これは、世界的に有名となった科学者の残りの人生と、彼の伴侶となった最高傑作との話である。
それの序章は五年前に起こった。
当時、アルフィート・メンデストという一人の学者が有名になった。もちろん良い意味で、だ。
二十九歳という若さでノーベル賞を受賞したのだ。その時の記者会見で彼はこう語った。
『妻の支えがあったからこそ、このノーベル賞はある。』
彼の妻というのは、リィディー・メンデスト(愛称:リーデ)、彼が生涯で愛したたった一人の女性。
彼がノーベル賞取ったことは大いに話題になった。いい意味でも、悪い意味でも。
それから、彼の周りには人間が絶えなくなった。
全ての人間が、こらから彼が発明するものをあわよくば自分の物に出来ないかと、誰一人として純粋な気持ちで近づいた者はいなかった。
もちろん彼はすべて断った。俺の隣はリーデだけで十分だと。
それから数日後に最愛の妻、リィディー・メンデストは死んだ…。
否、殺された。
メディアでは『彼を嫉む者による殺害』そう取り上げられた。
死体は酷いものだった。 両目とも刳り貫かれ、顔の皮は右半分だけ削ぎ取られ、歯は左半分のを全て抜かれていた。
被害は顔だけではない。両手両足とも爪は剥がされており、関節すべてが逆向きに折られていた。更に全身の血液を綺麗に奪われていた。
彼女の両目の行方は不明、血液の行方も不明。奇麗に、その場から消えていた…。
変わり果てた彼女の姿を見たアルフィートは、この世に酷く絶望した。
生きる意味すら失ったのだ。彼は自殺さえ考えた。
絶望の淵に立たされた彼のとった行動は、あまりにも夢のような話で、馬鹿馬鹿しいものだった。
しかし、彼はそれを現実にしてしまった。
彼の思いが形になったかのように、政府がアンドロイドの製作に取り掛かっているのを知った。
自分も手伝いたいと、彼は自ら名乗り出た。
もちろん、政府側は快い返事をした。
なんせ相手はあのアルフィート・メンデストなのだから。
世界的といっても過言ではないほど有名な学者がプロジェクトに加わったとなると、話題性も呼ぶし、完成度の向上が約束されるからだ。
良く言ったら「協力」、悪く言ったら「利用」という関係になるが…。
そんなこと、彼はすでに分かっていた。
しかし、頭が良かった。そう、彼もまた、政府を利用していたのだ。
体部分は政府に任せ、博士は最も重要な部分の制作に没頭した。研究所で、独りきり。
それでも彼は黙々と研究を行った。全ては最愛の妻のため。
彼にしか解らないような難解なプログラムを組んで完成したものが『感情』というプログラム。
完成するのに二年かかった。これは、感情というよりは簡単な喜怒哀楽と言った方が分かりやすいだろう。
柔らかく微笑み、目くじらを立てて怒る。ちゃんと人の言葉も理解する。
涙は流せないが悲しみ、楽しそうに笑う。会話だって出来る。
これを入れたアンドロイドは最初こそ高値で売買されていたが、今では種類と数が増え、庶民でも買えるくらいの値段になった。
それこそ専門分野を持つ多くの種類のアンドロイドが製作されている。
開発当初は介護用の製作が主であり、その他の分野の者は介護用が完成した何年か後に製作された。
彼は世界を震撼させた。人間に最も近い機械『アンドロイド』の誕生だった。
そして、彼がプロジェクトに加わってから、実に五年も経ってしまった。最高の出来のものを作るのに有した時間。
最愛の妻そのものとも言えるほどの体にそのプログラムを埋め込むことにより、より人間性の増した、最高のアンドロイドが完成した。
最高作品の名を『リィディー・ソフィエル』 彼が人生で愛した、たった独りの女性の名前だ(ソフィエルは旧姓)。
アンドロイドを製作し完成させたということにより、彼の地位や名誉は一層高くなった。
当の本人はそんなことはどうでもよかった。ただ、愛妻を蘇らせた喜びが彼を支配していた。
それからというもの、彼の隣には彼女、リィーディーが常にいた。否、彼女以外を近くに寄せなかった。
それからの生活に彼は満足を覚えていった…――
「アル、紅茶よ」
「リーデ、ありがとう」
「リーデ、好きだよ…」
「私もよ、アル…」
「リーデ」
「リーデ!」
「リーデ……?」
――そんな、彼の充実した時間は突然終わりを告げることも知らずに…。
リィディー・メンデストが死んでから丁度6年が経った日、つまり彼女の命日。
「今日は彼女の命日だ」
「……」
「……でも僕には、君がいるからね!」
「アル…」
「リーデ、どうしたんだい?……何だい?」
作業中の手を止め、彼女を見つめる。いつもと同じ顔を。
いつものようにニコニコと笑った顔ではなく、いつに無く真剣な顔の彼女に、彼は何かを感じとった。
真剣に、彼女の言葉に耳を傾ける。
「アル……いいえ、博士」
「……なんだい、リーデ?」
「その呼び方を止めてください」
「…わかったよ。それで、なんだい? リィディー」
「もう私には耐えられません、博士の悲しい顔を見るのは
私はリィディーであって『リィディー』ではありません。あなたとの記憶だって、ただのデータでしかない
……博士は、分かっていたはずです、リィディーを蘇らせることなど出来ないと
だから私に『メンデスト』ではなく彼女の旧姓である『ソフィエル』と名づけたんですよね
