私は警戒体勢を維持しつつも大人しくイルミの座るソファーへと近寄っていった。ソファーの前まで距離を詰めた所で、唐突に腕を引っ張られる。背中に硬い感触と腹部に回る締め付ける様な感覚。後ろから抱き締められていると気づいた瞬間、先程の恐怖が頭を過っては身体が震えた。
イルミの膝の上に乗ったまま、咄嗟にじたじたと暴れては逃走を試みるがイルミに耳元で「逃げたら犯す」と酷い脅しを喰らい、身体が硬直する。捕縛対象(私)が大人しくなったのを確認するとイルミはそのまま私のうなじ辺りに顔を埋めた。
彼が呼吸をする度に小さな吐息が私の肌に触れる。少し擽ったいそれは彼と私の距離が近いことを再確認させ、どうしようもないくらいの羞恥を感じさせた。

「サイカってさ、」

甘い匂いがする、そう彼は独り言の様に呟いた。
無意識に身体がびくりと震える。抑揚の乏しいその声は、緩やかに私の中に入り込みやけに頭に響いた。
毒されたのかもしれない。そう思ってしまう程、私に触れる彼の存在は確実に私の思考を蝕んでいた。

「サイカの身体から何かこう…甘くて、美味しそうな匂いがする」
「……それクッキーの匂いじゃないかな。さっき作ってたし」

身体に染み付いたんじゃないの?と言えば彼は間髪入れず直ぐに「違う」と否定した。

「そういう匂いじゃない」
「じゃあどんな匂いなの?」
「サイカの匂い」

予想外の答えに頭が一瞬真っ白になった。
嘘。冗談でしょ。甘い?美味しそう?ちょっと何言ってるかわからないです。

「サイカの匂いって嗅いでると凄く落ち着くんだけどさ、同じくらい、…何て言うんだろう…?もやもやする。もやもやって言っても嫌な感じじゃなくて、なんかこう、…上手く言えないけど…無性にサイカに触りたくなる」

本当に何言ってるかわからない。彼の言葉一つ一つに思考がぐちゃぐちゃに掻き回されては混乱していく。
一から順序立てて今自分に起こったことを整理しようとするが先ずその一すら見当たらない。それくらい私の思考は彼に乱されていた。

「んぐっ、」

停止したも同然だった頭は不意に強くなった腹部に回る彼の腕で現実に引き戻された。腹部を圧迫する腕は少し苦しかったが半面その苦しさが混乱していた思考をゆっくりだが確実に落ち着けていく。
一度気分を入れ換えようとゆっくり空気を吸い込んで大きく息を吐いた。その瞬間、仄かに香水の匂いが鼻腔に入ってくるのがわかる。
我が家には無い香りに疑問を覚え、匂いの元を辿ればイルミから香っていることに気付いた。
でもおかしい。私は男性用の香水には詳しく無いがこの薔薇の様な強い花の香りは明らかに女性用の香水のものだ。何故イルミからこんな匂いがするのだろう。
女性が関わる仕事でもしてきたのだろうか。暗殺という仕事の中で異性と近しい関係になるのは珍しいことではない。相手と深く関わることによって情報を引き出したり仕事の達成率を上げたりするのに利用することはあるだろう。…私は異性との関係を作るのが下手な上に苦手なため、やらないが。
兎に角、イルミは今日行ってきた仕事で女性と香水の匂いが肌に染み付く程度に接触して来たということだ。しかも…その、予想になってしまうがきっとそこで何かあったんだと思う。
具体的に何があったかという私の勝手な憶測は割愛するが何かあったその結果がきっと、先程の私に対するあの行動に繋がるんだろう。そうとでも考えないと先程のイルミの意味の理解し難い行動に納得する理由が見出だせない。
要するに自分は不満の捌け口にされていたのだ。そう答えが出た途端、僅かな苛立ちと共に落胆にすら似た感情が自身の内より湧き出てくるのがわかった。
苛立ちの理由はわかる。人を勝手に不満をぶつけては痛い目に合わせた彼に対する怒りの感情だ。ならば落胆は何だ。何私は一体彼の何に落胆したのだろう。

