はぁ、と大きな溜め息を一つ吐き、パソコンの画面の前にあるキーボードで片手で文字を打ち込みつつ、ココアを飲む。
イルミのよくわからない言動から1週間が経った。
私の情報を寄越せととんでもないことを要求した彼は帰りの車内(リムジン)の中でひたすら私を質問攻めにしていた。「好きな食べ物は?」から始まり、好きな色、嫌いな食べ物、どこ住んでるの?甘いものとか好き?…等々、好奇心の強い小さい子供か若しくは一昔前のナンパの様な質問ばかりされた。
最悪なことに答えないといつまでもあの能面の様な無表情な顔でじっと見詰められながら同じ質問を繰り返されるという嫌なオプション付きである。仕方無くあることないこと適当に答えられる範囲で答えていったのだが一つミスをした。自分が住んでる土地をついうっかり口を滑らせて言ってしまったのである。大雑把過ぎる情報で特定するのはかなり難しいと思うが僅かなこととはいえ自分の情報を流出させてしまったのだ。馬鹿すぎる。きっと色々有りすぎて疲れて居たからだと思う。別に他にいくつか予備用の家を所持してるのでその気になればいつでも引っ越せるからバレてもいいのだけれど。
再び溜め息を吐いたところで後ろから軽快な音楽とバイブの震える音がした。ベッドの上に置かれた携帯を手に取れば仕事の依頼メール。差出人はイルミでは無く前々からの常連客であるとある企業の御曹司の青年からだった。
依頼人からのメールに適当に返事をしつつふと思い出す。あのパーティーからもう1週間経つが彼から何一つ連絡は来ていないことを。
私のことを知りたいから情報を寄越せと言った彼のことだから直ぐにモーションを掛けてくると踏んでいたのだがどうやら予想を外した様だ。いや、案外私のことなんて忘れてるのかもしれない。それならそれで構わないのだけれど先日無理矢理貸されたタキシードのジャケットがまだ我が家に残ったままなので(一応クリーニングには出しといた)それだけ引き取ってからにして欲しかった。タキシードの上着くらい普通に捨ててしまっても彼は困らないのだろうけど。
そんなことをぼんやり考えていたら不意にカーテンの閉まったバルコニーの窓がこんこん、と叩かれた様な音がした。気のせいかもしれない。しかし雨でも打ち付けたにしてはやけに硬質的な音な気がしたため放って置けず、不審を抱きつつも窓に近寄り厚手のカーテンに手を掛けた。

「やあ」

黒髪能面顔の男がバルコニーに立っていた。




「サイカってあんな悲鳴上げるんだね。吃驚したよ」
「……」

誰のせいだよ、そう言いたくなったがぐっと堪えては無言で珈琲を彼の前に置いた。
先程バルコニーに立っていたのは先日パーティーに同伴しろと訳のわからない仕事を依頼し、おまけに殺そうとした挙げ句最終的に私の個人情報を要求してきた男、イルミだった。
男にしては長めの黒髪と能面の様な顔、おまけに時刻は夜中の0時過ぎな上に部屋の電気で彼の姿が悪い意味で素敵にライトアップされてたのも相俟って私の人生史上一番の悲鳴を上げてしまったのだった。

「何でバルコニーに入ってこれたの?ここ42階なんだけど…」
「ここのマンションのセキュリティが正面突破するには面倒だったから外からクライミングしてきた」
「……」

なにそれ怖い。

「ていうかどうやって私の家突き止めたの?普通に調べたんじゃ出てこない筈だよ?」
「サイカの居場所は調べても出てこなかったからサイカが前に教えてくれた住んでる場所周辺の外見と年齢がサイカと一致する女を弟に絞り込んで貰ったんだ」

お前の弟何者だよ。

「それでも100人くらい居たからさ、大変だったよ」
「え、…100人全部回ったの?」
「ううん、60人目くらいでサイカに当たったから全部は回ってないよ」
「……」

この人怖い。気を紛らわす様に冷め掛けたココアを口にするが味がわからなかった。
人の気など知らないでのんびりと珈琲を飲む目の前の男を一睨みしてから溜め息を吐くが彼は不思議そうに首を傾げるだけだ。察しろよ。

