甘く暖かな水の底で

――ぴちょん、ぴちょん。

ぽたぽたと氷柱から雫が垂れ落ちる。
静かで冷えきった洞窟の中に、その音だけが響いている。

「退屈ねぇ……」

そう一人呟いたのは洞窟の主。泉から半身を乗り出して頬杖をついている。泉にぷかりと浮かぶ下半身は、魚のソレ。
浅黒い肌に緑の長髪、そして魚の下半身―敦賀の真名姫、かつては忘我流水洞の一角で鬼として京からの刺客を相手にしていた彼女は、朱点打倒を掲げる一族によって鬼の呪縛から開放され天界に戻ってきた。
その時のことを思い出して、いまだ戒めの感触が残る首に手をやる。

あの子がくれた首輪の力はもうない。それは分かっているけれど。それでも、当分忘れることは出来そうにない。

あの力が溢れる感覚。恐いものなどなかった。全てが憎くてたまらなかった。人間に自分やあの子がされたことへの仕返しが出来るのが嬉しくて、あの子を守れるならと喜んでこの身を差し出した。

「それでも、負けちゃったけどね」
最後に自分の下に来た彼らを思い出して苦笑する。あの子と同じ運命を背負った彼ら。その顔ぶれは何度も変わりはしたけれど、私に挑んでくるその強い瞳の色だけは変わらなかった。自分たちがどんな運命の渦に巻き込まれているか知っているだろうに、真っ直ぐに私を倒そうと向かってきた。
その目にほだされた訳ではないけど、彼らならあの子を助けてくれるんじゃないかと思ったのだ。人魚の浅知恵だけど。

「……あら、珍しい。何かご用?」
不意に、ひやりとした風を感じて顔を上げる。
あの子に自主的に従っていた自分のような神は天界に戻ってきても、他の神々からは遠巻きに見られる。それが憎しみの目であればまだマシだ。一部の神々なんて苦しそうな目で見てくる。その目が真名姫は苦手だ。
――別に、アンタたちが悪いんじゃないのに。
自分で選んでそうなった、ただそれだけ。
でも、目の前の神はどうなのだろう。

「何、大したことではない。偶々近くまで来たのでな」
寄ってみたのよ、と薄く笑う彼は。

「そう。ま、暇だったし、歓迎するわよ。氷ノ皇子サマ」
あの子に沢山の戦う力を教えた育ての父。私が流されてあの子に出会ったときにはもう彼は冷たい洞窟の奥に潜んでいて、だから私は彼に会ったことはなかった。彼が流水洞を出た後には、関わりすらなくなった。

「こんな薄暗いところによく来るわねぇ、アナタも」
「ははは、何、慣れた場所だ。むしろ元いた場所よりもこちらの方が心地よいさ」
「そう。何か良いことでもあった?」
相手の弾んだ声色は、いつも穏やかな彼にしては珍しい。

「良いこと……そうだな、良いことだ。また一つ、新たな命が生まれたのだから」
「ああ、あの子たち?」
「小さな、そしてとても暖かな命だ。こうして再び赤子を抱く日が来ようとは私も思っていなかったよ。……こうしていると、あの子を思い出す」
「その子、もしかしなくてもアナタの子なのね。とてもよく似ているわ」
「そうだろうか、私にはそうは見えぬのだが…むしろ、母親似だと思うぞ。とても気丈な、頼もしそうな娘であったよ」
「ふうん」

氷ノ皇子が抱えている小さな赤子は、真名姫を物珍しそうに丸い目を見開いてじっと見つめ、今にも伸ばしそうなその手を氷ノ皇子は包みこむように握っている。その姿がまるで父親のように見えて、そういえば彼は最初から父親役だったっけと思いなおした。