彼が私に対して特別な感情を抱いていることでも期待したんだろうか。

「…っ!」

浮かんだ考えに頬が一気に赤く染まった。違う、とその考えを掻き消す様に咄嗟に顔を手で覆い隠す。

「どうしたの?」
「な、何でもない!」

もう正直こんな考えが浮かんだ自分がどうしようもなく恥ずかしくて死にそうだった。羞恥と混乱にぐるぐると沸騰していく頭をどうにかしようと辺りを見回せばテーブルに置いてあったクッキーが目に入る。口に食べ物でも入れれば落ち着くかもしれない。そう考えては先程焼き上がったばかりのそれにイルミの膝の上に座りながら手を伸ばし、一枚掴んで口の中に放り込んだ。焼き菓子の甘い味が口の中に広がる。ちょっと落ち着いた気がした。

「オレの分も取って」
「今元気が無いから自分で取って…」
「サイカが上に乗ってるから取れない」
「……」

じゃあ離せよ。
そう苛立ちつつも仕方無く再び身を少し乗り出して今度はクッキーが乗った大皿ごと手に持ってイルミに突き出す。彼はクッキーを一枚手で取ると無表情のまま口に入れた。

「チョコ…とアーモンドのクッキー?」
「うん。あとナッツも入ってる」
「ふーん…あ、こっちの赤っぽいのは?」
「林檎と苺のジャム乗せたやつ」
「林檎と苺?何か変わってるね」
「食べてみなよ。意外と美味しいよ」

そう言うとイルミは赤いジャムが乗ったクッキーを摘み、口の中に入れた。サクサクと咀嚼音が部屋に響く。

「美味しい?」

何と無く感想が気になってそう訊けばイルミは無言で首を縦に振った。その反応が妙に子供っぽくて無駄に可愛げがあるから少し心臓が跳ねる。頬に再び熱を集めながらもそのままじっと彼を見た。どうやらイルミはジャムのクッキーが気に入った様でそればかり大皿から拐っていっては口に入れている。

「ジャムのばっかり食べないでよ」
「だってこっちの方が美味しい」
「だからって……うわ、ジャムクッキーだけ異様に減ってる…食べるの早いよ…」

もう食うな!と言いながらチョコとジャムの比率が偏ったクッキーが乗った大皿をイルミから遠ざけ、テーブルの上に置く。彼は僅かに不満気な雰囲気を出しながら手を私の腹部の辺りに回しては再び抱き締めた。

「イルミさ、もしかしてお腹空いてる?」
「うん」
「じゃあ早めにご飯作るからちょっと離して」
「嫌だ」

離れようとすれば先程よりも強い力で腹部周辺が捕らえられる。意味の理解し難いイルミの言葉に疑問を覚えたが直ぐに腹部に回る彼の手の感覚に気を取られた。男性特有のごつごつした手でむにむにとお腹のお肉を揉まれる感覚は微妙に擽ったい。そのもどかしい擽ったさに我慢出来なくなり、腹部を這い回るイルミの手を軽く何度か叩いた所で漸く彼は私のお腹を揉む手を止めた。

「お腹空いてるんじゃないの?」
「空いてるけどサイカを離すのが嫌だ」
「……あ、そう…。じゃあ離さなくていいからお腹揉むの止めて。擽ったい」
「ん?なら代わりに何処触ればいいの?胸?」

そう言うと彼は私の両胸を両手で鷲掴む。胸の肉に埋まる指の感触に頭が一気に沸騰していくのがわかった。咄嗟に私の胸を掴むイルミの手を素早く引き剥がし、胸元を自分の両手で隠して防御する。思い切りイルミを睨めば彼はきょとんとした顔で首を傾げた。

「セクハラすんな!!」
「じゃあ他に脂肪がついてる柔らかい所ってある?太股?二の腕?」
「遠回しに太ってるって言いたいの…!?」
「だって事実だろ」
「……っ!」

イルミの言葉が大分深く胸に突き刺さる。確かにお腹とか腕とか太股はちょっと…大分?いや、ちょっとだちょっと。ぷにぷにしてるけどほら、まだ辛うじてくびれとかある…うん、ある、あるんだよ。まだ大丈夫まだ大丈夫。
頭の中で然り気無く最後に計った体重と体脂肪率を思い出して無かったことにしていればいつの間にかイルミは再度私の腹部に手を回していた。

