サイカは変だ。いや、具体的に言うと昨日の夜辺りの彼女が特に変だ。
サイカが仕事から帰ってきた時、何と無く出迎えたら彼女は凄く嬉しそうな顔をした。正確に言うとオレが普通に「おかえり」と言っただけなのに彼女は今までで一番嬉しそうな表情を浮かべたのだ。
その表情に疑問を抱きつつも彼女が「もう一回言って」と小さな声でせがんできたのでもう一度「おかえり」と言って上げた。すると先程より更に嬉しそうな笑みを浮かべて「ただいま」と小さな声で言った瞬間、胸の奥が言い様の無い昂りに包まれるのを感じた。
それは昂りはまだ足元の覚束無い頃の弟が小さな身体で一生懸命こちらに歩いてきては抱き着いて来た時の様な感覚に少し似ていた。
何で「おかえり」なんて単語を二度も言わせたのか。それが気になってサイカに聞こうと思った途端、サイカは嬉しそうな笑みを浮かべながら「これから晩御飯作るけどイルミも食べる?」なんて言ってきたからそのままうやむやになってしまった。因みに晩御飯はエビとトマトのスパゲティーとシーザーサラダだった。結構美味しかった。

「あ、しまった」

キッチンからそんな彼女の声が聴こえた。
今日は珍しく仕事が無く(偶然にもサイカも仕事が無かった)一日フリーだったので出掛けることもなくサイカの部屋で過ごしていた。
どうしたの?とリビングのソファーから声を掛ければサイカが溜め息を吐きつつこちらにやってきた。

「昼食の準備しようとしたんだけれど、冷蔵庫の中殆ど空だったの」

イルミがいるから消費量が二倍になったの忘れてた…、と再び溜め息を吐く彼女。
さっき(三時間程前)朝食(今日は目玉焼きとベーコンとトーストとコンソメスープだった)を摂ったというのにもう昼食の話とはサイカは随分と気が早い。
そんなことをぼんやりと呟けばサイカは「料理は下拵えから大事だから結構時間が掛かるんだよ」なんてむすっとした顔で言われた。サイカは料理に並々ならぬ手間を掛けてるらしい。
サイカはソファー脇に置いてあった厚手のカーディガンを羽織ると貴重品の入った鞄を持った。何処行くの?と尋ねれば彼女は「買い物に行ってくる」と簡潔に答え、更に「留守番宜しく」と続けてカーディガンを僅かに翻しながら背を向ける。無意識に自分の手が彼女の手に伸びた。

「…………イルミは人の手を掴むのが癖なの?」

オレに掴まれた手を目で指し、彼女は言った。こちらから見えた彼女の表情には勿論ながら呆れの色が浮かんでいる。

「何処まで買い物に行くの?」
「スーパーだよ、この近くにあるところ」
「スーパー?」
「うん、スーパーマーケット。行ったことないの?」
「ないよ。食料の買い出しなんか執事がやるし」
「………そういえばイルミはゾルディック家のお坊っちゃんだったね…」

スーパーどころかコンビニも行ったこと無さそうだよね、なんて彼女は言う。サイカは結構失礼だと思う。オレだってコンビニくらいなら行ったことあるよ。使用回数は片手で数えられるくらいだけど。
サイカは少し悩んだ様な仕草をして、こちらを見る。何だろう、と首を傾げればサイカはそっと口を開いた。

「一緒に行く?」





まだ寒さの残る気温の中、どんよりとした雲行きの怪しい空を視界の隅に入れつつ面倒なセキュリティのマンションから約徒歩10分。行き付けのスーパーマーケットに到着した。このスーパーは世間で言う所謂大型高級スーパーというものに分類される店であり、店内の面積そのものがでかく、様々な種類の食品や雑貨が並び、おまけに高い値段を取るだけあって、食品の鮮度や味は比べ物にならないくらい質が良い。
私はスーパーのカートに籠を置き、無表情ながら物珍しい目でスーパーを見回すイルミにカートを押す様に頼み、取り敢えず生鮮食品売り場に向かった。

「イルミはお昼御飯何食べたい?」
「何でもいい」
「それが一番困るんだけど…」

偶々目についたキャベツを片手に持ちつつ溜め息を吐く。キャベツで出来る料理は何だっけ…千切りキャベツ、焼きそば、塩揉み、スープ、野菜炒め、ロールキャベツ…うん、ロールキャベツがいいや。ロールキャベツにしよう。

