「かわいい」

彼が放った四文字の言葉が耳に入った途端頭が真っ白になった。パソコンならフリーズして暫く稼働不能な状態に等しいだろう。
暫く(と言っても数秒だけれど)して我に返った思考に襲ってきたのは羞恥からくる顔の熱と心臓の鼓動の異様な荒ぶりだった。
予想外だったのだ、彼が私の外見に対して何か感想を述べるのことが。これが普通の人間だったら仕事とはいえ自分でお金を出して飾り立てたのだからそれなりの感想…お世辞の一つくらい言うのが普通だ。だけど私の予想だとイルミはそういう社交辞令にあまり頓着の無い人間だと思っていた。まだ短過ぎる付き合いだからいまいち彼の性格を把握して無いが多分彼は身内以外の人間にあまり興味の無いタイプの人間だ。
だから相手がどんな格好をしていても貶しもしないが褒めもしない。他人が全く眼中に無いタイプ、そう思っていた。
だからだ、彼に「かわいい」なんて言われるのが完全に予想外だったのだ。お世辞には慣れてる。だけど多分、この言葉はお世辞じゃない。彼の素直な感想だ。
花を見て綺麗とか犬猫を見て可愛いとかそれと一緒。私を見て「かわいい」と言ったのだ。
その証拠に彼も自分で口にしたこの言葉に驚いているのか(大変わかり難いが)呆然という言葉が似合う表情をその能面の様な顔に浮かべていた。

「………」
「………」

沈黙が気不味い。本当に気不味い。逃げたい。
例えるなら…うーん…お見合いで「後はお若い人同士で」と残されたはいいが最初の会話に失敗して会話が途切れて逃げたいのに逃げられない状況に似ている。お見合いしたこと無いけど。

「……あのさ、」
「…何?」
「仕事の内容訊いていい…?」

未だ五月蝿い心臓と赤色に染まったままの頬のまま、口から出たのは全く可愛くない一言。どうやら私は仕事人間らしい。一年くらい休業という名のニートをしていたけれど。
それにせっかく「かわいい」と褒めてくれたのだからお礼の一つでも返せばよかったのに、と思い返しては少しばかり後悔した。
イルミは我に返った様な仕草をして「仕事のことは車の中で話すよ」と私の手首を軽く掴み、そのまま誘導していった。




「えっと、つまり、パーティーのパートナーとして出るだけでいいの?」
「うん」
「その……、暗殺の仕事?とかは手伝わなくていいの?」
「うん」
「……」

ホテルの前に待たせてたリムジン(運転手は針人間)の中での会話。今自分の目に映るのは窓ガラス越しに流れていく景色と有り得ない、そう言いたげなサイカの顔。当たり前だ。だって彼女は情報屋であってこんなその辺の女を一人見繕えば済む様な依頼は専門外だろう。彼女は真顔で何度もオレに仕事の内容を確かめてから「イルミは女性の知り合いがいないの?」と心配そうに返された。別にいない、訳ではないけど今回はサイカを殺さなくちゃいけないのもあるからサイカにしただけ、なんて流石に言えないから「あんまりいないよ」と返した。間違ってないし。
因みに先程(ホテルのロビーでの会話)のことはお互いの中では無かったことになっている。
自分があんなこと言った理由とサイカが赤面した理由が結局わからなかった。自分があんなこと言った理由はさておき、サイカの赤面は何故だろうか。
頬を赤くする理由は主に体調不良、寒さ、興奮、怒り、あとは涙と羞恥くらいじゃないだろうか。
まず寒さと体調不良は無いだろう。だって今は寒いと言える季節では無いし彼女の今の様子を見る限りこれと言って具合の悪そうなところは特に無い。じゃあ、興奮?何に興奮するというんだ。どこかの変態じゃあるまいし。涙と怒りも無い。だってサイカは泣いても怒ってもなかった。
じゃあ最後に残った羞恥?オレは彼女を何か辱しめてしまう様なことをした?オレが「かわいい」って言った後に爆発する様に頬を真っ赤に染めたから「かわいい」って言ったのが原因?
隣で車の窓ガラス越しに外を眺めるサイカを横目で見ながら先程の赤くなったサイカを思い出す。
頬を真っ赤に染めて戸惑いがちな表情を浮かべては迷った様に何度も視線を泳がせていた彼女。それを見た途端また心臓の鼓動は速くなり余計に呆然とする結果になってしまった。あとサイカに知られたら怒られそうだけどあの時はサイカの頬が林檎みたいで美味しそうとかちょっと考えていた。

「イルミ」
「何?」
「あとどれくらいで着くの?」

大きな瞳に疑問の色を浮かばせ小首を傾げるサイカ。身長差の問題で自然と上目遣いになっていてそれが妙に艶掛かって見えた。
先程ホテルを出た時間と現在の時間、あと交通状態(渋滞とか)を確認して計算する。「あと5分くらい」とサイカの質問に対し、外れる確率が高いであろう大雑把な回答をした。サイカは適当に相槌を打った後、大きな瞳でじっとこちらを見詰めてきた。
自分は何かやっただろうか?なんて思いつつこちらも同様にサイカを見詰める。マスカラが施された睫毛やグロスの塗られた唇が揺れる度に胸騒ぎというか落ち着かない気持ちがじわじわと溢れて冷静でいられない。頭がおかしくなりそうだ。
今夜、オレは本当に彼女を殺せるんだろうか?時間を長く共有する程、オレは彼女を殺せなくなってしまう様な気がする。ならばまだ殺せる気がする今、オレは彼女に手を掛けた方がいいのではないだろうか?
天井が低く、狭い車内。相手の能力は不明。泥沼化したら最悪な状況。だが自分は彼女の剥き出しの首筋か頭、若しくは心臓に一撃針を打ち込むだけでいい。
彼女にバレない様、そっと針を取り出して隠す様に握る。殺気を悟られない様にタイミングを見計らう。ぼんやりとこちらを見詰めてくる彼女を窺う。彼女の一瞬の隙を逃さない様に。

「あ、」

不意に車が止まる。目的のホテルに着いたらしい。彼女が一瞬外に気を取られる。隙が出来た。針を握る。その首筋に狙いを定めて放とうとした。

「着いたみたい」

報告する様にこちらに話掛けるサイカ。彼女の首に針は刺さっていない。針は自分の掌の中で握り締めたまま。手が動かなかった…と言うより身体の組織全てが彼女の殺害を拒否した様に動かなかった。
やっぱりおかしい。殺せない。殺せる筈なのに殺せない。殺したいのに殺せない。何故だ。

「降りないの?」

目的地に着いたというのに何の反応もしないオレにサイカは不思議そうに顔で小首を傾げた。
殺すのは止めよう。仕事が先だ、そう考えてからバレない様に針をそっとしまって車の扉を開け、自分が先に出てからサイカに手を伸ばす。サイカが戸惑いがちに赤色ベースのネイルが施された白い手をオレに重ねた。手と手が触れた瞬間、不自然なくらい心臓の鼓動が速くなる。
感情の乱れを悟られない様になるべく丁寧に手を取って車から降ろさせれば柔らかい笑顔でお礼を言われた。また鼓動が激しい脈を打つ。

「……ちゃんと打ち合わせ通りに動いてね」
「うん、わかってる」

殺す。この仕事が終わったらサイカを殺す。そう胸の中で何度も繰り返す。だってそうでもしとかないと彼女を殺せる気がしなかったから。

20120503