「ね、ね。約束してね。ほんとのほんとよ、ぜったいよ」

泣きそうな声で誰かがいう。それは小さなちいさな女の子の声で、大事にしなきゃって思う声だ。俺はその声になんて答えたんだろう。

真っ赤な夕日に照らされた川沿い。
足元まで赤く染まったオレンジ色。

自分のうしろで泣いている声。俺よりずっと軽いその体を引っ張るように手を引いた。


何度も何度も、後ろから聞こえてくる声は耳に届いていたけど、俺は無視して前を見ていた。

繋いだ手がすごく熱くて、でも離さないようにぎゅうと握って。
オレンジ色に染まった道をどこまでも。


覚えているのは、それだけだ。
あの日俺が繋いだ手の先で、泣いていたあの子に。
俺はどんな言葉を返したんだろう。



――――――――……………。


「あなたを見ていても、いい?」

「あなたのそばにいても、いい?」

「手を繋いでも、いい?」

「キスをしても、いい?」

「ねえ、私達、付き合っているんだよね?」


はい。はい。はい。はい。……え、なんだって?

最低!の一言と頬へのビンタを置き土産にして、カワイイあの子が去っていく。
俺は何をするでもなく、赤く腫れて痛みを訴える頬を押さえたままそれを見送った。
こうなった原因はハッキリしている。俺の気がないせいなのだ。

その気がないから、迷惑だとも思わないから、なんでもいいから。
肯定ばかりを繰り返し、だけど肝心なところは否定する。
じわじわと分かったことではあるが、どうやら俺はそういう性分らしかった。

女の子はかわいい。
かわいい子に慕われるのはやぶさかではないし、触れたり触れられると嬉しい。
そう思う反面、決してこの子を好きにはならないんだろう、と思う自分がいる。
そしていつ、それを伝えようかと迷う。こんな悪い男に引っかかっちゃいけない、さっさと逃げた方が賢明だと。
でも言葉にする前に、向こうの限界が来るらしい。

今年に入って三人目の恋人(彼女視点では)がばたばたと立ち去った教室のドアを眺めて、俺は机に突っ伏した。

「うーわ。修羅場発見しちゃったよ。元気?元気してるー?」
「これで元気に見えてるなら保健室行ってこい。そんで氷もらってこい」
「あっはっは、ちょー腫れてるじゃん。恨まれたねえ、うける」
「いっ、あーもう、つつくなよ……いてぇよ」

にょきり、と机の下から生えてきたみたいに出てくる顔。
明るい茶髪をハーフアップにしている少女は、にやありと意地悪そうな顔で笑っている。

「や、だって笑うしかないじゃん。ちょーっと掃除して戻ってきたら修羅場よ?私30分も離れてないのよ?なのにいつの間にかフラれて殴られてんの。その当人ももういないし。手も足もいろいろ速すぎでしょうよ、あの元カノ」

ぎぎ、と椅子の足が引きずられる音がして、あいつは隣の席に座る。
隣の席は確か卓球部の男だったな、と机の横に残されたシューズの袋を見てなんとなく思った。机の中に手を入れて、なにかを見つけたお前は一瞬驚いた顔をするけど、すぐにそれは笑みに変わる。

「わっ、見て、すごい。ここの席の人、卓球部なの?ピンポン玉、机の中に入れてあったよ」

伸びきったカーディガンの裾に隠れた手の中に、オレンジ色の小さな球体が収まっている。
ピンクに光る爪の色が、そのオレンジに浮いて見えた。

「大事な部活道具なんだろ。つうかさあ、あんまし人の机いじるなよ。迷惑だろ」
「あー。はいはい、そですねー」

なぜそれが机の中にあったのか、理由を知っている。隣の席の卓球部が、凹んだ球を直す為に持ってきたのだ。
熱で中の空気を膨らませて、形を直すとか、なんとか。隣だからってなんでか俺にそう語っていた。

熱膨張の原理。むかぁし、理科で習ったやつ。
お湯で空気を温めて、風船の形が変わる実験。楽しかった記憶はあっても、なんでそうなるかは今も朧にしかわかってない。小学生というのはそういうものだ。勉強は面倒で、実験は楽しい。いつも実験だけしてくれればいいのに、先生はケチだなんだとそう思っていた。今は子供じみた理屈だと思う。

