあと水の音が聞こえているのに気付いた。鍵が開いていたことだけでは家にいると断定はできなかったけれど、どうやらこの家のどこかにはいるらしい。水の音の離れ具合からして、風呂場。嫌な予感がしなくもない。風呂場へと足を進めながら気配を探ってみるが、うまく捉えることができない。存在は確認できても、どのような状態なのか把握できない。
 扉一枚隔てた先、さあさあとシャワーから流れ出る水の音の中に、おそらくサスケはいるのだろう。ここまで近づいても血の匂いも赤色も見えはしないから、最悪のパターンではないようだ。ほ、と息をついてドアを開けた。
 シャワーから降り注いでいる水滴はすべてバスタブの中へ飛び込んでいた。長い間出しっぱなしにしていたのかバスタブからは水が溢れている。浴室内に目的の人物がいないことに戸惑いつつも足を踏み入れると、バスタブの中に沈む人影を見つけて心臓が跳ねた。慌ててバスタブの中に腕を入れる。ひやりと冷たい水に身体を震わせながらも中で沈むサスケの腕を掴んだ。ぱちりとサスケが目を見開いた。水中のサスケと目が合い、一瞬の静寂が訪れる。そのまま腕を引き上げると、サスケは抵抗らしい抵抗を見せず水中から顔を出した。

「死体みたいだったぜ」
「……死体なら浮かんでるんじゃね」
「一日やそこらで腐敗ガスは発生しねーだろ。知らねェけど」

 掴んだ腕は酷く冷たい。シャワーのコックを捻って水を止める。サスケの咎めるような視線に眉を寄せた。

「心配しすぎじゃねえのか。風呂くらい好きに入らせろよ」
「お前にゃ前科があるからな。暇があれば自殺未遂繰り返しやがって。趣味か、趣味なのか」
「また、昔の話を」

 煩わしそうな顔をしたサスケは頭を振って髪から滴る水を飛ばし、顔に張り付いた髪を掻き上げた。サスケの飛ばした水滴が顔に散って、それを拭っているとバスタブの縁に顎を乗せたサスケから上目遣いで見上げられる。
 サスケが自殺未遂を繰り返していたのは、確かにサスケの言うように昔の話だ。とは言っても、ここ一年ほど大人しいだけで。一年前だ。一年前、荒れた生活をしていたサスケが突然その凶暴さを消失させたかと思うと、自殺を図った。正直に言う。サスケが自殺を図るのは初めてのことではなかったから、今回も本気ではないだろうと思っていた。自傷の延長線上にある行為にすぎないと、サスケに気を配ることを怠っていた。方法は様々。睡眠薬を大量に服用したり、手首を切ってみたり。首を吊ったことはない。問えば、苦しいのは嫌だと笑うサスケだった。どの方法を取るにしても、多少の苦しみは伴うものだとは思うのだけれど。とにもかくにも、サスケの自殺ごっこに、適当に付き合っているつもりだった。サスケには、本気で死ぬ気はないと、思っていた。
 あの時のことは思い出すだけで肝が冷える。バスタブの中に満たされた真っ赤な湯。その赤い湯が溢れ浴室のタイルに彩りを加えて、浴室中に鉄の匂いが充満していた。色のないサスケの横顔。赤色の元を辿ると、今までに見たこともない深い深い切り傷があった。深い。骨が露出していた。あわよくば手首を落とすつもりで切ったとしか思えない傷。後から聞いた話によれば、傷は手首の骨にまで達しており、動脈、腱、神経は完全に切断されていたらしい。使用されたのはごく普通のクナイだったことを踏まえると、千鳥を使うことなく手首にあてがい思い切り刃を引いたと考えられる。発見したのが早かったおかげで一命をとりとめたけれど、あと数分発見が遅れ、治療することができなければ、間違いなくサスケの自殺は成功していただろう。

 掴んだサスケの手首をじっと見つめる。そこには一年前の傷痕が未だ根強く残っていた。切断された神経や腱は、サスケの高い技術のおかげで切断面が綺麗だったためになんとか縫合することができた。不完全ではあるが、経絡系も戻ってきている。しかし、だ。一度腱を断ち切った代償は大きかった。傷が完治したのは3ヶ月後のことだったけれど、リハビリには相当な時間を要した。そして今に至るまで、リハビリは続けられたが、大きな傷を負った左手の反応は、右手に比べてわずかに遅い。忍としては致命的と言えば致命的だった。