「…で、一体何の用なの?まさか住所特定するためだけに来た訳じゃないでしょ?」
「うん、頼みたいことがあるんだ」
「なに?」
「暫く泊めて」
「………はい?」

今何て言ったこの人。泊めて、って我が家に?何で?
と言うより知り合って間もない上に交流も浅い一人暮らしの乙女の部屋に泊めてとかこの人大丈夫なんだろうか。
てかゾルディック家の長男なんだからお金は沢山あるだろう。高級ホテルのスイートルームにでも泊まればいいのに。

「えっと…なんで?」
「だってサイカのこと知るには一緒に住むのが手っ取り早いだろ?同じ時間を共有すれば大なり小なりサイカの情報を得られるし、あとこの辺で丁度仕事あるからホテル取る手間も省ける」
「……後半の理由が本音?」
「バレた?この辺ホテル少ないんだよね。ボロいのばっかだし。あ、宿代は払うから安心して」

無表情で珈琲を啜る彼は懐から携帯を取り出して口座を開きながら「いくら?」なんて首を傾げた。
まだ泊めるなんて一言も私は言っていない。それ以前に泊める気も無い。

「あ、断ったら困るのサイカだからね」
「何で?」
「サイカのこと知るためにオレは数ある選択肢の中から一番サイカに対して譲歩したこの手段を選んだんだよ?」
「譲歩って、」
「本当は針の1、2本頭に刺して適当に聞き出してもいいかな、ぐらいに思ってる」

意味わかるよね、そう言った彼のオーラは静かな威圧感を放っている。拒否権は無い、そう彼は言いたいらしい。
私は何度目かわからない溜め息を吐いて中途半端に残ったココアに口を付ける。温すぎるくらいに冷めたココアは甘ったるい味が口の中に広がっては微妙な後味を喉に残すだけだった。

「……わかった、泊めてあげる」
「サイカが話わかる奴でよかったよ。あ、シャワーどこ?浴びてから寝たいんだけど」
「…リビング出て直ぐのところにあるよ。バスタオルは二段目の引き出しにあるからそれ使って」

すっ、と立ち上がって直ぐに話を切り替えた彼。シャワーとか言ってるけど洋服とか洗面用具とかどうするんだろうか。歯ブラシ程度なら予備があるから平気だが流石にうちに男物の洋服なんてない。持参?まぁ、その辺はイルミに任せればいい。それよりご飯とかどうするんだろうか?一緒に食べた方がいいの?部屋とかも一室くらい貸した方がいいの?
と言うよりそれ以前に一つ問題があったことを思い出した。

「あのさー…、ベッド一つしか無いからソファーで寝て欲しいんだけど…」
「ソファーとかやだ」
「……じゃあ私のベッド使っていいよ。私ソファーで寝るから」
「わかった」

シャワー浴びてくるね、と言って退室したイルミの背を見送っては思った。これから一体どういう生活なるんだろうか。
飲み終わった珈琲とココアのカップを片付けながらぼんやりと考えてみるがいまいち想像がつかない。取り敢えず毛布と枕を出してソファーで寝る準備をしよう、そう考えながらまた溜め息を吐くだけだった。

20120722


慣れないベッドの感触に目を覚ました。視界に広がる天井は、自宅のものでも況してやホテルのものでもない。
ここどこだっけ?と寝起きでどこかぼんやりした頭で考えながら上半身を起こし、辺りを見回す。自分が先程まで寝ていた一人で寝るにしては大きいダブルベッド、ジャンル様々な本が所狭しと並ぶ大きめの本棚、シンプルだが女らしいデザインの箪笥にそれと揃いのデザインであろうクローゼット、最後にベッド脇のチェストに畳んで置かれていた女物のカーディガンを見て漸くここがサイカの家だったことを思い出す。
昨夜はサイカの家に押し掛けて、そのまま暫く泊まることにしたんだった。そこまで思い出すとベッドから下りて寝間着代わりのラフな格好から普段着へと着替える。この部屋には時計が無かったので携帯で時間を確認すれば、時刻は午前7時過ぎ。サイカは起きているのだろうか、そう思って昨夜彼女が寝床にしていたリビングへと向かった。

「おはよう、イルミ」

結構早いんだね、なんて笑うサイカに少し驚く。まだ寝てると思っていたからだ。彼女はもうきちんと着替えも身形も整えてあり、地味な色のカーディガンの上から深い紺色の飾り気の無いエプロンを身に付けて料理をしていた。

