タナトスの香り


むせ返る程の花の香が苦手だった。
その香が引き連れて来るのは死だったからだ。



タナトスの香り



「珍しいね、藤原がこんなとこに来るなんて」

振り返りもせず名無の背中が喋る。
その手が傾けたじょうろから水が零れて花を濡らす。

名無に虹がかかる。

「気まぐれ?」
「そんなとこ」
「花は好き?」
「嫌い」

今この場でさえ、名無すらも気持ち悪いく思うぐらいに花が嫌いだ。

花にいい思い出なんてないのだから。


「…そ、藤原は花が嫌いなんだ」

振り返り笑う名無。
その姿はまるで絵画のように理想化されたような美しさがあった。

「私も、よ。花は嫌い」
「矛盾…じゃない?」

そうかしら、と名無は頬に手を当てて悩み始める。

その手袋から覗く白く細い腕の方がやはり花より美しい。

「私はね」
「うん?」
「花、というか弱いものが嫌いなの………でも私が世話をしないと生きていけないこの子たちは愛おしいわ。水をやって、肥料を与えて、害虫を駆除して…私がいないと死ぬ運命……ほら、かわいい存在だと思わない?」

「やっぱり矛盾だ、嫌いなら最初から育てなければいい。自分より下等なモノがほしければ他にもいるだろう?」

「例えば?」
「…犬とか、人でもいい」
「やぁよ」

いやらしい笑みを唇に貼付けて名無は一蹴。

「そんな反抗しそうなモノなんて」
「従順なのが好きなの?」
「好き、大好き……」

うっとりと、どこか遠いところを見る名無は美しい。
その内面はどんなに汚れていても譲れないものを語る人間は美しい。
その美しさに同族の憐れみを感じて…手に入れたくなった。

名無はこんな世界にいるべき人間ではない。


「名無…力が欲しくはない?」
「力…?」


右手を彼女へ差し出す。


「全てを従えることの出来る…力。誰にも邪魔されることのない絶対の力……名無、欲しくない?」


名無のきょとんとした表情が、薄ら寒い微笑へ変わる。
この世から切り離された笑顔

そう、その笑顔が見たかった。

「それを手に入れれば、私は幸せになれるのかしら」
「もちろん、みんな幸せになれる」


彼女の冷たく細い指が重ねられた。

「なら、欲しいわ」










捨てられた花たちの上にじょうろが落とされ、そして誰もいなくなった。

残されたのはいつまでも香る花の甘さだけ。

死者を嘲笑うタナトスの笑い声だけ。

Up、10/02/03


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