早苗さんは画家だ。世間では天才女子高生画家なんて呼ばれていて、小さいなりにも自宅の近くにアトリエを構えている。
 それに引き替え、僕はただのサッカー部員。凄い肩書きと言えば精々エースストライカーくらいだ。予選三回戦で敗退するような、実力もそこそこのチーム。
 そんな僕が、今、早苗さんの絵のモデルになっている。
 油絵の具の何とも言えない臭いが広がるアトリエ内、木製の椅子に座り斜め向こうを見つめる。

「……早苗さん」
「なぁに?」

 筆を止めて小首を傾げる早苗さんは誰が見ても美少女だ。散らかっていない顔立ちに薄い唇、長い黒髪は作業の邪魔にならないよう後ろで一つに纏められている。
 早苗さんに見つめられていると言葉を出しにくいが、それでも僕は思っていることを声にして彼女に伝える。

「本当に、僕なんかでいいのだろうか……?」

 もう何度目になるのか分からない質問を投げかける。そしていつもと同じ、何度目になるのか分からない答えが返ってくる。

「私は、マサキがいいの。あなたじゃないと私の絵は完成しない」

 はにかんで笑う彼女を見ると僕も心が暖かくなる。そんな事を言われたら自惚れざるを得ないじゃないか。
 こうして懐柔されている事に気付きながらも彼女に腹を立てずにいるのは、僕も、彼女といる空間が好きだから。
 知り合ってから未だ三週間しか経っていないというのに。早苗さんに絵のモデルを頼まれてからほぼ毎日、彼女のアトリエで僕はこうして椅子に座っている。
 早苗さんが彩管を振るうのを横目で見ようとすれば余所見しないでと彼女に注意される。それでも僕は、絵の具で汚れた白い手を見たかったのだ。
 いつ終わるか分からないこの関係のこの瞬間。キャンパスに僕を写している間だけは、彼女は僕だけのもの。


 事の始まりは三週間ほど前になる。僕は一生徒であり彼女との接点はほとんどと言っていい程ない。突然、部活終わりの僕の下へ来て言ったのだ。

「絵のモデルになって下さい」

 その時は、部活終わりで疲れきった体と回転しない頭で思わず頷いてしまったが、今思えば彼女が僕を選ぶ理由が本当に見渡らないのだ。
 周りははやし立てる以前にどよめき驚いた。稀代の天才女子高生画家が僕を選んだ理由が、未だに分らない。
 そりゃあバレンタインに多少なりともチョコレートを頂いた事もあったが、僕は綺麗でも格好良い訳でもない。その辺の学生と何ら変わりない容姿をしている。
 そんな僕に、わざわざ彼女から頼みに来るなんて何かの間違いだと思った。早苗さんの絵のモデルが務まるとは思えないのだ。彼女の創作意欲を掻き立てられる自信がない。
 それでも、早苗さんは僕を選んだのだ。部活終わりに訪ねてきた事を考えると僕が運動部に所属しているのを知っての上だから、暇人に声を掛けた訳でもなく、やはり僕だからという事になる。
 もやもやしているうちに早苗さんはアトリエへ案内すると僕の手を掴んだ。学校からほど近く、彼女の家からだと少し遠い閑静な住宅街の外れに彼女のアトリエはあった。

「遠慮しないで入って」
「うわ、うわぁ……」

 早苗さんの為に用意されたアトリエの内装は実に小汚いものだった。正確には、小汚くなっていた。
 彼女のポリシーなのか、ただ単に掃除を怠っているだけか、アトリエ内の至る所に絵の具が付着していた。アクリル、水彩、油、その他諸々画材の種類を問わず内装は絵の具だらけだ。
 唯一被害の少ない天井や一部の壁床に白色が見られるため、元々の色は白なのだろう。

「毎日ここに来て、モデルをして欲しいの」

 アトリエの汚さなんて気にしない様子の早苗さんにアトリエの合鍵を手渡された。
 その時に触れた手が、温かくて気持ちがぽかぽかした。これを恋と言うのだろう。

「本当に、僕なんかでいいのだろうか……?」

 あの時頷いた後からずっと頭の中を占めていた質問。僕以外にも格好良い人も綺麗な人も、可愛らしい人だって沢山いるだろう。
 早苗さんほどの画家ならば誰でも協力してくれるはずだ。