やつも覚えているんだろうか。そう思って理科の実験について話題を振れば、

「へ?んー、あーあー、そんな授業もあったなー、みたいな。変な金属とか綿とか燃やすのの何がそんなに楽しいんだろうなーとは思ってたかも。男子ってそういうの好きだよねー」

女子と男子の間に横たわる深い溝ってのは、こういう感じで出来上がっていくのかもしれない。
どちらかといえば家庭科の調理実習が好きだったよ。呑気な声で言うけれど、俺からしたらあっちの方が面倒だった。三角巾にエプロンつけて、慣れない野菜の皮むきに、鍋の火加減を見続ける。失敗すればその日の昼はそれを食べるしかなくなるし。好きな給食が出る時に嫌いな魚を食べなきゃいけないし。
騒ぐ俺達は同じ班の女子によく怒られてたし。
……どっちもどっち、なんて言葉が思い浮かんだのは仕方ない。

「でさあ、今度は何週間?」
ピンポン玉をカツカツと机に反射させて遊びながらあいつが聞く。
あの子に告白されたのは、何か月、何週間、何日前だったっけ。
教室の黒板脇、白くて大きなカレンダー。誰だかの名言が踊るそれの数字を頭の中で遡る。
今月、先月、先々月……は、夏休みだから、それよりも前。

「たぶん………夏前、からだな」
「へえ、わりと長く続いてたんだ。なんで?夏休みだから?」
「夏休みなのが関係あるのか……?まあ、学校以外であんまり会わなかったしそれもあるかもな」
「あのさー、夏休みにデートしなくてどうす……ん?あれ?それおかしくない?夏休み、何度も遊びに誘ったよね?」
「おう。んでついてったな。海に山に、近所の祭にあっちこっち。最終日まで」
「あほか!!」

怒声と一緒に、ピンポン玉を投げつけられた。痛みはないが、何かが当たった感覚がして。
その数秒後には転げて床に反射したピンポン玉の甲高い音が響いていた。
投げつけてきたあいつはといえば、呆れたような、頭痛に耐えるような表情で、半目になってこちらを見ている。

「うーーーん、ほんとわかんないわ。なんであんたみたいなのがモテてるの」
「本当にな」
心から同意した。

「……………」
ら、なぜか更に視線が冷たくなったのはどうしてか。変なこと言ったかな?
呆れ切った溜め息ひとつ、俺と同じように机へ身体を倒して伸びる。
両腕の間に顔を隠して、髪のカーテンと腕のシャッターの間から、くぐもった声が聞こえた。

「……もうさぁ、いい加減、兄気取りもやめればいいのに。同い年で、家が隣で、幼馴染で、学校もクラスもずっと一緒でさ。いつも私の隣か前で、なんでも分かってるって顔して。そのくせ、彼女作るのに結局私優先するし。なんなの、あんた。馬鹿でしょ」
「止めるわけにはいかないさ。お前の母さんからよろしくって言われてるんだ」

「お前の面倒みるのにも、もう慣れた。学校もクラスも同じなのはただ運が良かっただけで、あとは結局、俺が流されやすいだけなんだよ。しかし、昔はお兄ちゃんお兄ちゃんって、言ってくれてたのに冷たいもんだ」

「あんたと私、一ヶ月しか違わないのになに言ってるの。それも小学校前にはもう言わなくなってたよ」
「一ヶ月でも、お兄ちゃんと呼ばれた一人っ子の喜びはすさまじかったんだぞ」
「その後、リアルお兄ちゃんになったくせに何を」
「でも俺の妹も最近、お前みたくめっきり反抗期で……まさか、お前のが移ったのか?」
「もしかして、みたいな顔すんのやめてってば。妹ちゃんとはよく遊ぶけどそういうのないし。むしろあんたの対応が悪いのよ、どーせ」
「どうせってなんだ……」


