私の髪を乾かして暫くぬいぐるみの様にぐりぐりと抱き締めた後、イルミは満足したのか自分も風呂に入ると一言告げるとそのまま浴室の方へと向かってしまった。唐突に解放されて一人残された私は取り敢えずソファーから立ち上がり、シンクに溜まった汚れた食器を片付けることにした。スポンジを洗剤で泡立たせて2人分の食器を洗っていく。そう時間も掛からず片付いた食器達を布巾で丁寧に拭いてから食器棚に入れる。私は一作業を終えたところで小さく溜め息を吐くと、壁掛け時計を確認した。イルミもまだお風呂に入ってるし、寝るにはまだ早過ぎるし、残っていた仕事でも片付けようかと私は自室の隣にある仕事部屋に向かう。寝室の隣にある仕事部屋。そのドアを開ければ部屋の主である私自身さえ若干苦笑いしてしまうくらいちょっと酷い空間が広がっていた。
床にはパソコンに繋がった沢山のケーブル達が木の根の様に這っているし壁には複数のモニターが暗い部屋の中で怪しく点灯し、部屋とパソコンに合わせて特注したPCデスクの上には知り合いの伝で改造して貰った、形状と性能共に最早パソコンと呼ぶにはちょっと抵抗のある機械が鎮座している。仕事で使う機械類とデスクと椅子、それに休憩用に置いたソファーに仮眠用の毛布と枕。
私は部屋の電気を点け、床に這ったケーブルに気を付けながらPCデスクの前の椅子に座る。先日頼まれた某有名財閥の御曹司からの依頼をやらなければならない。私は光るモニターに視線を移し、キーボードに手を置くとそっとオーラを集中させ、念を発動させる。

「未知を侵す愚か者(ニューロマンサー)」

これが私の念能力であり、情報屋という仕事の生命線だ。この能力は画面表示のある電子機器(パソコンや携帯電話、テレビ、また試したことはないがポケベルにも可能だろう)を媒体にネット上のあらゆる情報の追跡、操作、破壊が可能になる。前述した画面表示のある電子機器に自身の身体を接触させることでこの能力は発動する。能力発動中は外部の干渉を一切感知することができない。五感のすべてが外部を感知することを遮断し、他者に話しかけられても、殴られても、或は殺されても、この能力を発動中は一切気づくことができず、おまけに時の流れの感覚さえも麻痺させる。
念能力を発動すると次第に自分の呼吸の音も鼓動の音も聞こえなくなり、視界もチカチカと明るいパソコンの画面
のみになり、キーボードと自身の指が触れる感覚すら無くなっていく。毎回のことだが不思議な感覚だ。呼吸のできる水中を泳いでいるような、足場のない空の上を支えなしで浮いているような不安定で奇妙な感覚。長時間いると現実の境目がわからなりそうだ。
電子の海に溺れながら目当てのデータを探っていく。自分がここを探ったという証拠を残さないように、足跡も何も残さないように、全ての痕跡を抹消しながら必要なデータを集める。依頼されたものを纏めて、紙に印刷していく。私は基本的に情報は紙媒体で保存する。紙媒体は傷みやすく、暗号化できない分、漏洩した時のリスクが高い。だが燃やせば跡形もなく消えるという処分の容易さ、紙媒体の直接手渡しすることによりデータのハッキング対策が取れるというメリットの方が個人的には大きい。この情報は私の手から文字通り離れた時点で私の物ではなくなるのだ。それを受け取った個人がどうなろうが知ったことではない。私の仕事にはアフターケアは含まれていない。
「印刷が完了しました」という画面の表示を見て私は念を解除した。明るいPC画面しか無かった視界に電気の付いていない部屋の暗闇が少しずつ侵食していく。そのまま何も聞こえなかった自分の耳には自身の鼓動や呼吸、衣擦れの音が響き、指先にはマウスの硬い感触と冷ややかなPCデスクの温度が伝わる。無感覚の世界から現実に引き戻されていく。私が小さく息を吐いたその瞬間、全身に鈍器で殴られた様な痛みが走った。思わず顔を歪めて身体を押さえながら壁に掛けてある時計に目をやる。