「……私は、マサキがいいの」

 少しだけ悲しそうな顔をした早苗さんに、ちくりと心が痛んだ。初対面で呼び捨てにされているだとかは考える余裕はなかった。彼女。

「ごめん……。その、まだ信じられなくて」
「マサキは自分を卑下しすぎよ。あなたは自分が思っているよりも、ずっとずっと素敵なのよ」

 満面の笑みを浮かべた早苗さんに、僕の心は益々締め付けられてゆく。このままじゃあ心筋梗塞になってしまうよ。


 翌日の放課後、グラウンドの隅に設置されたベンチに座り、待っている早苗さん。何をって、僕の部活が終わるのを。
 それを知った途端にサッカー部の顧問は、絵が完成するまで僕だけ部活に参加しなくても良いと言うのだ。天才画家である彼女の名声も、教員たちにとってはプレッシャーらしい。
 彼女の作品の出来に影響を与えてはならない、彼女の才能の妨げになってはいけないという暗黙の了解が、教員間で出来上がっていたのだ。早苗さんの才能に手を余しているのは無理もないが、まるで腫れ物に触れぬようでうんざりする。

「顧問がそう言ってるけど、早苗さんは……」
「私は、そういうのは、すきじゃない。マサキを待つ」
「ありがとう」

 一応伝えてはみたが、やはい、早苗さんはそういうのを良しとする人ではなかった。僕を待つという言葉になんだか照れくさくなってしまい、そのまま部活へ戻った。
 部活の合間に見た早苗さんは、スケッチブックに鉛筆を走らせながら独自の世界に入り込んでいた。


 時は戻ってその三週間後、冒頭の話の次の日。その日は珍しく、早苗さんは僕の部活が終わるのを待っていなかったのだ。まあ早苗さんも僕一人に構っている暇はないということ。
 部活が終わってすぐ、アトリエに向かえば鍵は開いていて、彼女がいるのは分かった。僕が声を掛けるとアトリエの奥からいつもの笑みを浮かべた早苗さんが出てくる。
 そしてまたいつもと同じ、僕をモデルに早苗さんが彩管をふるった。

 しばらく経ってから、ぐぅ。早苗さんの腹が鳴って作業は終わりを迎えた。

「お腹すいちゃった。今日はおしまいね」
「う、うん」

 にこりと笑う早苗さん、可愛い。この三週間の間に早苗さんの可愛い一面を一面どころか百面くらい見た。それのいずれも可愛くて、僕は益々彼女への愛を深めていった。
 筆を洗いに行った早苗さんを待つため、アトリエの入り口付近で二人分の鞄を持っていた。ふと、アトリエの奥が気になった。
 早苗さんのアトリエの奥には鍵の付いた部屋がある。その部屋の扉には鍵がかかっており、鍵は常に早苗さん自身が所持している。だから僕はその部屋に何が在るのか、何が隠されているのか知らない。
 初めて見たときに気になって彼女に聞いてみたことがあるのがだ、彼女はただ曖昧に笑ってごまかすだけだった。

 アトリエ内は廊下にも絵の具が付着しているため、その部屋の扉の周りも沢山の色がついてる。それだけなら気にもしないが、今日はその部屋の扉が嫌に目についた。特に床が。
 やけに赤い絵い色が目立っていた。つい最近ついたような赤黒い色が。
 最近は僕がモデルの作品以外は手がけていないと言っていたので、制服を着ている僕の絵に赤色はほとんど使われていない。なのに、その床には大量の赤色が広がっていた。

「マサキ、かえろう」
「う、うん……」



 翌日のホームルームは、最近通り魔が出没しているので気を付けるようにとのことが伝えられた。聞けば早苗さんのアトリエに近い場所だったので心配だ。
 なるたけ一人で下校しないよう促すと担任は教室から出ていった。ざわざわといつもの騒がしさが教室を支配した。