「お昼ロールキャベツでいい?」
「いいよ」

イルミの承諾を得てからキャベツを籠に放り込む。冷蔵庫に玉葱と挽き肉は残ってた筈。あ、コンソメが確か切れてたから後で買わなくちゃ。パンも買おう。バターロール?クロワッサン?無難にバターロールにしとこう。
それと流石にロールキャベツだけじゃ寂しいからサラダでも作ろうかな。

「お昼のメニューは決まったけど晩御飯は何食べたい?」
「もう夜の話?」
「今決めないと買い物出来ないでしょ」
「サイカは何が作れるの?」
「凄いマニアックな民族料理とか以外なら大半は作れるよ」

免許無しで良ければ河豚も捌けるよ。流石に言わないけど。
イルミはふーん、と興味無さそうに相槌を打つ。この分だと夕食何がいい?ともう一度聞いても「何でもいい」と返されそうだ。面倒臭い。
そう言えば冷蔵庫には人参が余ってた筈。カレーかシチューでも作るか。

「カレーとシチューどっちがいい?」
「シチュー」
「ホワイトとビーフどっちがいい?」
「ホワイト」
「了解」

サラダ用のレタスを籠に入れつつ、あと野菜は何が必要だったかな、なんて考える。じゃがいもの存在を思い出し、じゃがいもが置いてある売り場までぼーっと突っ立ってるイルミの袖を引っ張りながら向かう。途中で果物売り場の前を通ったので適当に見ていく。山積みにされた真っ赤な林檎を一つ取って眺める。「お買い得!」と書いてある紙が値札の近くに置いてあった。

「林檎買うの?」

私の手元にあった林檎を覗き込みながらイルミは言った。買うか悩んでる、そう答えれば彼は(無表情だが)どこか期待の籠った瞳でこちらを見詰めてくる。

「林檎好きなの?」
「うん」
「……アップルパイとか焼いたら、食べる?」
「食べる」

彼のその言葉を聞くと私は手に持っていた林檎を籠の中に入れた。何個買おうかちょっと悩んでからアップルパイ用と生食用で合わせて5つの林檎の購入を決めた。
隣で籠を覗くイルミを見ればちょっと嬉しそうな雰囲気が出ていた。そんなに林檎が好きなのか。成人男性に対しては失礼かもしれないけどちょっと可愛いと思ってしまった。
変わった人だと思ってたけどちゃんと人間らしいところもあるんだ。

「何笑ってるの?」

イルミに指摘されて漸く自分が無意識に頬を緩ませてたことに気付く。慌てて口元を手で隠しイルミを見ればどこか不思議そうな顔して私を見ていた。慌てて顔をいつもの表情に戻してからなんでもないよ、とイルミに一言告げて私は買い物を続行した。




一通りスーパーでの買い物が終わった後、私達は購入したばかりの食料が沢山入ったビニールをお互い一つずつ持ち、スーパーを後にした。マンションへの帰路の途中、珈琲が切れていたことを思い出し、買い物袋片手に少し先にある行き付けのコーヒーショップへと向かった。
鉛色の雲に覆われた暗い空を見上げながらコーヒーショップのドアを開ける。カランカラン、と扉に付いたベルが鳴り、私達が店に入ってきたことを部屋全体に伝えた。

「あら、サイカじゃない」

外の天気も相俟ってどこか薄暗い雰囲気の店内、シックな内装、コーヒーの芳ばしい香り。物珍しそうにイルミが店内を見回す中、カウンターの奥に立ち、気だるげにコーヒー豆を挽いていた女性が私に声を掛けた。
彼女はこのコーヒーショップの店長である。頻繁にここを訪れる私はすっかり顔馴染みだ。

「久し振り。コーヒー切れたから買いに来たの」
「あらそう。いつものでいいかしら?」
「ココアも付けて」
「わかったわ」

彼女は様々な種類の珈琲豆が入った棚から私がいつも購入する種類の豆の袋と棚の隅の方に追いやられたココアの袋を取り出す。
私と彼女から微妙に離れた位置で特にすることも無いように物珍し気に店内を見回すイルミを横目で見ていたら、珈琲豆の袋片手に彼女がそっと私に手招きした。何事かと首を傾げれば耳朶を軽く引っ張られて引き寄せられた。耳を貸せ、という意味らしい。

