先程からイルミが五月蝿い。私は自身のやらかした失態とかイルミのデリカシーの無さとかのせいで機嫌が良くないのだからその辺りを察して暫くの間放って置いて欲しいのにどうしてこうも私に付き纏うのだろう。
今だってこうして彼の言葉をとことん無視してネギを刻んでるというのにそれさえ気にせず話し掛けて来る。この人の頭の中に空気を読むという単語が無いんじゃないんだろうか。

「ねえ、サイカってば」

不意に胸の下辺りに違和感を感じた。するりと纏わり付いてくるそれは紛れもなくイルミの腕でそれに気付いた時にはもう遅く、全部を理解して行動を起こそうとする。しかし包丁を握っていた腕はいつの間にかイルミに掴まれて抵抗すら出来ない様に強く押さえ込まれていた。

「訊いてるの?」

背中に感じたイルミの感触に先程のことを思い出す。途端に溜まっていく頬の熱には気づかない振りをしつつ、握っていた包丁を離してはイルミの拘束から逃げようとじたじた暴れた。しかし抵抗も虚しく呆気なく片手で両腕を一纏めにされ、おまけに空いた片腕が胸の下に回されたせいで拘束は更に強められる。

「……っ、」

耳に掛かるイルミの僅かな吐息に首筋に垂れる髪の感触、それに服越しに感じる身体の温もり。距離が近いせいだろうか。彼を構成する存在一つ一つがやけに鮮明に感じられては心臓の鼓動を乱れさせ、思考を狂わし、頬に溜まる熱を段々と増やしていく。

「昨日も思ったんだけどさ、サイカの身体って柔らかいよね」

耳元で囁かれ、思わずびくりと身体が震える。それに気付いたのかイルミが「耳弱い?」なんて訊いてくるから慌てて首を横に振った。イルミは「なら耳元で喋っても平気だね」なんて言って近付けた唇をそのままにする。墓穴を掘った気がした。

「耳まで赤いけど平気?どうかした?」
「別に、どうもしない、」
「あ、漸く喋った。機嫌直ったの?」

イルミの問い掛けに首を縦に振る。本当は直ってないけどイルミに抱き着かれた状態で居続けるくらいなら自分の機嫌なんてどうでもいい。このままじゃ私の心臓か頭のどちらかが今の状況に耐えきれず死んでしまう。離して、と言おうとした途端、不意に私を掴んでいない方の彼の手が腹部から左胸に這っていったのがわかった。びくりと身体が跳ね、無意識に動作が止まり硬直する。左胸の上辺りで止まり、そっと確認するかの様に置かれたその手は緩い力で私の胸を上から少しだけ圧迫した。

「ねぇ、サイカ」

小さな吐息混じりに私の耳に滑り込んでくるその声は淡々としているにも関わらずどこか艶めいていて緩やかに私の脳に響いては思考を掻き乱していく。
心臓が五月蝿い。その内破裂するんじゃないかってくらいの鼓動を刻むそれは後ろにいる彼に聴こえてしまうんじゃないかってぐらい大きな音を響かせている。

「もしかしてさ、ドキドキしてる?」
「ち、ちがっ…!」
「さっきから手から伝わってくるんだ、サイカの鼓動」

そう耳元で囁きながら彼は先程私の左胸の上部…心臓の上辺りに置いていた手を示す。それに気づいた途端爆発するんじゃないかってくらい頭がぐるぐるしてて咄嗟に自分の手で私の胸にある彼の手を思い切り払い、身体を捻って私を抱き締めるイルミから少し離れた。
私のその行動に驚いたらしく彼はその黒い瞳を僅かに見開きつつも直ぐに私に手を伸ばし、今度は更に逃げ難い様に正面からがっちりと抱き締め、ホールドする。顔に当たる彼の胸板の感触に動揺しつつもじたじたと腕を目一杯使って暴れていたが先程と同じ様に片手一本で両腕を動かせない様に捕まえられた。自分の非力さを恨まずには居られなかった。