「で、結局どこなら触っていいの?」
「……」

どこも嫌です。
と言いたい所だがそんなことをしたら彼はまた予想を大きく外れた行動を起こしそうで怖い。暫く悩んだ結果、「お腹ならいいよ」と言って決着がついた。
彼は特に何も言わず私の肩に顎を置いて先程と同じ様にお腹に手を回しむにむにと触り始める。何だか凄く疲れた様な気がした。
大きく溜め息を吐きつつ後ろにいる彼を背凭れにする様に体重を掛けて寄り掛かる。硬い筋肉で覆われた胸元は背凭れにしてもそこまで悪くない。
お互い何を言うでも無く外界から隔絶された様な静寂が部屋を支配する。お互いの僅かな衣擦れと呼吸音、そして自身の心臓の脈打つ音だけが落とされた奇妙な静寂は心地の悪いものでは無く、寧ろぬるま湯に浸かる様な穏やかさを孕んでいた。
特に何をする訳でもなくぼんやりしていれば視線は無意識に部屋にある壁掛け時計に向く。時計の示す時刻はまだ夕飯を作るには早い。あと一時間くらいしたらご飯を作ろう。背中や手から伝わる彼の体温を感じつつ少しだけ目を伏せた。




部屋に広がる揚げ物特有の匂いと汁物の出汁の匂い。
サイカの手によってテーブルに次々と並べられていく天麩羅をメインに揃えられた料理の数々。料理に合わせたのであろう和風の皿や器に乗せられた料理はどれも丁寧に盛り付けられており、彼女が作ったと知らなかったらジャポンの料亭料理にも見えたかもしれない。
彼女は最後に炊飯器から炊きたてのご飯を茶碗によそい、オレと自分の汁物の左に置いてから席に着いた。

「サイカって料理好きなの?」

皿に盛られた天麩羅を橋で摘んで天汁に付けつつ、前々から頭の中に浮かんでいた疑問は殆ど無意識に口から出ていた。サイカは唐突に掛けられた質問に驚きつつも今口に入ってるからちょっと待て、と目で訴えられた。小鉢の中のほうれん草の白胡麻合えを口に入れた所だったらしい。
サイカを待つついでにそのまま自分も天麩羅を齧る。淡い黄色のサクサクした衣の食感と海老の風味。あまり食べ慣れないそれは中々悪くない味がした。
天麩羅を齧りつつサイカを見れば、口に入ってたほうれん草を飲み込み終わったのか脇に置いてあった湯飲みに入った緑茶を啜りながら口の中を落ち着かせていた。

「えっと、何だっけ?料理の話?」
「うん」
「料理するのはねー…うーん…わかんない」
「好きじゃないの?」
「いや、好きだよ。元々食べるの好きだし。料理本とか見てレシピ増やすのも楽しいし、美味しいの作れたら嬉しいし。でも正直面倒だなって思う時もあるし…やっぱ微妙かなー…」

そう言ってサイカは湯飲みを置いて今度は野菜の天麩羅を箸で掴んで齧った。
海老の天麩羅を食べ終わったオレは汁椀に入っていた蛤のお吸い物を啜る。

「でもね、イルミが来てからは前より料理するの楽しくなったよ。いつも作ったって食べるの私一人だけだったからイルミが『美味しい』って食べてくれるのが凄く嬉しい」

誰かのために作るのってこんなに楽しいなんて思わなかった。
そう言って少し照れ臭そうにサイカは笑う。どくん、と心臓が高鳴ったのがわかった。サイカのその笑顔が何かのフィルターを掛けたかの様にきらきらして見えて何より全ての動作を一瞬停止してしまうくらい目を奪われる。
どくどくと五月蝿く脈打つ心臓を落ち着かせながら蛤のお吸い物を啜りながら天麩羅をおかずに白米を美味しそうに頬張るサイカを見た。丸い頬を少し膨らませて食べ物をもしゃもしゃと咀嚼する彼女は小動物の様だ。

