基本的に外出を禁じられているリルイ姉さんでも家族公認で外に出掛けられる機会は一応ある。主に麓の病院に大掛かりな検査をしに行く時だ。ゾルディックの屋敷の都合で検査に必要な機材の一部が置けないせいで月に一度、身体の弱い姉は何人かの執事を連れて麓の一番大きな病院に行っては頭の天辺から爪先まで隈無く異常や変化が無いかチェックされる。
だがこの検査外出には一つだけ問題があった。姉は検査が終わった後、付き添いの執事の目を掻い潜り高確率で逃亡してしまうのだ。例によって毎回夕食前には帰ってくるがあんなに身体が弱く脆い姉だ。目を離した間に何か取り返しのつかないことが起こるんじゃないかと心配で堪らない。勿論こちらも執事を増やしたり見張りを厳重にしたりと彼女の身の回りの監視を強化していくのだがそれを上回るくらい姉さんの逃亡スキルも強化されていき、最近では勤務歴の長いベテランの執事ですら彼女に逃げられてる始末だ。
だがそんな姉さんにも唯一逃げない時がある。病院の付き添いに家族の誰かを付けた時だ。流石に家族の前で堂々と逃げるのは気が引けるのか姉さんは家族の誰かが一人でも付き添っている時は普段の逃亡癖が嘘の様に大人しくなる。だからなるべく月に1回の検査の日に合わせ、家族間でスケジュールを調整して家族の誰か(主に兄弟達)が姉に付き添えるようにと配慮していた。
今日はオレが姉さんの付き添いだった。

「姉さん検査終わった?」
「終わったよー」
「……結果は?」
「相変わらずガタガタのボロボロ。改善の傾向は今のところ無し」

姉さんは長い猫っ毛の銀糸を指先で耳に掛けつつ暢気に笑った。オレはその結果報告に相槌を打ちながら姉の細い手を取る。この報告を訊いたのは初めてでは無い。前の付き添いの時も、その前の付き添いの時もこれと殆ど同じ結果を目の前にいる姉と担当医の口から訊いた。
恐ろしく脆弱で虚弱な姉の身体は、恐らく現在の医療技術じゃ治すどころか緩やかに崩れていくのを少しの間だけ抑えることくらいしか出来ない。姉のその青白い肌一枚隔てた中身は通常の人間なら寝た切り、或いは墓の中に放られても可笑しくないくらいに壊れていた。
検査に来る度に彼女の担当する医師たちは「なぜこの状態で生きているのか」と言わんばかりに目を見開き、驚愕を露にする。表立って言いはしないものの、きっと姉が伝説の暗殺一家、ゾルディック家の娘で無ければ研究対象としたいくらい稀有な例なのだろう。
少しでも身体を丈夫に、と幼少期から叩き込まれた念故なのか、その体内に流れるゾルディックの血が支えているのか、それとも彼女の持つ何かが崩壊していく身体を懸命に食い止めているのか、オレにはわからない。ただ一つだけわかることは、愛しい姉がまだこの世に地に足を着けて存在していて、オレの隣で可愛らしい笑みを浮かべていることだけだ。
オレは姉さんの手を優しく握り、そのまま少し急かすように歩き出す。出来るだけ早く、病院から出たかった。鼻につく薬品の香りと白で統一された空間、そして緩やかに迫り来る死の予感。病院に漂う生と死の狭間を彷徨っている様な独特の雰囲気は、長い時間この場にいるだけで生の側に存在する姉をそのまま向こう側へと引き摺り込んでいきそうな錯覚を起こさせる。
きっと他の人間と病院に来たって何とも思わない。ただ姉さんの曖昧で儚げな雰囲気が向こう側へとふらりと行ってしまいそうな恐怖を煽るのだ。

「このまま帰っちゃうの?」
「そうだよ。どこか行きたいところでもあるの?」
「街をちょっと散歩したいなー、って……だめかな?」

握った手をそのままに、姉は髪と同じ銀糸で彩られた長い睫毛を揺らす。睫毛が影を落とす綺麗な丸い瞳は強請るような上目遣いでこちらを見た。
姉さんを街に連れていくのは嫌だ。パドキアの街は治安や環境は悪くはないがククルーマウンテンと比べたら麓の街の空気は悪いし、人も多い分変な病原菌を貰ってこないとも限らない。姉さんの弱い身体を気遣うなら行かないことがベスト何だろう。
考えつつもちらりと姉さんに目をやれば大粒の宝石みたいな瞳と目が合う。小さな子供の様にきらきら輝く期待に満ちたその瞳はあまりにも魅力的で、オレの首を縦に振らせるには十分な威力を秘めていた。