「何で逃げる訳?捕まえるの面倒何だから大人しくしててよ」

意味の理解し難い理不尽とも取れる言葉を私に投げ掛ける彼はさも当然と言わんばかりに空いてる片手を私の腰に回し逃げ場を塞ぐ様にがっちりと完全にホールドした。距離が近い……いや、近いどころじゃない。0だ。硬い胸板や意外にがっしりとした腕等の根本的に私と作りの違う身体が触れて伝わる感覚は、彼が異性だということを改めて認識させていく。頬が沸騰した様に熱く、心臓がばくばくと五月蝿い。
何も考えないように、と反射的に硬く瞼を閉じた。真っ暗な視界の中、抵抗(じたじた暴れるとか)は無意味だと判断し、「平常心」という言葉を胸の内で何度も何度も唱えては精神の安定を計る。小さく何度も息を吐いていけば少しずつだが心臓の鼓動が大人しくなっていき、沸騰した頬も僅かに冷めた。
先程より冷静になったせいだろうか、瞼の裏の暗闇越しに彼が私に何をしているか大分客観的に考えられる様になってきた。
彼の右手は私の両手を掴んで後ろ手で拘束し、空いた左手は私の背中や腰や腕等を確かめる様にまさぐったり揉んだりしている。完全にセクハラだ。先程それで私を怒らしたばかりだというのにこの人は何でこんなことが平気で出来るのだろう。本当に理解し難い。
彼に対し怒りを通り越して呆れを感じつつもふとあることに気づいてしまった。
勘違いかもしれない、と再度耳をそれに傾ければ冷めてきていた頬が再度熱くなり、心拍数が上がっていくのがわかる。多分だけどこの人は……、違う。この人「も」が正しい。きっと今彼は、

「オレの心臓の音、聴こえる?」

考えてたことを見透かされた様な言葉に思わず動揺した。咄嗟のことで何も言えずにいれば彼はそのまま自分の左胸に私の頭をぎゅう、と押し付ける。どくんどくん、と先程より鮮明に聴こえる心臓の鼓動は恐らくだが通常のテンポより少し速い。前もこんなことあった様な…と記憶を探れば直ぐに思い出す。イルミと行ったパーティーの帰りだ。あの時聴いた彼の鼓動も、こんな風に速い脈を刻んでいた。

「サイカに触るとさ、ふにふにしてて気持ち良くて凄く落ち着くんだけど妙に心臓が五月蝿いんだ」
「……」
「オレだけが変なのかな、何て思ってたんだけどさ、そうじゃないみたいだね」

サイカもドキドキしてるし、何て彼はそっと耳元で囁いた。僅かに触れた唇が、耳に掛かる小さな吐息が、心地好い無感情で柔らかな声が、全てが耳の奥に響いて一瞬にして頬が再び赤くなるのがわかった。
先程と同じ様に速い脈を刻み始めた心臓の音はきっと、触れた身体越しに彼にも伝わっているだろう。その事実は私の逃げ場をどんどん無くしていく様な、そんな気さえした。

「サイカは前にさ、これの原因が何なのかわからないって言ったよね?それってきっとあの時のオレの気持ちがわからなかったからだと思うんだ。でもさ、今は違う。こんなにドキドキしてるってことはサイカもオレと同じ気持ちでしょ?」

彼は私の腕の拘束を外し、代わりに両手で私の頬をそっと包み無理矢理目を合わせた。強制的に絡ませられた視線の居心地の悪さと気恥ずかしさに懸命に顔を逸らそうとするがそれを許さないと言わんばかりに頬を包む彼の手に力が隠る。痛い。

「ねぇ、この間サイカは『そんなのなったことないからわからない』って答えたけど同じ気持ちになってみてどう?これが何かわかった?」

私を見詰める彼は真剣そのものといった雰囲気でそう問い掛ける。逃げ出したい、漠然とそう思った。絡む視線も速い鼓動も熱い頬も彼の言葉も全部が全部どうしようもなくて彼が求めている答えの一つも思い浮かばずどんどん混乱していく自分が嫌でこのまま頬を包む手を振り払って何処かに逃げたいくらい恥ずかしくて堪らない。
逃げようと身動げば無理矢理合わせられる彼の瞳。墨を溢して煮詰めた様な真っ黒なそれに映る自分はみっともないくらい困惑した顔をしていた。

