今回の仕事のターゲットはとある企業の令嬢。ミルキから少し前に送って貰ったデータに因ると、彼女は念能力はおろか戦闘能力も無い極普通の一般人。男遊びが激しく、パーティーに良く参加しては好みの男に言い寄りそのままお持ち帰りコースというのがザラらしい。
これらのデータや依頼人の条件を整えた結果、パーティーで誘い出して殺すのが手っ取り早いと考えたオレは、現在自分の顔をターゲット好みのものに針で作り変えては彼女が参加するパーティー会場に潜り込んではターゲットに話し掛けるチャンスを窺っていた。
ターゲットは知人らしい女性と話している。どうやら話はまだまだ続きそうだ。どうして女の立ち話というのはこうも長いのだろう。自分は早く仕事を終わらせてサイカの家に帰りたいのに。
ターゲットを視界に入れつつ周りを少し確認した。きらびやかなシャンデリア、丁寧に磨かれた大理石の床、立食形式で置かれた豪華な料理、会場内を流れる穏やかな曲、それに合わせて踊る男女。昼間から随分暇なことだ、何て思いつつ小さく溜め息を吐いてはふと思い出す。そう言えばサイカと行ったパーティー会場もこんな感じだった。パーティー会場なんてどこも似たようなものだと思うが何故か彼女と行ったあのパーティー会場が脳裏に浮かぶ。いや、正確に言うとパーティー会場では無くあの時に自分の隣にいたサイカが浮かんだ。
時間を掛けて丁寧に着飾られた彼女。うなじが見える様に結われた髪も胸元の開いたドレスも首元に飾られたアクセサリーも指先を彩るネイルも全てが全て、彼女を引き立てていて酷く魅力的だった。
あまりにも綺麗で、可愛らしくて正直かなり動揺してしまったことをよく覚えている。その直ぐ後に滅多に口にしない言葉が出たことも、だ。
そうこう思い出している内にずっと話していた女性がターゲットから離れていく。チャンスと言わんばかりのその状況を確認しつつそっとターゲットに近付いては声を掛ければターゲットは一瞬値踏みする様な顔でオレの上から下まで見た後、嬉しそうな顔で対応を始める。
あ、これはいけるな。なんて思いながら一応失敗した時用のプランも頭に浮かべつつも彼女の下心の見え隠れする世間話に適当に相槌を打つ。数分も会話を続ければゆっくりと彼女がオレの方へと距離を縮めてはそっと耳打ちをした。そこはかとなく上品にぼかされた言葉を要約すると「上に部屋があるからヤろう」という意味だった。どうやら上手くいったらしい。
オレは自分の顔にターゲットの艶の含んだ笑みに合わせるかの如く微笑みつつ(普段使っていない筋肉がびきりと悲鳴を上げた気がした)、彼女の腰をそっと抱いてはパーティーを後にした。




「ねぇ、今着てるこのドレスどう思う?」

パーティー会場であるホテルの最上階。ターゲットの墓場になる予定の部屋に向かう途中、彼女は唐突にそんなことを言った。
改めて彼女のドレスを見る。深い赤い色の胸元が開いたマーメイドラインのパーティードレス。そう言えばサイカもこんな色のドレスを着ていた。デザインはもう少し子供っぽいものだったが。そういえばサイカはあの臙脂色のドレスをまだ持っているんだろうか。持ってるなら頼めばもう一度着てくれるだろうか。今度訊いてみよう。
……そんなこと考えている場合じゃない。段々逸れていく思考を軌道修正しつつターゲットには適当に「似合うよ」と一言囁いた。