「いいじゃない、アナタ今すごく、幸せそうよ」
「幸せか、……この身に宿る暖かさがそうだというのなら、私は幸せなのかもしれないな。なぁ、敦賀真名姫よ、お前も幸せなのだろうな」
「……さあね、どうかしら。色々ありすぎてよくわからないわ」
「それでも、何もなかったわけではないのだろう。そうだな、例えばあの男の氏神、」
「………」
「お主が天に戻ってきて、一番初めに会いに来たというあの氏神は一族の者だったのだろう?とても嬉しそうな顔をしていたのだと、イツ花から聞かされたぞ」
「こりない子供だったわ。何度も私のところに来て、終いには子供まで一緒につれて、いつの間にか死んじゃってて。知ってるかしら?彼、私のことを倒すまで、ずっと私のことを諦めないって話してたそうよ。……自分が先に死んじゃったくせに」

解放されて戻ってきてからすぐに交神の儀で会った彼の孫という青年は、彼にそっくりな青髪と緑の目をして、笑いながら話していた。青年が彼の父から聞いた話で、さらにその父からずっと聞かされていた話だと前置いて。
『俺は会ったことがない爺ちゃんの話だったけど、まるで神様に恋してるみたいだなって親父とよく話してた。ずっと気になってたけど、本当にそうだったのかもしれないな』

俺もきっとあと半年くらい後には死んでしまうんだろうと言って笑っていた彼は、その三ヶ月後に笑って息を引き取った。氏神にはならなかった。なれなかっただけかもしれないが、とにかく一人分の血と奥義を次世代に引き継いで青年はこの世を去った。
ただ数回会っただけの人だったけれど、真名姫はなんとなく彼の為に子守唄を歌ってあげた。それが寂しい、という気持ちだったのかもしれない。

その後で真名姫の元に来た当の本人は、その話を聞いて穏やかに微笑んだ。顔は変わらないのに、いつも挑戦的で好戦的な笑みを浮かべていたあの頃よりもずっと年月を感じさせる優しい顔をして。

『子に恵まれた、沢山の鬼を葬った……そして、こうしてあんたとまた会えた。俺はとても幸せ者だよ。逝っちまったあいつらにも自慢できるくらいにな』

それだけよ、と彼はまた私の前から姿を消した。どうやら彼ら一族の氏神たちが集まる場があるらしく、御先祖様に顔合わせしなきゃならねえんだと苦笑していた。今まで見守ってくれてた分、彼に言うことが沢山あるらしいのだ。きっと小言ばかりだろうと言う彼はただ晴れやかに笑うばかりであった。

人間とは、なんなのだろう。死ぬと笑いたくなるように仕組まれてでもいるんだろうか?氏神となった彼も彼女も、けして神々にも鬼にも恨み言一つ言わないでただ憑き物が落ちたように笑うばかりなのが、真名姫には不思議で仕方がない。
戦いは辛かったろうに、こんな運命に恨み節の一つも言いたいだろうに、天にいる彼らは何も言おうとしないのだ。天から覗いていたから真名姫は彼らの終わりの時を知っている。いくら家族に囲まれていたって最後に恨み妬み、後悔を口にしていた者もいる。決して笑顔だけではなかったのに、それでも残された者も天に昇ってきた者も、皆笑顔であろうとした。

生まれゆく命、死にゆく命。
廻り巡る輪廻の輪の上、彼らはいつまでも人間であろうとしているのだ。
笑って生きろ、笑って死ね……己の屍を越えて、もっと先へ。
鬼と諸共、地獄へ向かえ。

あんたはどうなの、黄川人。
今も地獄の底にいて彼らが来るのを待っているんだろう朱鬼のことを思う。同じような焔の髪を持つ赤子の頬を撫でながら、早く昇ってくればいいのにと。

……そうしたら、アンタのこと、思いっきり笑ってあげるわよ。

途端、響く赤子の笑い声。まるで今しがた考えていたことを当てられたように思えてきて、呆気に取られる氷ノ皇子を置いて真名姫もクスクスと笑うのだった。

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