教室に夕日の満ちる放課後、時計の針は進んでいく。
窓の外には部活をしている運動部。そろそろ練習も終わりらしく、輪になって何かを話していた。聞こえそうで聞こえない会話の中に、時折監督の言葉に反応してか大きな了解の声が聞こえる。
放課後の学校にチャイムが響く。もう誰も戻ってこない教室に、どこか遠くで誰かの笑いあう声が聞こえた下校時刻、5分過ぎ。
椅子を引いて、隣の席から立ちあがる音。鞄を肩にかけた音。そして頭の上から落ちる声。

「…………かえる?」
「帰る」

机の横に置いていた鞄を担ぐ。荷物の少ない鞄は制服に当たって軽い音を立てた。
教室、廊下、階段、下駄箱。
校庭で活動するサッカー部の練習を横目に、校門に。
黄色と赤い落ち葉の広がるいつもの通学路。坂道を降りていく二人の影は夕焼け色だ。

「うわー、綺麗になってんねー」
「銀杏くさい、とか朝は言ってなかったか」
「朝は朝!今は今!というよりあんたムードを気にしなさいよ、だからフラれるんだっての」
「いて」
軽くはたかれた頭をおお痛い、と大げさに押さえて痛がる。
それでも先を進む背中は振り返らない。まあ、予想はしていた。

「あんまり遠くには、行くなよな」

ついていくけど。呟いた言葉は木枯らしに消えて、あいつには届かない。届いていないと、いい。落葉の上で夕日に染まる彼女は振り返り、立ち止まる俺に問いかける。

「ほーらー、そこでなに突っ立ってんの。ずっとそこに立ってるつもり?」
「あ、うん。行く行く、行きますって。っとに、歩くの速くなったよなぁ……」
「はぁ?あんたが立ち止まって遅いだけでしょうに、私のせいにしないでよ」
「し、辛辣……心的ダメージがひどいので賠償を要求したい。とりあえずコンビニへいこう」
「はいはい、まぁ、コンビニはさんせーい。寒くなってきたもんねー」


走って追いつく、あいつの隣。
いつのまにか頬を叩かれた痛みも消えていて、人間の身体は丈夫だと思う。
今日も、明日も、明後日も、きっと俺は鈍いまま。そのうちにまた彼女が出来て、今日みたいな日を繰り返す。

それでもいいさ。
二人の距離は縮まらないけど。離れることもないのなら。
それでもいいさと、俺は笑う。











手を繋ぐ記憶。
手を繋いだ記憶。


いつだろう、小さな俺とあいつが手を繋いで、夕日の中を歩く光景。
掌に残る熱だけは、なぜか今でも覚えている。

なんでだか、転んだあいつの手を引いて、夕焼け空の下、帰り道を歩いていた時のこと。
あいつはお気に入りのひよこのぬいぐるみを抱いて、擦りむいた膝を引きずっていた。


「ほら、そんなに泣いてたら目玉がとけるって」
「うぇ、えっ、やだぁ……!とけるの、やだぁ!!」
「だから泣くなってば……はやく帰って、母さんになおしてもらおう?」
「ん、ね、ぴいちゃん、なおる……?」
「なおる、なおる。うちの母さんは縫うの、得意だし。だから泣くの、ちょっと我慢、な?」
「ん、んーーー……わかった、おにいちゃん」
「よしよし、いいこだな」
「ね、おにいちゃん」
「ああ、なんだ?」

確かそう、その頃に仲良くしていた友達が引っ越して、それであいつは落ち込んでいた。
励ます為に公園に連れ出して、でも遊んでいるうちに怪我をさせてしまったことを、俺は子供ながらに責任を感じていたのだ。だから何を言われても、聞いてやろうと思ってた。
ぐずる彼女のことだから、お菓子が欲しいとかそんなことだと思ってたのだ。


「ねえ、やくそくしてね。」
「なに?」
「ずっとわたしの、おにいちゃんでいてね。どっか、いっちゃわないでね……」
「………おー。いかないよ」
「ほんと、に?ほんとにほんと?」
「ほんとほんと、やくそくする」

「やくそく、だよ……!」

振り返ったら、夕日に染まる君がいて。
真っ赤にはれた目をして、頬に泥もついているのに、嬉しそうに笑うから。
絶対この手を離さないようにしよう。
彼女が見える場所にいつづけよう。

そう誓った、いつかの帰り道。
忘れてしまったけど覚えている、いつかのきみとのやくそく。
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