如何してこうなったのか等、其れこそ如何でも好いのだ。
何時までもこの気持ちを抱えた儘では居られないと、そう思っていたのは確かだった筈なのに。
倫理観とか道徳的観念とかそんなこと知っていて想ってしまったのだし、それでも相手はあの中禅寺さんだったのだから如何しようもないともわかっていた。
だからこそ、色々な意味合いで遂に痺れを切らしてしまった私が行動に移してしまったのは、ある種当然だと思ってしまう程度には毒されていて。けれど屹度どんな行動をしたところで、何時もの様に流されるのだろうとも頭の片隅では冷静に考えていた。
そう、その筈だったのだ。
叶う見込みなど在りはしないと考えていたが故の行動だったのに。
「……千鶴子さん、に」
「君から誘っておいてそんな無粋なこと云うものじゃないぜ」
するり、と男の人にしては細い指で頬を撫でられる。それだけで背筋が粟立った。
彼と話している内容自体は冷静なように見えて、その実酷く動揺しているのだから性質が悪い。
痺れを切らした私は、唐突に本を奪って彼の唇に自分のソレを重ねた。
行動の意味は直接的に相手に伝わるとわかっていて。でも、それ以上を求める気はなく。
つまりは、ある種最後だと思っていたのではないかと今にして思う。
――だったというのに、唐突な私の行動に何の驚きすらなく極自然に彼の指は、掌は私の後ろへと回りより深いモノを要求してきた。
全く予期していなかったその行動に、思わず自分から求めたものだということも忘れ抵抗すればそれを押さえつけるかのように激しいものへと変わる。
数秒か数十秒か、それとも数分か。
少なくとも頭が回らなくなる程度には融けてしまったその頃に、漸く放された。
そうして、ゆっくりと床へと倒される。視界に入れられるのは彼の緩やかに持ち上げられた口元のみ。けれど、それすら先ほどの行為の所為で濡れていて直視できない。
彼からの視線はしっかりと感じているのに。
故に、思う。
……嗚呼、矢張り彼はこんなにも冷静だというのに。
屹度彼にとっては只の揶いでしかないというのに。
希望を棄てきることの出来ない私は何と愚かなのだろうか。
身体は既に、というよりも当の昔に熱くなり体温が高くなっていて。
実にゆっくりとした動きで薄いシャツの上から肌をなぞられ続ける。
彼の指先は随分細くて白いけれど、矢張り男の人の手なのだ。女の私とは違う。
触れられる度に落ち着き、肌と同化していく様な空想が頭に紡がれる。違和感が無い。
ずっと緩慢で何とも焦れったい動きを繰り返したその指にもどかしさを感じる。
何時の間にやら自然と身体を動かしていたらしい。くつり、と喉奥で笑われた。
「焦れたかい」
「…そんなの、ずっと前からですよ」
「違いないね」
もう一度、今度は含んだように口端を上げて笑った。
その笑みを見る度に私は心臓が跳ねて堪らないのだ。体温が上がって仕方ない。
初な子供でもあるまいし、況してや初めてでもないというのに何故こうも気持ちだけが昂るのか。
一々彼と比べて悲しくなる。温度の差に気持ちの差に。
彼が斯うして触れてくれるだけで幸せだと夢見ていた筈なのに。疑問や空しさなど積るばかりだと知りつつ迫ったというのに。
「何を考えているんだい?」
ふ、と指の動きを止めて私を見詰める。
吸込まれそうなと表現するには濁りがあって、闇のようだと表現するには温もりのある不思議な色だと常々思う。
止まった指は私の腰の辺りで静止していて、本当に同化してしまいそうだった。
「中禅寺さんでも浮気なんてするんだなあと思いまして。愛妻家なのに」
「気取っているだけさ。それに、僕は浮気なんてした覚えはないよ」
「……では、今現在のこの行為は何だと?」
無かったことにする心算なのかもしれない。
だって、ほんの気紛れだ。
静かに見返せば、また笑われた。
……今日の彼は、不思議とよく笑う。始めから斯うだった?
「今のこれは……そうだね。不倫、かな」
「どう違うんですか」
同じでしょう、という意味を込めて呟いたら少しだけ不機嫌そうになった。
眉根が寄せられて、腰に当てられていた指先が胸元へとのびる。
「浮気というものはね」
「……はい」
「読んで字の如く、なのだが『心が浮ついて変わり易い様』をさす」
そのまま指は胸の上へ置かれる。
視線は私から全く外されない。私もまた外さない。外せない。
見詰た儘でいれば、指は緩やかに私の胸を往復する。
その動きに先程までの情感は無く、焦るような彼らしくない直情的な雰囲気がするのは私の願望なのだろうか。
「……じゃあ、不倫は…?」
「『倫理や人の道から外れたこと』」
「…もっと酷いということですか」
「まあ、そうかもね」
其れは私の斯の感情を知っておきながら弄んで捨てることを指すの。
聞けやしないけれど思考の片隅に浮かんでしまい、元々目を合わせることすら出来なかった視線を更に大きく逸らす。
「浮ついていない方が罪だなんて可笑しな話だと思わないかい」
「――……何、を」
「本心であればある程に罪は重い。
"そういったこと"がある故に人であるのに、それを人の道から外れる行為と呼ばれるのは甚だ遺憾だろう」
低く甘美に。毒のように沁みこむ。
何を言うのかわからない。先を聞きたいと思わない。それなのに、静かに反響するその声は言葉は何より狡く好きなんて。
外したソレをゆるり戻せば深まる黒い夜。吸い込まれて消えそうになる。
「……今の状況は、浮気とは違うと?」
「同じだと思うのかい?」
そう言って細められた眼は何を湛えているのか。
私には理解らない。理解らせようとしていないのかもしれない。嗚呼、所詮は何も――。
指先が、心臓の真上で止まった。
「つまりは、」
ゆっくりと目を合わせられる。吐息がかかるほど近い位置に迫られる。
心臓が壊れそうだ。
「僕は本気だよ」
唇が重ねられた。
触れるだけの、たったそれだけの行為。
…ああ、なるほど。
そっか。
(彼も私と同じ程熱いことに、漸く気付いた)
京極堂シリーズはどうしても雰囲気がこっち系になるのは何故ですか。
浮気と不倫の違いについて考察し始めたのがいけなかったんですか…!?
そして補足説明を。
普段から冷たい指で触れられたら違和感あるはずなのに違和感なく混じるのは、相手も同じくらい高い体温だから。
つまりは相手も同じくらい思っている、という感じかなあと……。