「本当?少し地味な色だったから心配だったのよね」

そう言って彼女は唇に弧を描き、オレの腕に絡めた手で豊満な胸をオレの身体に当てる。女特有の柔らかい脂肪の感触。おかしい。サイカがオレの腕に胸を当てた時は少なからず動揺したというのに目の前のこの女に対しては特に何の感情も浮かばない。
冷静になって考えてみれば異性に触れられて動揺したのなんて恐らくサイカが初めてだ。それ以外の女なんか触っても、その先のことをした所でこれと言って何か思ったことなんてなかった。
やっぱりサイカはオレにとって何かが特別なんだ。
改めてオレの彼女に対する感情の異常性に気付いた所でふとターゲットを見た。目の前の女は唐突に足を止めては科を作って緩やかに自分の顔をオレの顔へと近付けてくる。廊下には誰もいない。
そのままターゲットの要望に応えるかの如く彼女の腰に手を回し、そのままお互いの身体を密着させては唇を寄せた。自分の唇にターゲットの唇が重なる。鼻腔に届く香水の人工的な甘ったるい匂いと赤いルージュが唇に纏わりつく感触が煩わしい。ターゲットが舌を入れて来たのでそれに応える様に自分も舌を伸ばしては彼女の身体を抱き寄せる。
ターゲットの身体の感触は少しサイカの身体の感触に似ていた。体型が似ている(腰回りの肉付きや全体的な柔らかさはサイカのが多少上だが)からなのかもしれない。だが全くと言っていい程心地好さも安堵感も得られない。何故だろうか。感触は似ている筈なのに抱く感情は正反対なものだ。
柔らかくて暖かくて落ち着く。彼女の身体を抱き締めた時の感覚を言葉に表すならそんな感じ。彼女に触れていない時にさえ浮かぶその感覚はまるで酷く心地の好い麻薬の様であり、恐ろしい程の中毒性を携えている。
対するこの目の前の女はどうだろう。顔の造形も体型のバランスもサイカより数段上だ。仄かに香る人工的な花の匂いも、唇に乗った真っ赤なルージュも、露出の高いパーティードレス。自身の魅力を充分に理解した上で飾られたそれらは異性として魅惑的に感じるものである筈なのに何も感じない。それどころか今この場にいない人間のことを思い浮かべては求めている。
名前もわからないこの感情は一体何なのだろうか。
そうぼんやりと考えていれば不意にターゲットの唇が離れる。唾液で少し溶けたルージュの感触が若干鬱陶しい。
口を拭いたい衝動に駆られながらもターゲットを見る。彼女は満足そうな笑みを浮かべ、再びオレの腕に自分の腕を絡ませてはそっと廊下の奥にある一室を指差した。どうやらあそこが目的地らしい。こんな目と鼻の先に部屋があるのに何故ここでキスをしたのだろう。そう思いながら彼女を見れば「部屋まで我慢できなかったの」なんて言いながら艶掛かった笑みを浮かべてはそのまま彼女はオレの腕を引っ張り、部屋へと足を踏み入れた。
ばたん、と少し重い扉が閉まり外界とは隔絶された空間が生じる。オレはそっと懐から針を数本出し、ターゲットが自分に背を向けた隙にそのまま針を頭部目掛けて投擲した。悲鳴を上げる暇も無く、一瞬で絶命した彼女。倒れていく死体を横目にオレは溶けたルージュがこびりついた口元を自分の袖で拭う。乾いてしまったせいか中々取れない。少し苛立ちながらも幾つかの後処理をしてその場を後にした。




サイカのいるマンションへと戻り、現在自分が借宿としている部屋の扉を開く。そのまま玄関で靴を脱ぎ、キッチンとリビングがある部屋を繋ぐドアを開けた途端、入ってきた焼き菓子独特の甘ったるい匂い。
またお菓子でも作っていたのだろうかと思いつつリビングの方へと進めばソファーに座ったサイカがいた。

「あ、お帰り。結構早かったね」

サイカはソファーにのんびり座りながら雑誌を読んでいた。テーブルの上には湯気を立てる紅茶と、様々な形や飾りを付けられたクッキーが皿の上に山積みにされていた。この甘ったるい匂いの原因はこれか、なんて思いつつもソファーで座る彼女にそっと近寄っていく。

「クッキー焼いたんだけど食べ…えっ!?」

細い肩を少し強く押せばその柔らかな身体は容易にソファーへと背中を預けた。雑誌を硬く握り締めたまま驚きの表情を浮かべ硬直するサイカをそのままに、彼女の身体の上に馬乗りになり彼女の顔の横に両手をついては覆い被さる。
驚いたまま硬直していたサイカはそこで漸く我に返ったのか間の抜けた様に開けられていた唇を慌てて動かし、言葉を紡いだ。