「……少しだけだよ」

そう言えば姉さんは輝かんばかりの嬉しそうな顔をして笑った。無邪気で無垢で汚れたところが欠片も見られない真っ白な可愛らしい笑み。多分オレはこれに弱いんだろうな。なんて嬉しそうにオレの腕に抱き着いて来る姉を見て思った。




「姉さんどこか行きたいところとかあるの?」
「ないよー」
「じゃあ何で街寄りたいの?」
「用事が無くてもうろついてるだけで楽しいのが外の醍醐味でしょ」

言葉通り楽しそうに笑う姉は正直オレの理解から遠いところにある思考回路をしていた。外ってそんなに楽しい場所だろうか。オレの中の外の認識は「仕事をする場所」というのが強い。仕事で他人に会ったり、他人を欺いたり、他人を殺したりする場所。だから家と外、どちらが好きかと問われれば「家」と即答する程度に家が好きだ。家族もいるし、気が楽な場所。別にミルキみたいな引きこもりになりたい訳じゃないけれど、オレにとって外という場所はたまに行ければ満足出来てしまう場所、ぐらいの認識だ。だから隙有らば外に行きたがる姉さんの気持ちがあまり理解出来なかった。

「あ!あっちに何か人だかりが出来てる!」

行こう行こう、とオレの手を引っ張って急かす姉さん。その楽しそうな横顔を見つつ、オレは姉の背中を追い掛ける。

「見てイルミ!大道芸やってるみたい!」
「見ていきたいの?」
「駄目?」
「別にいいけど…ここからだとよく見えないから前の方行く?」
「行く!」

オレは小さな子供みたいな無邪気な笑みを浮かべる姉の手を握り、人だかりの隙間を縫って大道芸人がいる前の方へと移動していく。
姉の身体を気遣いつつも漸く人混みを抜け出し見えた景色は頬に星と雫のペイントと鼻に丸く赤い飾り、目が痛くなりそうな派手な色の衣装を纏ったピエロが十個ぐらいのボールで器用にジャグリングをしているところだった。くるくると宙を舞うボールに歓声を上げる観客達。それに混ざって姉さんも「凄いね!」なんて笑うから少しもやもやした。あれくらいならオレでも出来るのに。
ピエロはジャグリングをしていたボールを器用に全部キャッチし、ボールを全部アシスタントの女性に渡すと今度は懐からナイフを三本取り出した。何をするかと思えばそのナイフを片手にくるくると踊る様に回りながら林檎を両手と頭に装着した女性アシスタントの方へと投擲する。女性アシスタントの持つ林檎に見事突き刺さったナイフ。それにまた観客は拍手と歓声を送り、それに混ざって姉さんも拍手と笑顔をそのピエロに送っていて苛々した。
そのくらいならオレでも出来るのに。何なら心臓でも頭でも姉さんが指定するなら何処にだって寸分違わず射抜いてあげるよ。
というかもうピエロってのがヒソカを連想させてムカつく。あいつ姉さんに近づくな、ってこの間牽制したばっかなのに勝手に連れ出してたしさ。姉さんも姉さんだ、あんな見るからに怪しい気色の悪い変態に着いていくなんて。何が「映画連れてって貰ったよー」だ。映画くらいならオレが連れてくし、というか家にシアターがあるじゃないか。
そんなことを考えている合間にもピエロはまた他の芸を始める。ピエロは懐から白と赤のボーダーが入った派手なステッキを出し、それを指先でぽん、と弾いた。無機質なステッキの先端が開き、そこに一瞬にして薔薇の花が一輪現れる。再度指先で薔薇の花弁を弾けばその量はみるみる増えていき最後には花束の様になった。ピエロが薔薇の花束をステッキから抜き取りそのまま花束を宙に高く放り投げる。投げられた花達は宙にてその数を増やし、観客達の元へと緩やかに降り注いでいった。

「綺麗だね」

拍手と歓声が騒々しい中、降ってきた赤い薔薇の花を一輪手に取って姉は言った。薔薇の濃い毒々しい赤色は姉の白い肌や髪に驚くほど浮いていた。そもそも姉さんには赤い薔薇が似合わないのだ。毒々しい赤も強い香りも何一つ似合ってなどいない。