「一時間半も経ってる…」

少し時間がかかり過ぎた。
念能力というものは大きな力を求めれば求めるほど相応のペナルティーが付き纏う。私の念は発動時間が長引いたり、自分が潜り込むセキュリティが堅く、侵入が困難だったり抹消、改竄するデータが大きければ大きいほど念能力解除後に身体に負荷が掛かる。今回のこの痛みは比較的重くない負荷だ。突き指は軽い打撲程度の軽い痛みや手足をもがれる様な重い痛みの時もあれば生理痛の様な気持ち悪い痛みの時もあり、二日酔いの様な吐き気を催す時もある。
この負荷は念発動時に使用した電子媒体の性能が良ければ良いほど緩和される。だが知り合いに作ってもらったSF映画に出てきそうな形状の電気台をアホほど食うこのパソコンでこんなに負荷あるのだ。その辺の家電量販店で売られている電子機器でこの念を使用した時の負荷など想像するだけで身体が震える。

「疲れた……」

パソコンの画面と睨めっこを終えて私は溜め息混じりにそう呟いた。直ぐに終わるだろう、と高を括っていたのだが予想以上に時間が掛かってしまった。眼前のパソコンのモニターの電源を落とし、疲れた目を何度か瞬きさせつつ手足を伸ばして座り仕事で固まった身体を解していく。プリントアウトしたばかりの某有名企業の汚職に関する資料を確認しつつ、携帯電話で依頼人である男性に仕事完了のメールを入れれば送信して1分もしない内にメールの返事が来た。メールの内容はざっくり要約すると仕事完了に対する労いと今時間空いてるなら電話してもいい?という感じのものだった。私は携帯を操作して電話帳から依頼人の番号を出してそのまま通話ボタンを押した。

「こんばんは」
『こんばんは、サイカ。君から掛けてくれるとは思わなかったよ』

快活だが決して人を威圧することのない、柔らかい音を持った声が鼓膜を震わせる。この男は世界的に有名な某企業の御曹司で次期総帥。名前は個人情報なので一応伏せておこう。歳は確か二十代後半だっただろうか。三十路には届いていない、といつだったか仕事で会った時に話していた気がする。
外見は金糸雀色の髪に翡翠の様な緑の瞳と魅力的なご年配の奥様方に受けそうな甘いマスク。背はイルミより少し小さいくらいだろうか。身体付きは逞しいとは言い難く、見るからに温室育ちの優男と言った感じだ。育ちの良い柔らかな仕草と物腰が印象的な青年だがその穏やかな容姿からは想像出来ないくらい鋭く的確な経営手腕とセンスがある。まだ若さ故に時折見られる経験不足感は否めないが、そんなものあと10年もしない内に克服してしまうだろう。彼は将来大物になるのだろうな、何て思いながら電話越しに言葉を続けていく。

「この間頼んだ仕事、終わったよ。引き渡しはいつがいい?」
『もう終わったのかい?流石サイカだね。君の情報屋としての能力の高さにはいつつも驚かされるよ。高い情報収集能力のみならず愛らしい外見に聡明な思考まで兼ね揃えてる。天は人に二物を与えずとよく言うけど君には万物を与えたようだね』
「下らない冗談は止してくれない?」
『冗談何かじゃないよ、僕はいつだって本気だ。君は自分が魅力的な女性である自覚はないのかい?』
「生憎私を魅力的だなんて言ってくれる物好きは貴方しかいなくてね、たった一人の偏った嗜好の意見なんて参考にもならないよ」
『そうか…君の周りにいる男の目は皆節穴何だな。でも君の魅力に気付かない節穴共ばかりでよかったよ。ライバルがいないからこうして君をゆっくり口説くことが出来る』