「何作ってるの?」
「朝ごはん。イルミの分も作っちゃったから食べて」
「オレ、朝は食欲無いんだけど」
「じゃあ明日から食べなくていいから今日だけ食べて、作っちゃったから。あ、もうすぐ出来るから顔洗ってきて」

そのまま強引にぐいっと背中を押されて洗面所へと行かされる。タオルとブラシは出てるの使ってねー、という声がした。随分親切なことだ。洗顔をして軽く身嗜みを整えてから再びリビングへと向かった。

「……ジャポン料理?」

ダイニングテーブルに並べられた料理。鮭の切り身、玉子焼き、ほうれん草のおひたし、炊きたての米、味噌汁、それらはどう見ても東洋の小さな国の一般的な朝食だった。

「うん、ジャポン料理。苦手だった?」
「別に普通」
「ならよかった」

安心した様に笑うサイカ。綺麗に並んだジャポン料理を見てサイカはジャポン出身だったかな?と頭に浮かんだ疑問をそのまま口にすればサイカは「違うよ」と首を横に振った。ジャポン料理を作ったのは美味しいしカロリーも控えめだから、らしい。美味しい、という理由はわかるがカロリー云々という理由はオレにはよくわからなかった。
サイカは少し音程の外れた鼻唄を歌いながらオレの前に少なめに盛られた(多分朝は食べないという理由からの配慮)ご飯茶碗を置き、その直ぐ後にまだ湯気の上っている味噌汁を置く。
そのままサイカは席に着き両の手を合わせて小さく「いただきます」と挨拶をした。自分も釣られるようにして手を合わせ、取り敢えず箸を片手に味噌汁茶碗を持ち、口を付けた。

「……サイカ」
「何?」
「朝食、明日からも作って」

サイカは箸を片手に一瞬きょとんとした顔をした。少しの間の後言葉の意味を理解した様で頬の筋肉を緩ませてその顔に嬉しそうな笑みを浮かべては首を縦に振る。サイカのその嬉しそうな笑みを見た途端、胸の奥が熱くなる様な感覚がしたが気のせいだと思い直しては誤魔化す様に味噌汁を啜った。




「これ渡しとくね」

朝食後、サイカが淹れてくれた珈琲を飲んでいたら唐突に彼女が何かをオレの前に置いた。テーブルの上に置かれたそれはカードが二枚、それと随分と複雑な形状をしたキーだった。何これ、と首を傾げればオレの疑問を察したサイカが口を開く。

「こっちがエントランス用のカードキー。エントランス前で翳して指紋認証しないと自動ドアが開かないから気をつけて。で、こっちがエレベーター用のカードキー。エントランス用と間違えないでね。最後にこれが家の玄関の鍵。もうスペアキーは無いし、どれも作るのに一月以上掛かるから無くさないように気をつけて」
「面倒臭い」
「セキュリティが売りのマンションなんだから仕方無いじゃん」

むすっとした顔で紅茶を啜るサイカ。
オレは渡された3つのキーを手に取り、幾度か眺めてから懐にしまう。今更だがサイカには警戒心というものが無いのだろうか?知り合ってから日の浅い人間に鍵を預けるなんてこの世界で生きてる人間とは思えないくらいの警戒心の無さだ。この女、頭が良さそうに見えるが実は結構馬鹿なんじゃないだろうか。
それとも部屋に異性をあげ慣れてるのだろうか。サイカはそれなりの歳だし、男性経験の一つや二つ、あってもおかしくない。中々悪くない容姿をしてると思うし、何より情報屋という職業柄、男と関係を持つこともあるだろう。
しかしサイカの垢抜け無い雰囲気を見るとそういうタイプには見えない気がする。異性を魅了し、情報を聞き出すタイプの情報屋ならもっと外見や仕草に気を遣ったっていい筈だ。何よりこの飾り気の無いシンプルとも言えるマンションの一室からは男が居たであろう痕跡も、特有の雰囲気も一切感じられない。男を家に上げ慣れている、その可能性は低いだろう。

「……」

もしかしたらオレはサイカに異性として意識されていないのかもしれない。そっちの可能性の方が高そうだ。
そう思ったら前に感じた苛々とは少し違った苛立ちが溢れてきて胸の奥が段々ともやもやとしてきた。やっぱりサイカが絡むと奇妙な感情ばかりに苛まれる。やはり原因はサイカにある。