「な、何する気なの…?」

何をする気なのか、そう訊かれて少し考えてしまった。自分は一体彼女に何がしたいのだろう。わからない。
ただ何と無く彼女に触れたかった。彼女を近くに感じたくて堪らなかった。
そんなことを頭の中で思いつつも、若干怯えの色が浮かぶ彼女の表情を視界に捉えながらその白い頬へと手を伸ばす。むにむにとした頬の肉の柔らかな感触が指先に伝わっていく感覚が妙に楽しい。
頬を指先で弄って遊ぶオレに彼女は困惑した様な表情を浮かべる。そんなサイカをじっと見ていると気付けば視線は彼女の唇へと移っていた。
血色の好い赤みの強い唇。熟れた果物の様な印象を受けるそれは一体どんな感触なのだろうか。
薄く開いたその唇の輪郭を人差し指の腹でなぞる。淡い熱の通ったそれに少し指を沈めれば僅かな弾力性を孕んだ柔らかな感触が指の先から伝わった。そのまま何度も何度も唇を軽く押し、ぷにぷにとしたその感触を確かめる。
桜桃の様なそれに触れるのが段々と楽しくなってきた頃、サイカが困惑した顔で「え…」とか「なに…?」とか曖昧な声を上げた。
小さく動く唇。それを見詰めていればふと、先刻終えた仕事を思い出した。正確に言えば思い出したのは自身の唇に触れたあの女の感触だ。唇に纏わりつくルージュの感触、口に割って入ってくる舌の滑りとした感触。慣れた筈のそれらに自分は不快感と嫌悪感を催した。
ならばサイカはどうなのだろう。彼女のその唇に触れた時、自分はどういった感情を抱くのだろう。単純な好奇心が胸の内を支配した。
オレは彼女の唇に触れていた指先をそっと桃色に染まった頬へと移動させる。ぴくりと彼女の身体が僅かに震え、雑誌を握る手はより一層強くなった。

「な、何……?」

不安そうな顔で疑問を投げ掛けるサイカ。そんな彼女の問い掛けには応じずそのままゆっくりと自分の顔を彼女の唇に近付けていく。1センチ、2センチ、と緩やかに縮まっていくお互いの距離。彼女の唇と自分の唇が間近に迫っていったその時だった。

「え」

不意に何かが目の前を通り、映っていた景色は彼女の顔から唐突に「月刊スイーツ百選!」というタイトルの入った雑誌へと変わった。どうやらサイカがオレと自身の間にこの雑誌を入れて遮ったらしい。
視界を遮っている雑誌を彼女の手から半ば強引に奪い、その辺に放り投げれば頬を真っ赤に染めて先程より更に困惑した様な表情を浮かべた彼女と目が合った。

「何でこんなことするの?」
「それはこっちの台詞!一体私に何しようとしたの!?」
「何って……キスだけど」
「キスっ!?」

そう言って彼女は頬を林檎みたいに真っ赤に染め上げ、困惑を通り越して混乱した様な表情をその顔に浮かべた。

「な、何でそんなこと…!」
「何で、って…何と無く」
「何と無く!?」

今度は「ありえない」と言わんばかりの顔で彼女はこちらを見詰めた。キスぐらいで大袈裟なリアクションだ。別にキスぐらい初めてって訳でもないだろ。そう思ったことをそのまま口にすれば彼女は突然押し黙り、頬を朱色に染めたまま目線を逸らした。

「……もしかしてキスもしたことないの?」

浮かんだ疑問をそのまま口にすれば彼女はこちらに視線を戻し真っ赤な顔で思い切りオレを睨んだ。全然怖くない。

「え、ちょっと何!?」

そのままオレはサイカの首筋に顔を埋めて横になったままの彼女の身体を抱き締める。必然的に彼女の身体にオレの体重が全部掛かることになるが、女とはいえこの程度の重さで潰れる様な柔な鍛え方はしてないだろう。そう思って気にしないことにした。
顔を埋めた首筋から漂う柔らかな甘い香り。安心感を孕んだサイカの匂い。
安堵を求めた筈のこの行為にどくりと心臓が跳ねるのがわかった。処女な上にキスもまだ。今この場で犯してしまえばこの世で彼女の全てを知る最初で最後の人間になれる。頭の中に浮かんだ欲がじわじわと自身を蝕んでいく。
息を吐く度に入り込む柔らかな甘い匂い。安堵を与えるそれは同時に酷い劣情さえ煽った。理由はわからない。だが気づいた時にはサイカの首筋にそっと舌を這わし、白い肌に噛み付いていた。