「ねぇ、教えてよ」

彼の顔がそっと迫ってくる。段々と縮まっていく彼と私の顔の距離にどんどん頭が真っ白になっていくのがわかり、気付けば反射的にぎゅ、と目を閉じていた。
そのまま数秒してゆっくりと瞼を上げれば酷く近い距離でばちりと彼と目が合う。彼の小さな吐息が私の唇を僅かに撫でる度に心臓が破裂しそうな程激しい脈を刻んだ。何か、言わなくては。ただそう思った。この死にそうなくらい恥ずかしくて苦しい状況から脱するにはそれしか無いとも思った。けれど何を言えばいいのだろう、と考えて浮かんだ一つの単語に頭が一気に真っ白になったのがわかる。
以前、同じことを彼に訊かれた時にも浮かんだその単語。仮に、今の彼の状態が浮かんだその単語ならば彼に言わせると「同じ気持ち」の私ならば……、とそこまで考えて頭の中が爆発した様な感覚に陥った。
いや、ありえない。そんなこと絶対ありえない。何で私がこんな意味がわからない自己中の塊みたいな人にそんな感情を抱かなければならない。何度だって言ってやる。ありえない。私がそんな感情抱く訳ない。
ならば答えるべき言葉は一つだけだ。

「知らない!」
「え」
「そんなの私が知る訳ないでしょ…!朝ごはん作るんだからいい加減離してよ!」

それだけ怒鳴り、自由になっていた手を使って私は再びじたばた暴れた。
ずっと大人しかった私が暴れ出したのに驚いたのか頬を包んでた手が離れる。その隙に逃げるべく距離を取ろうとすれば腕を強く引っ張られて再び腕の中に戻された。

「な、なに…!?」
「あと5分だけこうさせて」

後頭部を片手で押さえ込まれ、空いたもう片手で腰を掴まれ逃げられなくなった。5分、という言葉を胸の内で何度か繰り返しつつ心臓の鼓動を落ち着けるべく何度も小さく息を吐いていれば不意に腰を抱いていた彼の手が背中に回る。ぽんぽん、と労る様に擦るその手は妙に照れ臭かった。

「サイカは今日は仕事?外出る?」
「……今日は一日中家にいるつもり」
「へー。あ、オレさ、今日昼前に出るから昼食いらない」
「わかった」
「夜までには帰る予定だから夕食はいる。今日の夕食何?」
「一応天麩羅を予定してる…」
「天麩羅ってジャポンの海老の揚げ物だっけ?」
「うん。海老以外も揚げるけど」
「ふーん…そう言えば朝食は何?」
「豆腐と葱の味噌汁とご飯と一昨日作った肉じゃがの残りの予定」
「卵焼きは?」
「作ればあるけど…」
「じゃあ作って」
「いいよ」
「……」
「……」

そこで会話は止まった。大分落ち着いたせいだろうか。先程まで考えられなかった様な静寂がキッチンを支配していた。私の頭をぐりぐり撫でたり再び腰に手を回したりしている彼から察するにこの静寂に気不味さを感じているのは私だけの様だ。
そんなに人の身体を撫で繰り回して楽しいのだろうか。そう思いながらだらりと居場所無さげに垂らしていた自身の両腕を彼に回してみた。突然の私の行動に驚いたのか彼の私を抱き締める腕に僅かに強くなるがそれだけで特に何もない。
それを特に気にもせず彼の背に回した自身の掌で彼の感触を確かめてみた。
背中という部位のせいだろうか、掌に伝わる感触はかなり堅い。楽しくはなかったが別段不快でもなく、手の位置はそのまま、腕や背中から伝わる温もりの暖かさに誘われ、どくんどくんと脈を打つ心臓の音を聴きつつそっと瞼を下ろす。
5分何てとっくに過ぎていることに、私は気づいていなかった。

20130222