甘い中に何処か真剣味を帯びた声と台詞に思わず鳥肌が立った。この男は老若男女問わず相手を褒め、おだてる癖がある。あからさまなお世辞は相手を不快にさせるものだが彼の持つ甘いマスクと柔らかく上品な声や物腰、そしてどこか真剣味を帯びた物言いに大半の人間は彼の言葉に騙されて照れたり調子に乗ったりする。残念ながら彼の甘い褒め言葉は私の肌に合わないのか、時折度が過ぎると鳥肌が出たり顔が引き吊ったりしてしまうのだが。
そういう多少のマイナスを差し引いたところで気遣いは上手だし話も通じるし一緒にいてそこまで不快な訳でもないし何より羽振りの良いお得意様、というプラス面が圧倒的に勝っているのでそれなりの付き合いを続けていた。

「いつデータ渡せばいい?」
『来週の水曜日の夜がいいな。ついでに一緒に食事でもどうだい?君が好きそうな美味しいレストランを見付けたんだ』
「デザートはどんなのがある?」
『ギール産チョコ使用のフォンダンショコラとジャポン産の抹茶を使った和風ミルフィーユとかがあるよ』
「行く」
『決まりだね。水曜日楽しみにしてるよ』

プツッ、と通話が切れると同時に私は携帯を折り畳んでキーボードの乗せられたテーブルの脇に邪魔にならない様に置く。「水曜日」「お坊ちゃん」「ディナー」と脳内のスケジュール帳にメモしつつ椅子から立ち上がり壁際にある休憩用のソファーに寝転がった。全身がまだズキズキと痛い。酷い疲労感に眠気を感じながらごろりと寝返りを打ちつつ天井を眺める。そう言えばイルミはお風呂から上がっただろうか。「一緒に寝よう」とか訳のわからないことを言っていたがもう忘れてるだろうか。寧ろ忘れてろ。忘れてて下さいお願いします。
そんなことを考えながらごろごろとソファーで寝転がっていれば次第に瞼が本格的に重くなってきた。リビングに戻ろうか、何て思ったが迂闊にリビングに戻ったらイルミに遭遇しそうな気がして嫌だ。また変なことになって寝るどころの騒ぎじゃなくなる気がする。今は身体が痛いからなるべく騒いだり頭を使ったりしたくないのだ。
私はソファーの隅に追いやられていた毛布を無言で引き寄せてそのまま頭まで被る。もうこのままここで寝てしまおう。「仕事部屋に入るな」と確かイルミがここに来た時に事前に言っておいたし多分入って来ないだろう。……何で自分の家なのに行動を制限されなきゃいけないのだろう。若干不満に思いながら目を閉じる。その瞬間、未だ残る全身の痛みが軋むと共に嫌な記憶が脳裏に走った。不味い、と反射的に思ったがもう遅い。
私の念能力が発動後与える負荷は身体だけでなく精神にも及ぶ。わかりやすく言うと嫌なことや思い出したくない恐ろしい体験などの記憶が振り返すのだ。忘れかけていたことも、思い出すことすら避けていたことも、この制約は宛ら傷口でも抉るように私の脳を掻き回しては思い起こさせる。
今寝ては駄目だ。このまま寝ると嫌な記憶がそのまま夢に反映される。何度も繰り返した悪夢を避けるべく頭の中で必死に眠気に抵抗するが私の意に反して痛む身体は休息を求めて眠りへと静かに落ちていった。




「ねぇお父さん。私の髪と目の色って何でお父さんのともお母さんのとも違うの?」

見覚えのある、豪奢な装飾のリビングのソファーの上。そこには小さい頃の私がいた。隣には優しく微笑む父がいた。あ、これは夢だ。しかも特別嫌なやつ。そう自覚をするが如何せん意識は覚醒してくれず、夢に浸ったままだ。