首元に這う、ねちゃりとした感触。生暖かく、軟体と言うには少し硬度のあるそれが彼の舌だと気付き、声にならない悲鳴が上がる瞬間だった。先程まで舌が這っていたそこに彼の歯が降ってきた。

「、痛っ、!?」

首元の皮膚が突き破られ、血が滲む感覚。噛む、と言うより抉ると言う表現がしっくり来るその痛み。抵抗しようと反射的に右手が振り上がる。そのまま彼の頭なり肩なり叩こうとすれば不意に彼の左手が私の手の指先を絡め、強引にソファーに押さえ付けた。今度は逆の手を振り上げて抵抗を試みるが空いていた彼の逆の手で先程と同様にまた押さえ付けられる。懸命に手の拘束を取ろうとじたじたと藻掻くが純粋に力負けしているせいなのか一向に解ける気配が無い。それどころか彼の爪が手の甲に食い込んで更なる傷を増やしているだけだ。

「…っ、い」

不意に食い込んだ歯が肌から離れた。歯という杭を失った傷口から血が溢れてくるのがわかる。結構深いんじゃないだろうか、この傷。
ずきずきと痛む首元を心配していれば不意にねちゃりとした舌の感触がした。
ぐりぐりと押し付けられるそれは唾液と共に傷口に入り込むせいか滲みる様に痛む。傷口が首元というのもあるせいだろうか。うっすらと生命の危険すら感じた。

「イルミ、離して、」
「やだ」
「ふざけ、っひゃん!?」

唐突に傷口を吸われ、身体がびくりと震えた。肌に滲みる様な感覚とちくりとした痛みが走る。口にした文句は反射的に出た悲鳴染みた声に掻き消されてはそのまま続くことなく閉ざされた。
どうしよう、変な声が出てしまった。その事実に頭が茹る様に熱くなり、襲ってきた羞恥に顔が真っ赤に染まっていく。
私が混乱してる隙にイルミは私の腕を頭上で一纏めにし、右手だけで押さえ付ける。彼の片手が完全に空いてしまった事に嫌な予感を覚え、不安にも似た恐怖が背筋を駆け抜けていく。腕の拘束を取ろうとじたじたと必死に藻掻くが性差を含めた根本的な力の差のせいで解ける気配すら見せてくれない。
手首に気を取られている内に気付けば彼の唇が噛み傷から鎖骨の辺りに移動しているのがわかった。
そのまま強く吸い付かれ、その際に身体に走ったちくりとした痛みに思わず声が出そうになり、唇を硬く噛み締める。
硬直する私を余所に彼がそっと鎖骨から唇を離し、今度は場所を少しずらしては再び肌に唇を落とした。何度も何度も走るちくりとした痛みに身体は震え、情けない声を出さない様により一層唇を噛み締める。
どのくらいの時間が経ったのだろう。執拗に繰り返されていたその行為は唐突に止んだ。気付けば噛み締めた唇に僅かに血が滲み、首元には彼に施された無数の傷痕が咲いている。
肌に走る感覚のせいだろうか。無意識に何処か麻痺していた頭で不思議に思えば唐突に彼は私の首元に埋めていた顔を上げる。
視線が合った黒い瞳に思わずどきりとしてしまった。

「サイカ」

不意に呼ばれた自分の名前。意識を蝕んでいく様な艶やかさを孕んだその声はやけに優しい。
何の意図があって呼ばれたのかわからない私の名前は、麻痺した頭を熱に浮かすには十分過ぎる程の力を持っていた。
そのままイルミの手がそっと私の服の裾から中へと侵入していく。ゆっくりと、一つ一つ確認していく様に私の肌を這う体温の低い手。
その手が胸の下辺りまで到達し、下着に手が掛かったと感じた瞬間だった。先程まで頭を支配していた熱は唐突に消え去り、その代わりに言い様の無い恐怖と不安に挿げ替えられた。