「イルミは今日は仕事?」

唐突にサイカがそう問い掛けた。素直にうん、と頷けばサイカは更に言葉を続ける。

「何時に出るの?」
「11時くらい」
「私は10時くらいに出るから戸締り宜しくね」

ちらりと壁に掛けられた時計を見れば短針は8を、長針は1を少し過ぎたところを指していた。大体あと2時間くらいでサイカは仕事に行くらしい。
ふーん、と適当に相槌を打ちつつ珈琲を啜る。サイカの淹れる珈琲は結構美味しい。その辺の下手な喫茶店何かより断然味も香りも良い。何か特別な淹れ方でもしてるんだろうか。
ぼんやりとそんなことを思っていたらサイカが「あ、」と何かを思い出したかの様に再び口を開いた。

「一番奥の部屋は物置だから入っても構わないけどその手前は仕事部屋だから入らないでね。コードとかモニターだらけだから危ないの。あと私の部屋、ベッドは使って良いけどタンスとか開けないでね」

私、これでも女なんだから、そう言い難そうに付け加えた彼女。一応異性として意識はされてる様で少し安心した。なぜ安心したのだろう。意識なんてされてなくても何の問題も無い筈なのに。
反応の無いオレに対しサイカはどうかした?何て首を傾げた。揺れる髪だとかこちらを見詰める大きな瞳だとかが嫌に目に入る。何でもない、そう告げてオレは珈琲を啜る。味がわからなかった。




エントランスのセンサーにカードキーを翳し、ピッ、という音がした後に指をパネルに押し付けて指紋を認証をする。開いた自動ドアを通り、郵便ポストを確認してからエレベーター前に向かう。タイミング良くエレベーターが来ていた様で、エレベーター用のカードキーを取り出してボタン脇のセンサーに翳してエレベーターに乗り42階のボタンを押した。
1、2、3、…とエレベーター上部にある数字の点滅が変わっていくのを眺めてから携帯で時間を確認する。携帯画面に浮かぶ数字は23時半をとっくに過ぎたことを知らせている。
そう言えばイルミは帰ってきてるのだろうか。そうぼんやりと思った。しかし直ぐにどうでもいいや、という感情が先に上回った。彼が帰ってようがいなかろうが私には関係ないことなのだ。そんなことよりもお腹が空いた。部屋に着いたらご飯を作ろう。冷蔵庫には何が残っていただろうか。
そんなことを考えてる内にエレベーターはぽーん、という音で到着を告げた。
鞄から玄関用の鍵を取り出しつつエレベーターから降りる。そのまま真っ直ぐ自分の部屋に進み鍵を差し込んではドアを開けた。

「おかえり」

唐突にそんな声が聴こえた。驚いて顔を上げれば目の前にはイルミがいた。

「意外と遅かったね」

そんなことをイルミは言っていた気がする。この辺は記憶があやふやでよく憶えてない。
ただ彼が発した言葉が衝撃的過ぎて妙に胸がドキドキした。久しく感じてなかったこの胸の高鳴り、それは嬉しい時に感じるものだった。
何年振りだろう、誰かに「おかえり」なんて言われたの。
10年近く前に家出した実家でこんなこと言われた記憶が無い(忘れてるだけかもしれない)し、家出してからはずっと一人暮らしだったから勿論無い。
もしかしたら初めてかもしれない。
そう思ったら世間一般ではありふれている一言が無性に嬉しくて嬉しくて堪らなかった。

「サイカ、どうしたの?」

嬉しくて緩んでしまいそうな口元を隠しながら俯き、何も言わない私にイルミは不思議そうに声を掛ける。何でもないよ、気にしないで。そんな言葉を返そうとした筈なのに自分の意に反する言葉が無意識に口から出た。

「おかえり、って」

もう一回言って、

私は一体何を言ってるんだろう。言ってから後悔した。きっと彼は驚いているだろう。
当たり前だ、知り合い程度の付き合いの女にいきなりこんなこと言われたら驚きもする。寧ろ、引く。
慌てて訂正の言葉を口にしようと顔を上げれば不思議そうな顔をしながら小さく口を開けたイルミが見えた。

「おかえり、サイカ」

これでいい?と尋ねる様にこちらを見る彼。嬉しかった反面少し恥ずかしくなるのを感じつつ小さく「ただいま」と呟いてから部屋に入った。

20120912