「お前の髪と目はね、お母さんのお母さん…つまりお前のお祖母ちゃんと同じ色何だ。前に教えただろう?遺伝、ってやつだ。お母さんの中にあるお祖母ちゃんの遺伝子がお前の髪と目に影響したんだよ」

そう言って私の頭を父は撫でた。私は納得した様に笑って隣に座る父に擦り寄って甘える様に寄り掛かる。暫くそうしていると不意にリビングのドアが開き、母が入ってきた。途端に父は私を撫でるのを止め、寄り掛からせてくれていた身体を離しては距離を取る。母は私を害虫を見る様な目で一度睨むとそれ以来視界にすら入れてくれなかった。

「あの…何故奥様や使用人の皆様はお嬢様をあんなに邪険に扱うのでしょうか…?」

不意に夢の場面が変わり、風景も一新する。先程は屋敷のリビングだったが今度は屋敷内にあるメイド達の作業場付近の風景だ。その中にある洗濯場の壁の裏に十歳くらいの私はぼんやりと寄り掛かっていた。

「坊ちゃまにはあんなに優しくしておられるのに、何故お嬢様にだけあんなに酷く当たるのですか…?」

この声は確か新人メイドのものだ。優しくて、よく私に構ってくれた新人のメイドさん。この日は確か遊んで貰いたくて彼女の仕事が終わるのをこっそり待っていたのだ。
彼女の存在を思い出せばその声には思い出したままの彼女の姿が肉付けられ、そのまま当時の嫌な記憶が鮮明に夢の中で再現されていく。
彼女の不安そうな声と言葉を切っ掛けに嫌な記憶が奔流する様に頭の中で溢れてくる。やめて。思い出したくない。

「あら…、貴女新人だからまだ知らなかったのね」

彼女の隣で作業をしていた別のメイドが少し困った様な声で言う。

「お嬢様は奥様の実の子供じゃないのよ」

何気無く紡ぎ出されたその一言は、当時の私に激しい衝撃を与えた。拷問の訓練で電気を流された時より、仕事で失敗をしてターゲットに銃で撃たれた時より酷い衝撃だったのはよく憶えている。気付けば夢の中の幼い私はふらふらと壁に寄り掛かったまま、腰が抜けて床に座り込んでいた。違う、だって私は、お母さんの

「でも、お嬢様は以前『私の髪と目はね、お母さんのお母さんとお揃いだ』って…」

まるで私の疑問を代弁する様に新人メイドが言えば先輩メイドがそれをあっさりと否定する。

「あーそれね…旦那様がお嬢様誤魔化す為に吐いた適当な嘘よ。だって私、奥様の母君を見たことあるけれど奥様と同じ色の髪と目だったわ」
「本当ですか…?」
「本当よ!いくら奥様の母君がお亡くなりになってるからって旦那様も適当な嘘吐くわよねー…お嬢様がその気になって調べれば直ぐにバレちゃうじゃない…」

私は無意識に自分の髪を触った。兄は髪が父、瞳が母と同じ色。私は父とも母とも違う色の髪と目。母方の祖母と同じ色の髪と目。父にそう言われた。でも違う。この色は誰の色なの?

「お嬢様は旦那様が娼婦と浮気した時の子供でねー…まあ、要するにお嬢様は愛人との子供って訳。あ、でもこれお嬢様には内緒ね。屋敷内でお嬢様だけ知らないのよ」

そう言って困った様に笑う先輩メイドに新人メイドは何処か納得いかない様な声を漏らす。そんな彼女に先輩メイドは忠告する様に言った。

「確かにお嬢様はいい子だけど、あんまり仲良くしない方がいいわよ。前にお嬢様と仲良くしてたメイドは奥様に散々いびられた挙げ句自殺してるし、お嬢様の扱いに文句言った年配の執事は殺されちゃってるし…」

物騒な単語が並び出し、新人メイドが小さく悲鳴をあげた。先輩メイドが更に続けた言葉は、先程の事実で衝撃を受けて呆然としていた私の頭に追い討ちを掛ける様に更なる衝撃を与えた。