「イルミどうしたの?」

不機嫌気味なのがわかったのか姉さんが不思議そうな顔をしてオレに声を掛ける。「別に」と若干突っぱねるように返せば姉は困った様に笑ってオレの手に指先で触れる。細く壊れそうな指先がオレの手の甲を静かになぞり、そのままそっと掌を重ねた。

「そろそろ帰ろっか」

淡い桃色の唇がそう告げる。その手には先程のピエロが放った赤色の薔薇が握られていて、それが無性に気に入らなかった。




「さっきの凄かったね!私生まれて初めてピエロ見たよ」
「そう」
「何かヒソカさんに格好似てたね。そういえばヒソカさん、トランプマジックも出来たしジャグリングとかも出来るのかな?」
「……」

執事が運転する家へと戻る車の中。にこにこと無邪気の塊みたいな笑顔を浮かべる姉さん。いつもなら可愛いその笑みが今だけ少し憎たらしい。別に姉さんが悪い訳じゃない。ただ姉さんが他人のことで笑顔になるのが無性に気に喰わないだけなんだ。あの変なピエロから貰った薔薇、そんな大切そうにしないでよ。ヒソカのこと楽しそうに話さないでよ。姉さんに近付く男なんて全部消えればいいのに。
胸の内で燻る激情に意識を奪われ、気が付いた時には姉さんの手の中にあった薔薇の花を握り潰していた。ぐしゃぐしゃになって赤い花弁。それが茎から零れ散っていくと同時に「あ」と間の抜けた様な姉さんの声が車内に響く。姉さんの横に控えていた執事も驚いた様な顔をしたがさして気にすることでもなかった。「どうしたの?」そう言い掛けた姉さん身体をそっと抱き寄せ、その細い身体を縋る様に抱き締める。姉さんは一度驚いた様な仕草をしたが直ぐにオレの胸中を察した様でそのまま応える様にオレの身体に手を回し抱き返した。

「姉さん」
「なに?」
「他の男の話しないで」
「お父さんとかおじいちゃんとか弟たちの話も?」
「それはいいけど」
「執事は?」
「駄目」

そう言うと姉さんは困った様に笑った。今現在車を運転しているのも姉さんやオレの横に控えているのも男性執事だったからかもしれない。姉さんはオレの身体に手を回したまま、その柔らかな桜の唇に綺麗な弧を描いてオレを見る。僅かに細められた丸い瞳は白銀色の睫毛で仄かに翳っていた。

「イルミは焼き餅焼きだね」
「……」
「そんなお餅ばっかり焼かなくともお姉ちゃんは何処にも行かないよ」

姉はそう言ってオレの背中をぽんぽん、と撫でて額に唇を落とす。優しさと慈しみに満ちたその口づけはどうしようもないくらい愛しいものだったけれどそれに籠められた感情は飽くまで「弟」に対するものだということが酷く納得がいかない、腹立たしいものでもあった。姉さんはどうしたら自分をしっかり「男」として見てくれるのだろう。その頼りない肩を押し倒し、細い身体を暴けば姉さんはきちんとオレを見てくれるだろうか。

「ねぇ、イルミ」

オレを呼ぶ姉さんの声がした。真綿の様に柔らかい愛らしい声。甘ったるく、全てを溶かしていきそうなその音の奥には、全てを見透かす様な鋭さが含まれていた。

「貴方が私にしたいこと好きなだけしていいよ。でもね、私が貴方の姉であることは何一つ変わらないのを忘れないでね」

そう囁くと姉はオレの頬に優しく唇を落としてそのままオレの身体に回していた腕を解いた。オレもそれに釣られる様に姉さんの身体から腕を離し、妙な脱力感が燻る身体を今度は姉さんの細い肩に預ける。
ねぇ、リルイ姉さん。きっと姉さんはオレが家に拘束しようが犯そうが何も変わらないんだね。それでもオレは姉さんが欲しくて堪らないし、姉さんと他人だというだけで結ばれることが許される男共が羨ましくて仕方がないんだ。
不意に視界に入った濃い紅。先程握り潰した薔薇の残骸が姉さんの膝の上に落ちたままだったらしいそれをオレは手で振り払い、再び姉さんを抱き締めた。

20130809