「あの黒髪の人、サイカの恋人?」
「…………はい?」
「だって仲良さそうに入ってきたし買い物袋持ってるってことはスーパー帰りでしょ?同棲でも始めたの?サイカにも漸く春が来たのね!」

年頃の女子高生の様に楽しそうに一人で盛り上がり始める彼女(二十代後半)を見ながらぽかんとする。因みに上記の会話はとても小さな声で行われている。恐らく私達の会話はイルミに届く前に店内で流れている穏やかなBGMで掻き消されているだろう。寧ろ掻き消されててくれ。

「残念ながら、彼はただの知り合いだよ。用があって家に来てるだけ」
「そう?知り合いにしては仲良さそうに見えるけど」
「気のせいだよ」

端から見ると私とイルミは恋人同士に見えるのか。そう思ったら少し恥ずかしく感じてちらりと後ろのイルミを気にする。彼はカウンターの真逆に置いてある飾り食器の羅列された棚を見ていた。

「いつもと雰囲気が違うから絶対恋人だと思ったのに…」
「雰囲気が違う?どういうこと?」
「さぁ?気のせいなんじゃない?」

先程の私の言葉を真似る様に返し笑う彼女。茶化す様な彼女に若干苛々しながらも彼女の言葉の意味を考える。
いつもと雰囲気が違う、その言葉が妙に胸に突っ掛かった。
イルミと居るからなのだろうか。確かに彼と居るのは今のところ特に迷惑ということも不便ということは無い。変わったことと言えば少し家事の量が増えたのとソファーで寝る羽目になったくらいだ。別に家事なんて殆ど毎日するものだから一人分くらい増えようが関係無いしソファーで寝るのだって特に不便にしてない。食事を誰かと食べるのは一人で食べるより楽しいし作った料理を殆ど残さず食べてくれるのも嬉しい。まだほんの1日程度しか彼と過ごしてないけれど彼と居るのは少し楽しい。私の雰囲気が違うのはイルミと居るからなんだろうか。
何と無くイルミの方を見ればばちりと目が合った。その瞬間また妙に恥ずかしくなって咄嗟に目を逸らす。顔が熱くなる様な感覚がした。
再びイルミを見れば「まだ?」と言いたげな瞳と目が合って、慌てて財布から紙幣を取り出して彼女に渡せば何枚かの硬貨がお釣りで返って来る。適当にお礼を言ってから買ったばかりの珈琲豆とココアを持ってコーヒーショップを後にした。

「ねえ、サイカ」
「何」
「何でそんなに離れてるの?」

特に会話も無かった帰り道の静寂を唐突にイルミが破った。
現在の彼と私の距離はお互いの間に人一人分ある。因みに行きは普通に互いの手が触れない程度の距離を普通に並んで歩いていた。
何でこんなに離れてるのか、具体的に理由を言葉にすると「恥ずかしくて堪らない」からだ。さっきのコーヒーショップで彼女に言われたことや彼と目が合った際に顔に熱が溜まる感覚が何度も思い出され、変に意識してしまって彼に近付けなくなってしまったのだ。
多分暫く距離(物理的に)を置けば治る筈だと踏んだのでこうして距離を取ってみた。

「オレ何か悪いことした?」
「別にしてないけど…」
「じゃあ何でそんなに距離取るの?気分悪いんだけど」
「私の問題だから、イルミは気にしなくていいよ」
「サイカの問題だとか関係ない」

そう言ったイルミがガシッ、と私の右手首を掴んだ。驚く私を無視してそのまま自分の方へ引き寄せる。距離が近い。咄嗟に顔を上げればイルミの瞳と目が合った。心臓が変な風に脈打ち、頭が一瞬混乱する。よくわからないけど彼の大きな黒い瞳は何か引き込まれるものがある気がした。何か特殊な念でも込めてるんだろうか。邪気眼?
しかしそれよりも掴まれた手首が痛い。ぎちぎちと悲鳴をあげている気がする。
そのままずるずると私を引き摺る様に彼が私を掴んだまま歩き出す。もう恥ずかしさとか混乱とかは掴まれた手首の痛みで吹っ飛んでいた。

20120927