 早苗さんは可愛らしいから余計に心配だ。その思いを包み隠さず話しても彼女は笑うだけだった。まったく、早苗さんは危機感がなさすぎて困る。

「マサキと一緒に帰ればいいだけじゃないか?」

 部活中、同じ部活動の吉崎に相談したらそう言われた。だが今日も彼女は僕を待っていなかった。不思議に思いながらも足はしっかりとアトリエへと向かう。
 一人で歩く住宅街はやけに静かで、思考も変な方向へといってしまう。昨日の扉の下の赤、危機感のなさすぎる早苗さん、通り魔事件。
 もしかして、危機感がないのではなくて警戒する必要がなかっただけなのではないか。なぜ。答えは簡単、でも想像はしたくない。

「早苗さんが、一連の事件の犯人だなんて……」

 僕の呟きは誰に気づかれるでもなく、空気に溶けていった。

「ってそんな訳ないない」

 自分の危険思考に笑いがこみあげてくる。早苗さんが犯人だなんて、彼女に失礼だ。頭を振って思考を元に戻す。
 そうこうしている間にアトリエに着いたので、鍵がかかっていないことを確認して静かにアトリエ内へと入った。
 いつもならばここで早苗さんの名前を呼ぶのだが、今日は違う。
 いつも僕の絵を描いている部屋に早苗さんがいないことを確認し、鞄をゆっくりと下ろす。足音を立てぬよう廊下の奥へ行く。
 今日も、あの扉の下には赤色が滴っている。僕の考えを杞憂で終わらせるため、扉を開けることにした。高鳴る心臓に左手を添えて、ゆっくりとドアノブに手を掛けた。鍵はかかっていない。
 深く呼吸をし、意を決して扉を開けた。部屋の真ん中には絵筆を握った早苗さんがいて、すごく驚いた顔をして僕を見つめた。

「ま、さき……?」

 しかし今度は僕が驚く番だった。部屋の内容を見て全てを理解し、それと同時に言葉を失った。彼女を通り魔だと、一瞬でも思ってしまった自分が恥ずかしい。

 四畳半程の小さな部屋は沢山の画と、早苗さんの想いがこれでもかと詰まっていた。全部、僕の絵だった。部活中の僕が、これでもかというほどに溢れていた。
 あの時どんな思いで僕に声を掛けたのか、どんな思いで僕に絵のモデルを頼んだのか。それはきっと、とても勇気の要る行為だっただろう。

「これは……」
「ごめんなさい、驚いたよね。でもこれが……これが、私の気持ちなの」

 現在進行形で描いていたのは、シュートを決める僕。あの赤い色はサッカー部のユニフォームに使われていた色だった。

「早苗さんが僕を……?」
「おかしいよね、女の子が女の子を好きになるなんて……でもマサキが好きなの、一人の女の子といて、あなたが好き。だからあの日、勇気を出して、あなたにモデルを頼んだの」

 言葉尻が段々と震えてゆく。早苗さんの顔が見る見るうちに暗くなって、膝の上に置し付けられた手も震えていた。

 思わず早苗さんを抱きしめた。思わず、なんかじゃない、愛しくて愛しくて堪らない女性を、力一杯に抱きしめる。
 絵の具がついちゃうよ、泣きそうな声で早苗さんが言うがそんなこと今は気にならない。

「僕も、早苗さんが好きだ」
「っ!」

 じわりじわりと制服の肩口が濡れてゆくのがわかる。震える手が僕の背中に回された。

「早苗さん、泣かないでよ」
「だって、とっても嬉しくて……諦めていた恋だから、とっても嬉しいの」

 絵の具臭い小さな小さなアトリエで、早苗さんのお腹が鳴るまで、僕らは抱きしめ合った。

「マサキ、苦しいよ」
「だって、嬉しくて」

 その日、僕らは画家とモデルなんてちっぽけな関係ではなくなった。二人でいる時間も増え、とうとう早苗さんにもらった合鍵が役に立つ日は来なかった。

 ちなみに、通り魔は後日警察に捕まったそうだ。



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