「なんだ、まだ気になるのか」

 手首の傷痕を見つめられ、サスケはにやりと笑った。その表情からは、何を考えているのか上手く読み取ることができない。少なくとも今、死のうと思っているのではないことは確かではあるのだけれど。
 首を振ってサスケに応えると、サスケはどうでもよさげに鼻を鳴らした。

「……今度は溺死でも狙うつもりだったか?」

 その問いに、サスケの瞳が揺らめく。が、すぐに強い視線が飛ばされた。

「水死体は好きじゃねえな」
「そうかい」

 溺死はお気に召さないらしい。ばしゃんと水を跳ねさせてサスケが立ち上がった。白い身体が眼前に晒される。その身体には至るところに痛々しい傷痕があった。自ら付けたものだけではない。今までサスケが生きて、戦って受けた傷ばかりだ。自ら付けた傷は別として、身体に散る傷痕は美しいもののように思えた。

「溺れるのは苦しいだろうしな」
「さっきだって、息できなかっただろ」
「水の中でも呼吸ができるようになろうと思って」

 白の身体を飾る傷痕をなぞるように水滴が流れ落ちていく。
 意図を図りかねて視線を投げかけると、サスケはふふんと微笑をこぼした。

「オレが溺れたら、助けに来るだろ?」

 サスケの冷たい指が頬に触れた。その手を掴んで、ぎゅっと握る。人間らしい温度を取り戻すように温もりを分けようとするけれど、なかなか温まってくれない。

「必ず行く。死なせねーよ」

 サスケが死ぬかもしれないと思って、地面が揺らぐ想いがしたから。一度失って、また手に入れて。そこで一瞬、気を抜いてしまった時だ。また失いかけた。二度と触れることのできないところへ行ってしまう、その恐怖を忘れたわけではなかったのに。だから、次は目を離さない。手も、伸ばしたままで、いつだって掴めるように。

「……シカマルが来るまで、息ができないと苦しいだろ。だから、練習してた」

 相変わらず、何を考えているのか分かりはしないけれど。頼むから筋道立てて話してくれと、何度言ったことか。それでもサスケの発言意図が不明なことは多々あって。ついでに言うと行動も理解できないことも多くて。そんなところも愛おしいと思っていたのだけれど、この難しい面がマイナス方面に働き出してからは困ったものだった。なんたって対処の仕様がない。
 サスケがその場から動く素振りを見せないので浴室で膝をついたまま、サスケの手を握って温めつつ、サスケを見上げる。首を傾げたサスケは表情を綻ばせた。

「別に水の中じゃなくてもよかったんだけどな。……いつでも、溺れてるようなモンだから」

 そう言うなら、ややこしい真似は止めて欲しかった。無駄に身体を冷やすこともなかったのだし。そして、やっぱり後半部分の意味はよく分からないけれど。

「溺れてるって?」

 眉を下げて笑ったサスケがバスタブから足を引き上げ、浴室に降りた。サスケの足にまとわりついた水が飛び跳ね服を濡らす。立ち上がろうと腰を上げた時、急に視界が影って顔を上げると、サスケに抱きつかれた。勢い余り、ドタンと音を立てて腰を打ち付ける。冷ややかな頬がひたりと触れて、耳元で小さな溜息が聞こえた。

「シカマルの優しさに溺れてる」

 温度のない身体に対して、熱のある声が鼓膜を揺らした。続けて、好きだと囁かれる。背中に手を回して抱きしめると、サスケの手が背中に回って服を掴んだ。

「生きるから離さないで」

 泣き声のように聞こえた。離すつもりなんてないのに。一年前のことを思い出す。ほんの少しだけ、自分から興味が反れたと思ったのだろうか。慢心が、サスケにあの行動を起こさせたのだろうか。

「離さねーよ。……一緒に溺れたっていい」

 言い聞かせるように、サスケの耳に吹き込む。笑っているのか泣いているのか、耳元で喉が震えた。



優しさで溺死


120108


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