「旦那様も最近お嬢様のこと邪魔に思ってるみたいなのよ。最初は奥様からお嬢様を庇ってたんだけど最近はそれもしなくなったし…」
「え…?態々引き取ったくらいですし…旦那様はお嬢様を愛してらっしゃらないのですか…?」
「最初は愛してたみたいだけど近頃はちょっと疎ましく思ってるみたいなの…。お嬢様のことでよく奥様と揉めてる様だし…それに今日はお嬢様の誕生日だってのに仕事に行っちゃったし…」
「……」
「それにほら、この間お嬢様が毒の耐性訓練で毒の分量間違えて死に掛けたり、お嬢様じゃ絶対無理なレベルの仕事を押し付けたりして大怪我して帰ってきてたでしょ?あれ担当した執事に訊いたら奥様じゃなくて旦那様の指示ですって!直接殺すのは抵抗あるから事故装って体よく殺したいみたいね…」
「酷い…」
「だからさ、いつ何に巻き込まれるかわからないし、自分の身のためにもお嬢様とはあんまり仲良くしない方がいいわよ」

その会話を最後に聞くと私はメイド二人に悟られない様、気配を殺してその場を去った。そのまま私は一心不乱に走って自分の部屋へ飛び込む様に入ったかと思えば唐突にチェストの上に置いてあったフォトフレームに入った家族写真を手に取りまじまじと見詰める。
お父さんとお母さんと兄さんと私で撮った写真。趣味や家族内の交流の一環で撮ったものでは無く、形式的に、それこそ周囲へ家庭内の平穏を伝える為だけに撮られた写真。家族四人、揃って写っている唯一の写真。兄さんは、お父さんとお母さんのどちらにもよく似ている。髪の色はお父さんと同じ色。瞳の色はお母さんとお揃い。顔立ちは全体的にお母さんに似ているけれど目元だけはお父さんにそっくりだ。兄さんは一目見てお父さんとお母さんの子供だってわかる。
私はどうだろうか。髪の色も瞳の色も両親のどちらとも違う。
顔の造りも両親のどちらとも似ていない。この家族の中で私だけ、他所の誰かの顔を貼り付けたみたいに異質だ。
私は写真の中で微笑む自身の顔をそっと指で隠す。先程まで酷く歪に見えた家族写真が私を消すと普通の幸せそうな家族写真に見えた。私は無言でフォトフレームごと写真を床に叩き付ける。フレームが歪み、硝子が割れて散らばるのを確認するとそのまま私は逃げる様に家を出た。お父さんもお母さんも兄さんも家にいない、十歳の誕生日のことだった。
そこでまた場面がぐるりと変わる。
今度は何かのパーティー会場の様だ。周囲の人間はドレスやタキシードで綺麗に着飾っており、幼い自分もまた、子供用のAラインのふわりとした桃色のドレスを着ていた。父は少し遠くでどこかのお偉いさんと歓談している。私の隣には母がいてその隣には兄がいた。兄は興味無さそうな顔で何処か遠くを見詰めていて、その隣にいる母の視線は終始兄と父に向いていた。私の方は欠片も見てくれない。いつものことだった。

「ねぇ、もしかしてあの子が噂の…?」
「そうそう、妾の子よ」

下らない噂が大好きな、何処かの夫人達の声が聴こえた。あの時は耳を塞いで目を背けて何も聴こえないふりをしていたそれが、認めたくなかった事実が、この夢の中で一字一句鮮明に蘇る。

「でも私は奥様から実子って訊いたのだけれど…どういうことなの?」
「それねー…ほら、あそこの奥様ったら結構前に『浮気される様な女は女としての魅力を失ったも同然』みたいなこと言ってたじゃない?」
「あー、言ってた言ってた」
「そんなこと言った癖に自分が浮気されておまけに子供まで作られちゃったでしょ?旦那の浮気隠す為に実子、ってことにしてんのよ。自分のプライド守る為にね」

