穏やかな春の昼下がり。屋敷の直ぐ裏手にある樹海の緑は鮮やかな色を宿し、開いた窓からは暖かな微風が流れ込み、部屋のカーテンを静かに揺らしていた。
仕事もなく、息子たちの訓練も無い、穏やかさと退屈さが混じった時間が流れる中、不意にコンコン、と小さなノックの音が控えめに部屋に響いた。

「入れ」

そう扉越しのノックの主に返せば一拍置いて部屋のドアが開かれる。

「お父さん」

鈴を転がした様な声と共に入ってきたのは今年で十八歳になった長女、リルイだった。自分似の癖のある長い銀髪を緩く揺らしながらこちらの様子を窺う彼女を自分の目の前の座布団代わりの大きめのクッションに座るよう誘導する。リルイはキキョウが選んだであろう裾にフリルのあしらわれた淡い色のスカートを揺らしてゆっくりとクッションに腰を沈めた。

「どうしたんだ。何かあったか?」
「うん。ちょっと報告があってね」

クッションの位置が気になるのか何度か座り直しつつリルイはいつも通りの穏やかで気楽な様子で言った。その雰囲気から報告の内容は大したことではないのだろう、とただ漠然とオレは考える。漸く自分の納得する位置に座ることが出来たらしいリルイは少し乱れたスカートの裾を綺麗に直してからこちらに顔を向けた。

「あのね、お父さん」
「なんだ」
「私子供産めないんだって」

時が止まった様な静寂が部屋に満ちた。あまりにも淡々と、それこそありふれた世間話の様に告げられた言葉に一瞬呆気に取られたまま自分の娘を見る。
当事者である筈の彼女の表情は僅かな沈みも暗さもなく、ただ静かで柔らかい。普段と微塵も変わらぬ穏やかな微笑を彼女は緩く浮かべていた。

「どういうことだ?」
「うーん…お父さんに言うのもあれなんだけど、ほら、私ってもう十八歳じゃない?なのにずっと初潮が来ないのっておかしいなーって思ってさ、ちょっと詳しく検査してみたの。飲んでる薬の影響とかもあるのかな?って最初は思ったんだけど、影響云々の前に私の身体のそういう機能が最初から駄目になってたみたい」
「……」
「まあ要するにさ、」

妊娠できない身体何だって。
そう穏やかに紡ぐ声は恐ろしく平静でいつも通り柔らかい。彼女の桜色の口元はいつも通り小さく弧を描いている。何故こんなにも彼女は他人事の様に笑っていられるんだろうか。

「……キキョウには言ったか?」
「まだだよ。言ったら叫んで倒れちゃいそうだったから、騒ぎになる前にお父さんに先に報告に来たの」

桜色の唇に弧を描き、微笑む自分の娘。深刻さの欠片も見られない柔らかな表情にこちらの方が困惑してしまう。
子供が産めない。漠然とした言葉で浮かんだそれを自分の人生と思い浮かべながら考える。自分は愛する女性と添い遂げ、間に目の前の彼女を含め、6人の子供を設けた。子供が生まれた時の、言葉に出来ない幸福感。隣で共に歩む妻の母親としての慈愛の表情。子供が成長していく喜び。子供や家族を通して得た様々な体験が頭の中に巡る。浮かんだこれらの幸福を自分の娘は生涯持つことが出来ない。その事実に暫し呆然としてしまった。
別に子供を産むことだけが幸せという訳ではないのは重々承知している。結婚をしても自らの意思で子供を持たない夫婦もいるし、子供を産んで不幸になった者だって腐る程いる。実際家に来る殺しの依頼にさえ親子間のいざこざが原因のものだって少なくはない。
子を持たない、という道を選ぶのは個人の自由だ。子供に自分の価値観を押し付けて強いるつもりは毛頭ない。だが子を持たないのと子を持てないのでは意味合いが違う。前者は自らの意思で選んだ道だが後者は選択の余地なく強いられた結果だ。
そう考えながら改めて目の前に座る自分の娘を見た。いつも通り、ただ静かに微笑むリルイ。人生に於いての重要な選択肢を持つことが出来なかった彼女。その穏やかな表情の裏には一体どんな感情が渦巻いているのだろうか。