最愛の女性は、一人で十分だと……す、すいません、出すぎた真似をしてしまいました」
「いや、いいよ…もう十分だよ…本当、君は賢いね、人間以上だよ。
やっぱり君は俺の最高傑作だよ、生きた機械…アンドロイドの頂点だ!」
そう言って彼は笑った、それは純真無垢な子どものように輝いていた。その笑顔に彼女は何故か心苦しさを感じた。
罪悪感か、それとも彼にアンドロイドとしか見てもらえなかったことに対する悔しさか。
目の前にいる彼から一筋の涙が流れ出す。何故流れているのかなんて、彼女には到底理解できない涙。
彼女の手は自然と彼の頭を撫でていた。彼は目を丸くしていたが、それを細めて落ち着いたように深呼吸をする。
「私は……」
「リィディー、もういいよ、ありがとう。君にはいろいろとお世話になったね」
「博士……?」
「……リーデ、コーヒーをくれないか?」
「あ、はい、わかり……っ、アル!」
「ぐあっ!?」
アルフィートは気持ちを落ち着けるためコーヒーを頼んだ。そして彼女がコーヒーを入れに行こうとしていた時だった。
鉛玉が彼の右肩を貫いた。それから立て続けに、左肩、右腿、左腿、脇腹と、彼の体から血が出てくる。
彼女が鉛の飛んできたほうを睨みつける。向かいのビルに黒づくめの男。
「アル!……あいつか」
「そんなのいいよ…リーデ、」
「なん、ですか…?」
彼女は彼を抱えると、汗ばんだ顔を覗き込む。
彼女をを見つめた目が細められ、彼女の胸はなぜか苦しく、締め付けられた。
刹那―彼の顔に水滴が落ちる。
それが彼女の瞳から出ているものだと気づくのに多少の時間を要した。
「…!!」
「…博士、これは…この液体は何ですか? 目から液体が出てきます。オイル漏れでしょうか
私には理解不能です。それともう一つ、私はとても悲しいです
その理由が分からないのです。博士、私は故障してしまったのでしょうか、ジャンクになってしまったのでしょうか…
私1人ではこのバグから復旧できません…」
「……大丈夫だよ、それは故障でもバグでも何でもないから、安心して良いよ」
「だはこれは……!」
叫ぶ彼女の頬に彼の手が触れる。
微かに震えるその指先は彼女の涙を拭う。
そして鉄の味が広がる口を再び開く 。
「それは、君に“心”がある証拠。その液体は“涙”だよ…」
「“涙”……?
それは人間が流すものだと、私たちアンドロイドは決して流すことのないものなのに…
何故私は流しているのでしょうか…」
「涙を流すのは、人間だけだ…だけど、心のある君は、もう人間と同じなんだよ…
もう、君はアンドロイドではなく、1人の人間なんだ…」
半ば自分に言い聞かせるように言う彼に彼女は制止をかける。
「これ以上喋っては駄目です。あ、アル…今、医者を…」
「もう、遅い……俺は、君と出会えて、よかった……リーデ……っ!」
「アルッ!!」
彼の心臓を鉛が貫いた。即死だった。刹那、彼女の目が捕らえたのは力無く項垂れる彼ではなく、鉛が飛んできた方向、引き金を引いた人間。
百メートル以上離れたビルの最上階、そこに奴はいた。サングラスで目元を隠し、全身を黒に包んだ男。
一刻も早くその場を離れるべきなのだが、男はその場から離れようとはしなかった。否、離れることが出来なかった。
血まみれの男を抱きかかえる、彼女の瞳には狂気以外の何者も感じられない。その瞳は男をとらえて放さない。
男はその瞳に見つめられ、微動だに出来ない。まるで蛇ににらまれた蛙のように…
ごくり。男が息をのむのを合図に、彼女は動き出した。
手始めに男の視界から消えてみせた。男は混乱しつつも逃亡する準備に取りかかった。
博士を殺した道具を全て黒革のバッグに詰め、後ろに振り向くと視界一杯に広がる彼女の顔。怖ろしいほど冷淡な、整った顔。
それの一部である双眼はやはり男をとらえて離さない。
その瞳は、恐怖以外を生まない
「うあぁあああぁあぁっ!?」
なぜここに、そう叫びながら男は手に持っていたバッグを振り上げたが、彼女の顎を掠めただけで手ごたえは無いに等しい。
そして彼女は一瞬で来た隙を利用し、男の首に手を掛け、そのまま壁まで詰める
「かはっ」
壁にたたきつけられた事により男の背中に衝撃が走る衝が走る。
ミシリ。骨の軋む音が聞こえた。男は圧迫されていく首に、鞄が手から落ちていく。
薄れていく酸素、自分に向けられている狂気の瞳。
男は死ぬことを確信した。
確信した上で行動、最後の力を振り絞り拳を振り上げる。
「――っ!」
しかし、その拳が彼女に触れることは無かった。
手を離された死体は、重力に逆らうことなく床へと落下していく。
ゴツ…。鈍い音を立てて肢体を広げて転げる。男は顔面蒼白で泡を吹いている。恐怖の感情が全て顔に出でいるよう。
そして彼女は目の前の屍から、もう機能していない心臓を抉り出して、握りつぶした。
刹那、部屋の一角が赤に染まる。
そしてそのまま心臓だったモノを床へ叩き付けると、血にまみれた体を、無表情の顔を、涙に濡れた瞳をこちらに向けた――
そこで防犯カメラの映像は砂嵐に変わった
その映像の一部始終を観た警察は、その後消息が掴めなくなったアンドロイドを『アルフィート・メンデスト博士殺害』の罪で世界規模で指名手配とした。
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