周囲にはバレバレなのに馬鹿みたいよねー、なんて一人が笑えば隣の女も釣られて笑った。好奇と嘲りの混じった笑い声は私の意識を蝕んでいく。嫌だ。やめてよ。そんな声で笑わないでよ。これ以上私を惨めにしないでよ。
またぐるりと視界が歪む。母の嫌悪に満ちた顔が、父の迷惑そうな視線が、周りの好奇を纏った嘲笑が、私を苛んでいく。頭が痛い。気持ち悪い。
暗闇に落とされていくような感覚の中、不意に何かが自身に近付く気配がした。まるで叩き起こされる様に唐突に覚醒した意識。視界に一番に飛び込んできたのは誰かの手だった。考えるより先に飛び起きた身体が警戒する様に寝転んでいた身を起こし、ソファーの上で反射的に身構える。

「あ、起きたの?」

目が合った黒い瞳と聞き慣れた淡々とした声。イルミだ、そう思った途端に身構えて張っていた肩の力が抜けていく。小さく安堵の溜め息を吐き、寝起きでいまいち働かない頭で状況を確認する。確か仕事が終わって、私はそのまま仕事部屋の仮眠用のソファーで寝た。それで嫌な夢を見てる最中、人の気配を感じて反射的に飛び起きたら目の前にイルミがいた。……うん、起こしてくれたのは有り難いけれど何故イルミがこの部屋にいるのだろう。入るな、って最初に言った筈だが。状況確認をすることにより悪夢のせいで嫌な感じに高鳴る心臓を落ち着かせる。
再度息を吐いて部屋にある壁掛け時計を確認した。どうやら眠りに就いてからまだ時計一周分程度の時間しか経っていないらしい。ちらりとイルミに視線をやれば猫みたいな黒い瞳と中途半端にこちらに伸ばされた手が見えた。

「イルミ、そのこっちに伸ばした手は何…?」
「魘されてたから起こして上げようと思って」
「そっか…」
「変な夢でも見た?酷い顔してるよ」
「……そんな酷い?」
「うん。凄い真っ青」
「……」

イルミの言葉に思わず自分の頬を手で押さえた。そんなに酷い顔をしてるのか。
イルミにこれ以上顔を見られたくなくて思わず俯いて彼の視線から逃げる。
ふとぶり返す様に溢れてくる先程の夢の名残。母の嫌悪に満ちた視線、父の迷惑そうな顔、周囲の嘲笑の声。嫌な記憶は鮮明なまま頭の中を過り、鬱々とした感情となって胸の内を苛んでいく。

「ねえ、サイカ」

不意に名前を呼ばれた。反射的に顔を上げれば彼は私の頭の上に掌を優しく置いてそっと撫でた。

「どんな夢見たの?」

まるで小さい子供をあやすかの様な問い掛け。頭を撫でる掌の感触やいつもの淡々とした声が酷く優しくて、思わず喉の奥からツンとした息苦しさが込み上げた。
一瞬だけ緩みそうになった涙腺を叱責する様に唇を噛む。だが気付けばそれも解け、私は半ば無意識に口を開いては言葉を溢していた。