「お父さん、私別に気にしてないよ」

オレの胸の内を悟ったかの様にリルイがそっと言葉を紡ぐ。その声は平時と欠片も変わらない、凪の海の様に落ち着いたものだった。

「私って昔から病弱だったしさ、正直子供が産めるなんて考えたこともなかったから別にショックでもなんでもなかったよ」

浮きも沈みもない、いつもと変わらない穏やかな口調でそう言って彼女は小枝のように細い指先で垂れてきた横髪を耳に掛ける。
本当に動揺も嘆きも、何もなかったのだろうか。平静を装い、嘘で自身の感情を押し殺しているだけなのではないだろうか。
職業柄、人の精神状況を把握するのに長けていると思う。これは自負でも自慢でもなく、殺し屋という仕事に携わり得た謂わば処世術に近いものだ。純粋に自分が携わる「殺し」という仕事は人の状況、状態を把握するのが必要不可欠になっている。その殺し屋としての長年の経験や直感が迷いなく囁く。この娘の内には動揺や嘆きなど欠片も存在しない。彼女は言葉の通り、動揺も何もなくただ淡々と自身に起きた出来事を父であるオレに報告しているだけなのだ。
影で一度泣いたのだろうか、と思ったが不思議なことその考えは自然と掻き消された。甚だおかしなことだと思うが彼女が涙を零す姿が想像できなかったのだ。涙どころか彼女が感情的に怒る姿も悲しむ姿さえも頭に浮かばない。
彼女の涙を最後に見たのはいつだっただろうか。だが記憶を漁れば漁るほど浮かぶのは生まれたての、それこそ物心付く前の赤ん坊の頃ぐらいまでのものしか思い出せない。物心付いた頃にはもう、殆ど怒りも泣きもせずに今の様に穏やかに微笑んでいた気がする。
そうだ、思い出してみれば彼女にはいつだってどこか感情を置き忘れてしまっている様な節があった。楽しければ笑い、無茶を振られれば困り、つまらなければ膨れる。そういうありふれた、所謂受け応えが出来る程度の感情はある。だが彼女にはどこか決定的に、怒りや悲しみなどの大きな感情が抜けてしまっている気がするのだ。
リルイはいつだって自分の意思や主張が乏しい。先日、彼女に見合いの話が来た時もそうだ。キキョウが一人で勝手に決めてしまった見合い話だったのもあり、嫌ならしなくてもいい、とオレは彼女にそれとなく逃げ道を与えた。だが彼女はいつもの穏やかな笑みで「お父さん達がいいなら私はいいよー」なんて暢気に、それこそ自分の人生なんてどうでも良さそうな雰囲気で答えていた。結局この見合いはイルミによって破談にされたがあのまま順調に事が進んでいたら彼女は何の躊躇もなく結婚していたのだろう。
自分の意思も感情も捨てて人生の重要な選択肢を容易く他人に委ねてしまうことができる。それは端から見ればどれだけ異常に見えるのだろうか。
きっと彼女の中身は空っぽだ。自分の意思がある様に見えて何も入っていない。自身の人生に執着も無ければ興味もない。拘りも無ければ好き嫌いすら無い。彼女の唯一の趣味とも言える屋敷の脱走だって「辞めろ」とオレや親父が強く止めれば容易く捨ててしまえる様な軽いものだろう。
オレは改めて目の前にいる自分の娘を見た。
彼女の子供の様な丸い瞳と目が合えば宛ら条件反射の様に穏やかな微笑みが返される。
まるで人形のようだ。憂いも嘆きも無い瞳も、無意識に作られた笑顔も、意思の乏しいがらんどうな中身も、全て。
彼女はそういう風に育てた覚えはない。寧ろ病弱過ぎる身体も相俟ってなるべく彼女の思考に制約を掛けず、他の兄弟たちよりも比較的自由に育てた筈だ。ゾルディックという環境がそうさせてしまったのだろうか。それとも生まれついての性質だったのだろうか。そう考えていれば不意にリルイの唇が開き、沈黙を破る。

「あ、でもやっぱり全くショックじゃないと言えば嘘になるかな。子供産めないからさ、お父さん達に孫の顔は見せてあげられないしおまけにその役目を弟達に押し付けることになっちゃうのが申し訳ないかな…」

行き遅れになったらごめんね。なんて眉を下げて少し残念そうにする自分の娘。
自分の感情は無く、ただ他人の為に存在するだけの言葉にオレは確信した。恐らく彼女は自分の人生を自分の為になど欠片も生きていない。きっと意識的なものなのかはわからない。だがこれだけは言える。この娘はきっと家族の為だけに生きている。
いつだって彼女の優先順位は自分の身よりも家族が上にあるのだろう。自分の身にどんなことがあろうと家族にとっての最適の道を選ぶ。その姿はある意味誰よりも人形らしく、ゾルディック家の人間として正しい姿ではあるのだろう。一番その手の教育を施していなかった子が誰よりゾルディックの人間として模範的な思考を持ってしまったというのは何とも皮肉な話だ。
そんなことを考えていれば不意にリルイがクッションから立ち上がった。

「取り敢えず話はこれで終わりかな。変なこと聞かせてごめんね」
「謝らなくていい。お前も言い難いことだっただろう」
「まー…そりゃね。あんまりいいお知らせじゃないし…。あ!これからお母さんにも話してくるからお父さんフォロー宜しくね」

いつもと変わらない、柔らかく穏やかな微笑みでリルイはそう言うとフレアスカートの裾と長い銀髪を僅かに翻して部屋を出ていった。
彼女が退出して暫くするとキキョウの甲高い悲鳴混じりの声が聴こえた。先程の言葉通り自らの身体に起きていることをキキョウにも伝えに言ったのだろう。行動の早いやつだ。恐らくもうそろそろリルイを連れてキキョウがこの部屋に入ってくるだろう。微かに聞こえたこちらに向かってくる少し慌ただしい足音に小さく溜め息を吐いた。

20140212