小野塚小町は煙管を好む。
といっても、境界の外なんかでよくいうニコチン中毒だとかであるのとは違う。そもそも彼女が煙管を吸うのだって、休憩中に少しだけ、気分転換の一つとしてだ。
仕事の合間の一杯。ゆらゆら揺れる渡し船の上で、船首に背を預けながら煙管に火をつけて、口にくわえて、息を吸って、吐いて。ふっと空に浮いて消える、白くたなびく一筋の細い煙を見上げ。
三途の川で死者の渡しをやっている間の中で、何も考えずにいられる時間は大事だという持論のもとに、小町は一日に三回、いや四回?それとも五回くらいだったかな。

ともかく、日に何度か。小町はキセルをくわえて一服するのだ。

例の厳しい上司には、ばれてはいるだろう。本数は多くないとはいえ、煙で自分を燻しているようなもの。吸い始めの頃などは、遠くの机からじっと見つめられて、これみよがしにデスクの上に消臭スプレーやら花の匂いがする香やら、いくつも置かれたものだった。

ある程度、吸わなくなっても煙管の匂いが小町に染み付くようになった頃には、彼女も諦めたのか別の匂いで紛らそうとはしなくなったけれど。

その代わりといってはなんだが、今度は煙管や煙草の草がどんなに身体に悪いか、寝タバコが原因で地獄に落ちた死者の話だとか、資料片手にネチネチと細かく、そりゃもう細かく、力説されるようになったのだが。放っておきたいのかやめさせたいのか、未だに上司命令が発令されていないのが救いといえば救いだった。

「迷惑なら、言ってくれればすぐにでも止められるけどねぇ」

それとも、止めてほしくはないのか。

「いや、流石に違うかな。ありゃそういう性格じゃないよ。自惚れてんなー」

自分。

そう一人ごちて、櫂を手繰りよせる。
相変わらずのさぼり、否、休憩時間。
邪魔する者のない彼岸の川の上は、いつにもまして平和である。

「さて、今日もお仕事頑張りますかぁ」

煙管に詰めた新しい草を取って揉み潰す。指先を少しだけ黒く染めて、先刻まで煙草だったものは彼岸の風に舞って彼岸の塵の一粒に代わっていく。そうして後に残るのは、進む舟の後ろにできた小さな波だけであった。


その日。
仕事を終えて上司の執務室まで戻ってきた彼女を出迎えたのは、久しぶりに感じる再びの鋭い視線。と、清らかな花の香り。地獄の片隅に咲いてた曼珠沙華か、極楽に続く道の端に咲く蓮の花でも積んだのか、ともかく慣れない花の匂い。
不機嫌を隠そうともしない上司の視線に背中を向けて、自分の机の上にあるそれを手に取れば、彼女は静かに息を吐いた。二人しかいない部屋にその音は大きく響いて、思わず背筋がしゃんと伸びる。

「小町さん……何も言わずとも、分かってますよね?」
「あ、あはは……いやぁ、なんのことだか……」
「………むむ」
「あっ待って待って、……きゃん!」
「反省、しなさい!」

ぶしゅう、と。思いっきり顔に吹きかけられたそれ。
冥界でも御用達の、消臭剤のようなもの。
もとは血の池地獄の担当者が血の匂いが服に染みついて嫌だと駄々……ごほん、上層部に陳情をしたおかげで支給されるようになった、どんなにこびりついた血生臭さも一発で極楽に咲く花の匂いに替えてしまうというなんとも眉唾物な一品だ。
ただ、こんな眉唾物でも上の者が選んだだけはあって、効果だけは保障されている。現に今、かけられたそばから小町の服についていた煙草臭さはすっかり消えさっていた。
たっぷりと花の匂いを振りかけて、満足したのか上司はふんと一仕事終えた顔である。
なんなのだ、いったいぜんたい。
べたべたになってしまった服の胸元をつまんでみる。
霧状とはいえ液体を大量に浴びたそこは、一際花の匂いが強いように思えた。小町はむせかえるような花の匂いに顔をしかめる。すぐ乾いてしまうだろうけど、流石に量が多かったのか、しばらく消えそうにないくらいしっかりと匂いがついている。

「うわぁー……すっごい、フローラルですねー……」
「同じ草でも、煙草よりはよほど健全とは思わない?」

どこか誇らしそうにする上司はそれでもまだ匂いが気になるのか、部屋中に消臭剤をふりまいている。
ここは極楽の受付だったろうかと小町が思ってしまうくらいに花の香りが室内に立ち込めてようやく、消臭剤はその役目を終えた。広く撒かれた分、直接浴びせかけられた先ほどのようにむせかえる程ではないが、不健康で不健全な煙を好む小町にとってはなんとなく、居心地の悪くなる香りだ。背中がむずむず、鼻もむずむず。ふぇっくしょい、飛び出たくしゃみに怪訝そうな顔をされる。
どうやら彼女にとっては、この香りはそう悪くないものであるらしい。花を好む彼女らしいと思いはすれど、なんだか複雑な心境だ。
しかし一体どうしてまあ、こんなことになったのやら。余程草の匂いが障ったのだろうか。花の匂いが染み付いているのでは、煙管などくわえたら一発で分かりそうなもの。当分休憩時の一服にはありつけそうにないかなと小町はがっくり肩を落とす。

「………やれやれ、折角新しい草を河童から貰えたのに、ついてない」

花の匂いに包まれて、ついそんなぼやきが口をつく。運の良いことに、上司様には今のぼやきは聞こえていなかったようだ。聞こえていたとしたらその後が怖い。さっき休憩したあの時にもっと吸っておけばよかったと思いつつ、服の上から懐に仕舞った煙管一式をそっと撫でる。これが見つかったらそれこそ一大事だ。けして見つからないようにしようと決意を固めて、ふと小町は違和感に気づく。
主に上司が書類仕事をするこの部屋で、小町が今まで煙管を吸ったことはない。
なのになぜ、部屋に煙管の煙の匂いが漂っていると思ったのだろう。
自分に移った煙の残り香?いくら休憩時に御用達とはいえど、そんなに残っているはずはないだろう。ならばなぜ、彼女は部屋中に消臭剤を撒いたのか?
疑問を口に出す前に、壁にかかった大きな時計が刻を告げる。

「ありゃ、休憩終了、ですか」
「小町」
「なんですなんです、これから労働しに行こうって死神を捕まえて」
「その前に渡すもの、ありますよねぇ?」

にっこり。菩薩の笑みでもってして、判決を下す閻魔のように。
差し出された掌は、まあ、そういうわけだろう。
苦し紛れに浮かべた小町の引きつった笑みなど意にも介さず。
観念した彼女は泣く泣く河童の特製煙草と別れを告げることになったのである。
小野塚小町の知る話は、そこまで。


だから、彼女は知らないままだ。
四季映姫の部屋に己の煙草の香りが漂っていると感じた理由。
いつもと違う煙草の匂いをさせた小町に、彼女が花の香りを吹きつけた理由。

没収した草を見てどこかほっとした顔をする四季と、机の片隅に置かれた香炉のその中味。四季がこっそりと小町の煙草と同じものを探し出して、香を焚くように同じ香りだけを楽しんでいた、なんて。そんな秘密は、誰も知らない。
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