「昔の夢を見たの」

怖くて、辛くて、不快で、とても嫌な夢。
彼に縋りつく様に吐き出された言葉。その声は自分の予想の何倍も弱々しく、何かに怯える様に震えていた。
余りにも頼りない自分の声は思考能力の低下した頭を僅かに我に返し、思わず夢の内容を話そうとした自分の口に制止を掛けて寸でのところで口を噤む。
家族のことはなるべく人には言いたくなかった。理由は単純明快。私にとって家族という存在が最大の弱点であるからだ。馬鹿な私は、未だ彼らへの思いが捨てられずにいた。仮に冷たく睨まれようと、迷惑掛られようと、無視されようと、私にとって彼らが唯一の家族であり、未だ彼らの面影を求めて似た人物を目で追い掛けてしまうくらいに焦がれている。
きっと人質にでも取られたら揺らいでしまうくらい、家族の為に死ねと言われたら迷ってしまうくらい、私は十年前に一方的に別れを告げた家族へ執着していた。
馬鹿みたい。我ながらそう思った。嫌われて辛い思いばかりしてるのにそれでも私は家族に焦がれていた。邪魔だと思われても、いらないと言われても、私はあそこに居場所が欲しかった。
だからこそ弱味を見せることは絶対に避けたい。大事な家族を傷付ける可能性は出来るだけ増やしたくはないのだ。幸いにもイルミは夢の内容をさして追及することなく、小さく相槌を打ち、ただ私の頭をあやす様に撫でるだけだ。そのままお互い何も言わず、口を閉ざしたまま時間が過ぎていく。
私の髪を滑るイルミの指の感触が、包む様に置かれた掌の温度が、あまりにも心地好くて気付けばとろりとした淡い睡魔の様な感覚が意識を襲う。

「眠い?」

優しい睡魔で曖昧になり掛けた意識の中で聴こえたイルミの問い掛けに無言で首を縦に振る。

「眠いなら寝よう。一緒に」

一緒に?
最後の不穏な言葉で惚けていた頭は一瞬で現実に引き戻され、睡魔は飛んで意識は完全に覚醒する。
状況が掴めないままぽかんと口を開けた間の抜けた顔を晒していれば、イルミは言葉を続けた。

「夕飯の時言っただろ。『一緒に寝よう』って」
「え…あ…」
「お風呂上がったら一緒に寝ようと思ってたのにさ、サイカってばリビングにも寝室にも居なかったから探しちゃったよ」

仕事部屋こんな風になってたんだね、とこの部屋のモニターだらけの壁やコード塗れの床を指しながらイルミは淡々と言った。然り気無く逃げようとするがイルミは私の腕を素早く掴んで阻止し、おまけにそのまま私の腕を引っ張っては、ずるずると隣の寝室へと引き摺っていく。

「……」

生まれて初めて自宅のベッドが処刑場に見えた。最早眠気という概念を忘れ、呆然としている私をイルミは容赦無くベッドに放り込んで壁際に寄せて自分も布団に入って来る。こいつ、逃げられない様にわざと私を壁際に寄せやがった。せめてもの抵抗とばかりに彼に背を向けて壁に引っ付いてなるべく距離を開ける。だがその小さな抵抗もイルミが私の身体を抱き寄せることにより儚く散った。
密着した身体からイルミの心音や体温が伝わって落ち着かない。項にイルミの吐息が掛かる。擽ったく、どこかもどかしい様な感覚は確実に私の意識を睡魔から遠ざけていく。ああもう駄目だ。頬が熱い。頭の中がぐるぐるする。沸騰してしまいそうだ。
大体何で私は一人暮らしの癖にダブルベッドにしてしまったんだ。このベッドを買う時に「どうせなら広々と寝れる方がいいよね」とか言ってダブルベッドにしてしまった五年前の私を殴り飛ばしにいきたい。このベッドがシングルなら、イルミだって一緒に寝る、なんて馬鹿な提案をしなかった筈だ。多分。
過去の自分を恨むことで若干現実から目を背けようとしていれば不意にイルミの手が私の腹部を触った。むにむにとお腹の脂肪の感触を楽しむ様に触るその手は相変わらず擽ったい。

「……イルミ」
「何?」
「お腹触らないで。擽ったくて寝れない」
「そう」
「…お腹駄目だからって然り気無く胸触んないで」

胸を鷲掴んだ手を乱暴に引き剥がす。居場所を失ったイルミの手は少し悩んだ様に動きを止めた後、私の肩を抱き寄せて落ち着いた。
一先ず腹や胸から離れた手に小さく安堵の溜め息を吐きつつ、私を抱き締めるイルミの存在を抹消する様に目を閉じた。

20140104