「あ、そこの急須取って」
「これ?」
「うん」

テーブルの端の方にあった急須を手に持ちサイカに渡す。彼女は少し身を乗り出して急須を受け取るべく手を伸ばした。その際に第一ボタンの外された彼女の白いシャツの襟が揺れ、隙間から白い首筋が覗く。気づけば先程付けた赤黒い鬱血が覗く首筋に視神経が集中していた。
ふと脳裏に彼女の柔肌に触れた感覚が蘇る。滑らかで柔らかく、丸みを帯びた肉の感触。砂糖とも花ともつかない甘い香り。
情欲と安堵を同時に煽るそれらは恐らく今まで歩んできた人生の中で味わったことの無い感覚を次々と自分に与えてくる。例えば先程彼女に思い切り拒否された行為。あんな風に女を襲ったのなんて初めてだった。あの時は自分でも不思議なくらい理性が効かなかった。サイカの処女が他の男に取られたら、という自分の勝手な想像に妙に苛ついて気づいたら彼女を押し倒していた。多分あのままサイカが抵抗しなかったらオレはそのまま濡れ場に突入していたと断言出来る自信がある。冗談抜きでそれくらいオレは興奮していた。
ふとオレはサイカの首筋から視線を逸らす。これ以上見ていると何か変な気分になって先程と同じことをしてサイカにまた蹴られそうだと思った。上手く相殺したとはいえ、異性にあそこまで念の隠った破壊的な蹴り(生身なら多分死んでた)を喰らわされたのは初めてだったんじゃないだろうか。サイカと出会ってから色んな初めてばっかりだ。それはサイカも同じなのだろうけど。
首筋から逸らしたはいいが行き場の無くなった視線をゆっくり動かしていればサイカの丸い瞳と目が合う。そのままじっ、と彼女を見ていればサイカは不思議そうに首を傾げた。

「何か顔についてる?」
「ついてないよ」

そう、と一言呟いて彼女は大してオレを気にする様子も無く急須を持ち上げていつの間にか空になっていた湯飲みに渋い香りを漂わす透明感のある薄緑色の液体をゆっくり注いでいく。その仕草をじっと見ていれば「イルミもお茶のお代わりいる?」と声を掛けられたが断っておいた。緑茶を注ぎ終わった彼女は急須を置いてからそっと湯飲みを持ち上げてふー、と息を何度も吹き掛けて緑茶の表面を冷ましている。猫舌なのかもしれない。
そうやってサイカを観察していれば、ふと自分の肩の力が抜けていることに気づいた。サイカの側はあまりにも心地好くて彼女が赤の他人にも関わらず気づけば自分はサイカの元に居座っている。迂闊に他人に気を許すな。そう自分は叩き込まれて育ったし弟達にだってそう叩き込んで育てた筈だ。なのに何故自分はこうやって見知らぬ女に気の抜けた状態で共に生活しているのだろう。不思議だ。
不思議と言えばこの間サイカと同じベッドで眠った時やけに安心して眠っていた気がした。彼女の柔らかな身体を抱き枕にして、甘い香りを吸い込んで瞼を下ろせば心地の好いとろりとした眠気が襲って来たのをよく憶えている。他人があんなに近くにいてあそこまで無防備に熟睡したのは初めてだった。
安堵し、時に昂りさえする作用を及ぼす彼女の存在。サイカの身体の中には自分の知らない新種の麻薬が内包されていて、彼女はそれをオレの気付かない所で中毒になるくらい刷り込んでいる。なんて言われたら恐らく信じてしまうくらいオレは彼女に思考を蝕まれていた。
ずずっ、と冷ましたお茶を呑気に啜るサイカを見る。そんな彼女を見て無意識に浮かんだのは昨日の腕の中の柔らかな体温と甘い香りと心地好い微睡み。気づけば「もう一度味わいたいなー」なんて思い始めてるオレは宛ら中毒患者の様だった。

「サイカ」
「んー?」
「今日一緒に寝よう」

ぶはっ!とサイカが啜ってた緑茶を盛大に噴き出した。口から噴出された液体達は幸いにも料理には降り掛からなかったが代わりにサイカの口周辺を大きく汚した。噴き出された液体達は困惑した様な表情の彼女を余所にぽたぽたと顎を伝ってテーブルに雫を落としていく。状況が理解出来ず少しの間呆然としていた彼女は目を覚ましたかの様に唐突に我に返り、顔やテーブルに付いた液体達を急いでティッシュや布巾で拭った。

「あのさ、イルミ…今何て言った?」
「今日一緒に寝よう」
「意味が大分わからないんだけど…」
「そのままの意味だよ。一緒に寝よう」
「嫌だよ!!」
「何で?」
「何で、って…寧ろ私が何でイルミと寝なきゃいけないの…」
「昨日は寝ただろ」
「昨日は事故みたいなもんでしょ…!」
「サイカは憶えて無いだろうけど昨日一緒に寝よう、って誘ったのはそっちの方だからね」
「そんなの…っ」
「憶えて無い?憶えて無くてもサイカが誘ったのは事実だしそれにオレが応えて一緒に寝たのも事実だよ。だから順番からして、今度はサイカがオレの要望に応える番じゃない?」

