母のヒステリックな悲鳴と執事の慌ただしく走り回る音が屋敷の中に響いた。
姉さんの名前を悲鳴染みた甲高い声で叫ぶ母を横目で見つつ偶々近くにいた執事に何があったか訊く。どうやら姉さんが逃亡したらしい。
またか、思わず溜め息が漏れてしまった。もう何回目なんだろうか、一番上の姉の逃亡は。姉の逃亡癖は今に始まったことじゃない。訊いた話だとボクの歳より前くらいからこの癖があったらしい。
生まれつき身体が弱く、硝子細工の様に脆い姉。
壊れやすい癖に好奇心と冒険心だけは人一倍強いらしくちょこちょこ無断で屋敷を抜け出しては樹海を散歩して来たり、麓の街へ向かったりを繰り返す。毎回のことなので心配性(と言うより過保護)な一番上の兄と母は姉の身辺のガードを強化していくものの、それに比例して姉の逃亡スキルも上がっていってるのか、いつだって針の穴程の隙を見付けてはこうやって逃亡を繰り返す。
お祖父様やお父様、それに他の兄達は姉の逃亡癖を容認している。というか諦めている。別に姉は屋敷を抜け出しても大きな怪我などを携えて帰ってきたことは無いし、大体夕食前には帰ってくるからだ。
さしてこれと言った問題も起こしてないしちゃんと帰ってくる、この二つが守られてる以上正直止める理由が無いのだ。
姉さんを探してきます、そう母に告げて広い屋敷の廊下を当てもなく歩く。今日も姉様は見付からないだろう、夕食前になって泥だらけで帰ってくるのがオチだ、そう思ってたら廊下の窓枠に足を掛けて抜け出そうとしてる姉を見付けた。

「……リルイ姉さん」
「え、カルト?」

声を掛ければ長い髪を揺らしこちらに顔を向ける姉。研磨された宝石の様な美しい瞳は大きく見開かれている。どうやらボクが見付けるのは予想外だったらしい。ボクが近寄れば姉さんは窓枠に掛けていた足を下ろし、その青白くも整った面に困った様な笑みを浮かべた。

「カルトに見付かるとは思わなかったよ」
「偶然です。お母様が探してましたよ」
「どうせお説教でしょ?困ったなーあんまり行きたくないなー…」

全く困った様子など見せず、茶化す様に笑みを浮かべる姉様。自分のせいでしょう、と姉に一言告げてからボクは彼女のその細過ぎる手を逃げない様に掴んで未だヒステリックな声を上げているであろう母の元まで半ば強引に連れていった。




「ねぇ、カルト…ちょっと屋敷を脱け出そうとしたくらいでお説教三十分って酷いと思わない?しかもお母さん、途中でお祖父ちゃんが来なかったら絶対まだ続ける気でいたよ」
「何回怒られても反省しない姉さんが悪いんでしょう」
「だってさ、お父さんやお祖父ちゃんはとっくに認めてるよ?それにミルキもキルアも、執事達も。まだ諦めてないのお母さんとイルミくらいだよ」

あーまだ頭がキンキンする、そうベッドの上で文句を垂れる姉。母にあの甲高い上にヒステリックな声で説教された彼女は罰(?)として弟(ボク)という見張り付きで部屋に軟禁された。
端から見ればとんだとばっちりと思うかもしれないが特にすることも無かったし、床に臥せっていたり屋敷から脱け出していることが多く、滅多に二人きりになれない姉とこうして会話するのも久々だったので悪くは無い。寧ろ嬉しいくらいだ。

「お母様もイルミ兄さんも心配なんだよ。姉さんは人一倍お身体が弱いから」
「それはわかって、」

姉さんの言葉がそこで唐突に止まり、言葉は続かないまま息が詰まった様に大きく噎せ込んだ。そのまま姉様は胸元を押さえ、息さえままならない状態でひたすら咳き込み、ひゅーひゅーと息を漏らしては表情を苦しそうに歪める。発作だ、そう判断した瞬間、慌ててベッド脇のチェストの上にある発作の薬とグラスに入った水を手に取り、姉の元へ戻る。グラスに粉薬を注いで水に溶かしつつ、姉さんの肉付きの悪い背中を擦っては呼吸がある程度整うまで待った。

「姉さん、薬飲めますか?」

小さく頷く姉の手に粉薬の溶けたグラスを渡す。僅かに震える手でグラスを握り、口を付けた。少しずつグラスの液体を飲み込んでいく姉。途中口の端からぽたぽたと水が溢れて姉さんの淡い色の薄手のワンピースにいくらかの染みを作る。
時間を掛けて、グラスを空にした姉さんはボクに要らなくなったグラスを預け、気が抜けた様にベッドの上に寝転がった。

「…大丈夫?」
「……うん、…まぁなんとか…」

未だ苦しそうな呼吸を繰り返す姉さんは酷く疲れた様な雰囲気が色濃く残る顔に笑みを浮かべる。美しい顔に浮かぶ不恰好な笑み。ちぐはぐな雰囲気を持ちながらも何処か美しいその笑みは自分を安心させるためのものだというのに気づいた途端、どこかやるせない気持ちになった。
そのまま仰向けに寝転がる姉さんの唾液や水が僅かに伝う口の端と首筋を脇にあったタオルで拭えば姉さんは先程より柔らかな笑みでボクに礼を言った。
自分の姉とは思えないほど酷く綺麗な笑みだった。
姉さんは美しい。人形の様に整った顔立ちや陶磁の様に白く細い肢体もそうだが姉が出す独特の雰囲気がよりその美しさに拍車を掛けている。病弱さ故なのかそれとも生来のものなのか淡雪の様な儚さは今にも消えてしまいそうで、目の届く範囲に居てくれないと不安に駆られてしまう。

「……ボクは、イルミ兄さんやお母様の気持ちがわかります」
「え?」
「姉さんが…消えてなくなってしまいそうで怖いんだと思います」

こんなに近くにいるのにその存在が消え入りそうな程曖昧に感じるのだ。唐突に姿が見えなくなると本当に消えてしまったのかもしれないと恐ろしいくらいの不安に駆られるのだろう。ボクには二人の気持ちが痛いくらい理解できた。
不意に姉さんの掌がボクの頭に置かれた。姉さんの細い指先はそのままボクの髪を撫でる。姉さんの手は優しい。異常に感じてしまうくらい優しくてこのまま瞼を下ろして眠りたいくらいの心地好さを孕んでいる。
伏せていた目を開き前を見れば長い睫毛で縁取られた姉様の大きな瞳と目が合った。びいどろの様な瞳はあまりに綺麗過ぎて、実の姉だとわかっているのにどきりとしてしまう。
姉さんはその白く美しい面に綺麗な笑みを浮かべるとそっと桜色の唇を開いた。

「ごめんね」

姉の柔らかい銀糸の髪が僅かに揺れる。何に対する謝罪なのだろたうか。わからない。ただはっきりしてるのはこの言葉が自分にだけ向けられているということだけだ。
リルイ姉さん、ボクが欲しいのは謝罪じゃないです。嘘でもいいから「もういなくならない」って言ってください。偽りで構わないから姉さんがいなくならないって保証が欲しいんです。
一瞬だけ泣きそうになったけれど堪えて、自分の髪を撫でている姉さんにぎゅっと抱き着いた。抱き締めた姉の身体はあまりにも細くて薄くて壊れそうで、また泣きたくなった。

20120614