「や、やだっ…お願い、やめて」

段々頭が冷えていくと同時にこれから自分が何をされるのかがはっきりとした形で見えてくる。どうして最初からもっと抵抗しなかったのだろう。押し倒された時点で予想は出来た筈なのに何故大人しくされるがままだったのだろう。
後悔の二文字が鮮明に浮かぶ思考の中、服の中に侵入し、下着をずらし上げる彼の手にただ恐怖を感じた。

「お願い、やめて」

怖くて制止を促す声すら震えていた。少し気を抜けば涙さえ溢れてしまいそうだ。
身を捩って、じたじたと小さく抵抗をしてみるがそれでも彼の手は止まらない。それどころか下着がずり上がり剥き出しになった乳房を鷲掴んでいるじゃないか。
このままでは不味い。こんな状態で大人しくしていたら大事なものを失い兼ねない。頭の中で危険という文字が大きくなった瞬間、無意識に膝に力が籠った。

「……っ、!やめてって言ってるでしょ!!」

がんっ!と鈍い音が部屋に響いた。一瞬腕の拘束が緩み、その隙に思い切り身体を捻ってはソファーから床に降り(落ち)ては直ぐに部屋の端に寄ってはイルミと距離を取る。
ずらされたブラジャーを直しつつ彼の方を見た。その黒い瞳を丸くし、何処か驚いた様な表情を向ける彼は現状を上手く把握出来てない様に見える。
イルミの腹部を膝で思い切り蹴った。
私が何をしたか簡単に説明するとそんな感じだ。勿論ただの蹴りでは無く、常人なら容易に腹ごと根刮ぎ吹っ飛ぶくらいの念を込めた高威力のものだ。
正直な所、イルミを殺す覚悟(そのくらい私も切羽詰まっていた)で繰り出した蹴りだったが、流石はゾルディック家の長男というだけあってイルミは私が蹴りを咬ます瞬間に腹部に念を込め、上手く威力を相殺して無傷。だが流石に不意を突かれて腕の拘束は緩んだらしく私が逃げるには十分な隙が出来た。

「……」

さて、ここからどうするか。首とか肩の辺りが噛まれたせいでじわじわ痛いせいで思考が少し鈍る。そう言えば首とか胸元の吸われたところが赤黒くなってるけどこれって、…その…キスマークというやつじゃないだろうか。あれって私の中では恋人やそれ以上の間柄でやるものという認識だ。この人本当にどうしたいのだろうか。
ぐるぐると混乱していく頭を整理しつつ、イルミを見る。心無しかこちらを見詰める彼のオーラが宜しくない感じに揺らめいている気がした。怒っているのかもしれない。
背筋に形容し難い恐怖が走る中、乱された衣服を整えながらもただひたすら彼の怒りを抑えて逃げることだけを考えた。

「サイカ」

イルミが唐突に静寂を破った。抑揚の乏しいその声は心無しかいつもより威圧的なものを含んでいる気がする。

「こっち来て」

ソファーに座り直し、こちらをその黒い瞳で見詰めながら静かに言った。
咄嗟に首を横に振って拒否すれば彼が目を僅かに細め、こちらを見る。

「来ないなら今直ぐサイカを捕まえてさっきの続きするけどいいの?」
「……」

この人と本気の鬼ごっこをして私は勝てるんだろうか。そう思いながら冷静に自分の今のコンディション(最悪な部類)と彼の身体能力と念能力(ほぼ未知数)を計算し、本気で逃げた場合の結果を推測してみた。頭に浮かんだ未来の映像はイルミに負けて先程と同じ体勢に持っていかれている自分の姿だった。
逃げるか、投降するか。どちらを選んでも結果は同じな気もする。

「……」

早くしろ、と無言でこちらを睨んでくるイルミが怖い。逃亡or投降。二つの選択肢の前に私はひたすら悩んだ。悩んでいる間も然り気無く敵(イルミ)を窺うが残念なことに目付きがどんどん悪くなる様子が見えた。
これは不味いかもしれない。時間が経つごとにイルミの機嫌が悪くなっていく。即ち私の身に及ぶ危険度も上がっていく。
そう思った私は悩んだ末にまだ大事なものの喪失率が低そうな後者を選んだのだった。

20130423