そこまで言えばサイカは反論出来る言葉が見付からないのか顔を真っ赤にしてこちらを思い切り睨んだ。オーラも分かりやすいくらい刺々しく威嚇しているが正直サイカの子供っぽさが残る顔じゃ怖くも何ともない。
野菜の天麩羅をおかずに白米を口に入れつつ睨むサイカをじっと観察していれば耐え切れなくなった様に目を逸らされる。それが何だか面白く見えて思わず軽く鼻で笑えば顔を真っ赤にしたサイカが丸い目を吊り上げて再びこちらを睨んだ。

「とにかく!絶対!一緒に!寝ない!」

そう真っ赤な顔でサイカはオレに怒鳴りつけると残っていたおかずと白米と蛤のお吸い物を凄い早さで(大分行儀の悪い感じに)口に運んでいき、あっという間に空になった食器を乱暴に重ねてはシンクに放り投げる様に置いた(ガシャンと凄い音がしたけれどいいのだろうか)

「どこ行くの?」
「お風呂洗いに行くの!」

サイカはそう言ってそのまま逃げ出す様に風呂場に走っていく。ちらりと見えた横顔は耳まで林檎みたいに真っ赤だった。
変な奴、そう思いながら空っぽになった目の前の席に視線を移す。(手順は乱暴だったが)綺麗に片付けられた席と未だ料理が残る自分の席が同じテーブルに混在する状況は何とも不釣り合いでアンバランスに見えた。オレは二本目の天麩羅を箸で摘み、口に入れる。サクサクとした衣の食感と海老の味。先程と同じものの筈なのに妙に味気なく感じた。サイカがいないからだろうか。




熱いシャワーを頭から浴びながら溜め息を吐いた。イルミの言動と行動がよくわからない。彼が家に押し掛けてきてから何度この問題に頭を抱えたのだろう。
ヒソカに紹介された後一緒にパーティーに行って、殺され掛けたと思ったらいきなり家にやって来て、そのまま居座っていつの間にか一緒に寝てて、おまけにさっきは急に押し倒されて貞操の危機にあった。……纏めてみたが実に滅茶苦茶だ。
近い内に追い出そうか、と考えてみるがきちんとした理由を提示出来ない限りあの能面顔で迫られた挙げ句、事態が可笑しな方向に転がるのが目に見えている。……彼を追い出すのでは無く私が出てくのはどうだろう。家主が居候を理由に出てくとはかなり滑稽だがそれもまた一つの選択としては有効なのかもしれない。

「……つーか出てくも何も私、あと少ししたら実家帰るじゃん…」

なら別に無理に追い出さなくともイルミとはあと半年もしない内にお別れだ。
二度目の溜め息を吐き、無意識に目の前にあった鏡へと視線を動かす。鏡に映る濡れた自分の身体と赤黒い傷痕。指先で首元の鬱血や赤い歯形をなぞれば先程のことが鮮明に脳裏を過る。
押し倒された時の衝撃、噛み付かれた時の痛み、肌を吸われた時の刺激、彼の手が身体に触れる時の感覚。全部が全部、得体の知れないものの様に怖かった。
しかし抵抗した後に抱き締められた時はあまり怖いとは思わなかった。寧ろ身体に回る彼の腕も触れ合った場所から伝わる体温も全部心地好くて正直先刻起こったことを全部許せてしまうくらい安心し切っていた。
襲われ掛けといて随分と太い神経をしている。危機感と言うのが欠けているのかもしれない。或いは私は彼に気を許し過ぎてしまったのかもしれない。

「馬鹿みたい」

殆ど無意識にその言葉は口から漏れた。赤の他人……それも半年もしないで会わなくなる他人に、そこまで気を許してしまった自分が嫌になる。イルミに限ったことじゃない。どうせ私は家出をしてから10年、今まで築き上げてきたものを全部捨てて、家に帰って幸せな道を歩むんだ。それなのにどうしてこんなにイルミのことばっかり考えているんだろう。イルミなんてどうでもいいじゃないか。
私はコックに手を伸ばし、そのまま捻ってはシャワーから流れ出るお湯を止めた。ぽたぽたと水が滴り落ちる髪を軽く絞ってから浴室を出て、柔軟剤の香りがする真っ白なバスタオルで身体や髪に着いた水分を拭っていく。
風呂上がり特有の逆上せた頭でふと思い出す。イルミがなんか一緒に寝ようとか言ってなかったっけ。

「……」

私は思い出した記憶を無かったことにしつつただ無心で身体や髪に残った水分を念入りに拭っていく作業に没頭した。

20130625